□ ねこねこさんのおはなし □
僕が駅の切符売り場で、いつものように百二十円の切符を買おうとしたとき、切符売り場のはじっこの柱の陰に、ねこを入れておくキャリーバッグがぽつんと置かれているのに気付いた。バッグは小綺麗な白い奴で、半透明の扉の上に桔梗みたいな青みがかった紫色の文字で「ねこねこ」と書いてある。しかもよく見るとバッグの下には、旅行用のトランクのと同じようなキャスターが付いていた。僕はその奇妙な文字と使えなさそうなキャスターが気になって、お釣りの十円玉を取り落とした。だって、あんな背の低いキャリーバッグにキャスターを付けたって、押して運べるはずないじゃないか。
自動改札機の横に、駅員のいる窓口がある。いつもは窓口になんかほとんど目を向けることはないけど、僕はその日たまたま、そっちに目をやったんだ。理由は分からない。やっぱり何か、不思議な気配を感じたからだろうけど。窓口からは若い駅員が身を乗り出して、困ったように首を横に振っている。そして、その視線の先にいたのは、小学生でもおじいさんでもなかった。そう。最初、僕は駅員が一人でしゃべっているのかと思ったんだ。何しろ、彼の前には、前足をきちんとそろえて座った綺麗なねこが首を傾げていたわけで。ねこはしきりに何かを言っているようで、駅員もしどろもどろに答えているようで不思議な光景だった。窓口の奥の方から、白髪混じりのおじさんが出てくると、若いのと並んでねこを覗き込んだ。
なんだか変なねこだな、と思いつつも、僕だって用事があるから駅に来たもので、そうそうねこ観察ばかりもしていられない。ところが、ホームに上がってみると、いつもの電車はもう発った後で、僕は所在なくホームの時刻表を眺めた。次の電車の来る時刻ぐらい、分かってはいるけども。日陰に立っていても風はなし、汗をハンカチで拭いながら、足早に行きすぎてゆくサラリーマンの扇子の声を聞いていた。
僕がホームに上がってきっかり五分後。予定通り、電車が姿を見せる。その地鳴りのような車輪の音の間に、カラコロカラコロ、と旅行鞄を引くような響きが紛れ込み、しかしその音は妙に軽やかで、何だろうと思いながら振り向くとそこには「ねこねこ」と書かれたあのキャスター付きのキャリーバッグ、そしてそれを押すさっきのねこ。あの改札を抜けてねこはプラットホームにまでやって来ていた。しかも自分でキャリーバッグを押して。
ねこは僕と同じ扉から電車に乗り込むと、慣れた手つきでキャスターのロックをかけて固定し、半透明の扉を開けバッグの中に入って、前足を揃えて姿勢正しく座った。だとすると「ねこねこ」はこのねこの名前だろうか。様子を一部始終じーっと見ていた僕は、ねこのまっすぐな視線にぶつかってしまい、うろたえた末になぜか恐縮して小さい会釈をしてみた。するとねこは深々と頭を下げ、
「こんにちは。」
と言うではないか。僕はますます混乱して口を滑らせ、
「お出かけですか?」
なんてばかばかしいことを尋ねてしまう。
「お出かけです。あなたもですね。」
ねこは妙に丁寧に返事をした。そして生真面目に僕の目を見た。
「あの、さっき駅員と話していましたね。」
開き直って僕は普通の会話をしようと決めた。僕は今まで電車の中で見知らぬ人と話したことなんてない。見知らぬねこどころか、ねこと会話をするのも初めてだ。でも話すチャンスがあったらしゃべればいい。それがたまたま電車の中で、しかも相手はたまたまねこだった。それだけなんだ。でも、相手が初対面のねこだからどうだって言うんだ。
「えぇ、あの若い駅員の子。物わかりが悪くて困りました。ねこはキャリーバッグに入っていれば電車に持ち込めるって、何度言っても理解しないんです。保護者が一緒じゃなきゃ駄目だって。私、大人ですよ。」
走り出した電車の音がうるさいのか、僕を見上げているねこねこさんの耳は、せわしなく立ったり伏せたりしていた。僕は向かいの座席に座って、膝にのせたリュックにひじをついて、
「じゃぁ、電車代は大人料金で?」
なんてまた、ばかばかしいことを聞いてしまう。でもなんだかこれが立派な社交辞令の文句なような気もしてきた。
「もちろん。当たり前じゃないですか。百二十円、耳を揃えて払いましたよ。」
しかしねこねこさんは、僕以上に大真面目に几帳面だった。言いながら耳をぴっ、と揃えて胸を張る。それから一転、うっとりしたように
「あなた、百円玉って見たことありますか?」
と、逆に質問を仕掛けてきた。僕は急な展開に動揺して、返事ができなくなった。ねこねこさんはそんな僕の様子にはお構いなしに話を続ける。
「あれは実はね、雲でできているんですよ。特にあの縁のぎざぎざなところ、さわってご覧なさい。分かりやすいから。あれはね、雲を集めて作っているんです。」
少し興奮したように、つやつやした前足の爪をちょっと出して、にぎにぎしている。僕の隣りに座っていたおじさんが、ぎょっとしたように身を引く。後で考えてみたら、彼はねずみによく似ていた。僕は財布を出して百円玉を探したが、見あたらない。
「私、ときどき哲学者なんです。」
背筋を伸ばしてねこねこさんは名乗った。
「あなたもぜひ、ときどき哲学者をやってみるといいですよ。哲学者になると、いろいろなことに気付きますから。」
窓の外を丸っこい雲がいくつも漂っている。あれがそのうち百円玉になるのかも知れない。そう思うと、百円玉ってすごい価値がある気がした。空にまで届くのだから。その雲をさえぎって窓にホームが滑り込む。ねこねこさんは立ち上がった。
「さてさて、もう降りなくちゃいけません。もしよければ今度、私のお家に遊びに来て下さい。そう、桔梗の花が咲く頃がいいですよ。」
扉が音もなく開く。
「私の家はどこか、それが次に会う日までの宿題。」
そう言って品良く笑うと、ねこねこさんはキャスターのロックを優雅にはずして、カラコロカラコロ、と電車を降りて行き、僕はひじをついたまま、顔を上げて見送った。ねこねこさんはしっぽの揺らし方さえ優雅だった。しっぽの先をかするように不調法な扉が強引に閉まると、哲学者でも何でもないただの学生である僕は気が付いた。ここが自分の降りる駅だったということに。
その年の桔梗の季節は短かった。
そして今年の桔梗の季節も終わった。
結局、僕は哲学者になれなかった。ときどきでも、まるっきりでも、全然なれなかった。
だからだろうか、まだ僕はあの日の宿題を抱えてうろうろしている。宿題を抱えてはいるけど、あれから全然進展はないのだ。
最近ではそれどころか、雲を見て、あれはせいぜい百円程度の代物か、と思うような大人になってしまいそうになっている。宿題を忘れそうになると僕は、あの日の切符を引っぱり出す。百二十円、耳を揃えて買ったあの日の日付は、インクが薄れてもうほとんど読めそうにない。