□ 月へ続く道 □



 そのとき、うさぎはなにも見ていなかった。ただぼーっと、時間が過ぎてゆくままに、座っていた。朝が来て夜が来てまた朝が来た。うさぎに関わりなく毎日が進んでいた。
「なんだ、うさぎか。」
 高いところから声がした。庭を囲む灰色の塀の上に、見たこともないものがいた。うさぎは伸び上がって声のする方を見た。
「おまえ、うさぎだろう。耳が長くて、草ばっかり喰ってるやつ。ふわふわで、もこもこして、そのくせたくましい後ろ足で、風みたいに走る・・・おまえ、うさぎなんだろう。」
 うさぎはそれまで、ずっとこの狭い庭に独りぼっちでいたものだから、他に動くものといったら人間しか見たことがなかったものだから、自分がうさぎであるのかどうかも考えたことなんてなかった。でも、耳が長くて、草ばっかりたべて、ふわふわで、もこもこで……それは確かにそうだった。後ろ足だってとっても丈夫だ。じゃあ、風みたいに走る?そんなことはしたことがない。
 うさぎは塀の上を見ながら、ゆっくりと後ずさった。それから自分の後ろ足をそっと上げて、走れるだろうかと、地面を蹴ってみた。
 タンッ
 軽い音が鳴る。
 塀の上の誰かが、それを見て鼻を鳴らす。
「そうだろ、おまえは、うさぎじゃないか。」
 うさぎはおっかなびっくり、しかし深くゆっくりとうなずいた。
 走れる。きっと、風みたいに走れる。
 どきどきした。
 人影が、庭に面した窓に映り、塀の上の誰かはするりと世界のあっちに消えていった。窓が開き、うさぎにいつもご飯をくれる人間が、顔を出した。
「今、ねこが来ていたでしょ。ひっかかれなかった?」
 あれは、ねこ。あの塀の上にいたのはねこ。
 その人がいつものようにうさぎを柔らかくなでてくれたとき、うさぎは目を閉じていつものようにうっとりとしながら、心臓はまだどきどきしていた。走れる。そのどきどきは人間には伝わらなかった。

 それから毎日、うさぎはずっと塀の上を見ていた。ときおり、走る練習もした。三歩跳ねては向きを変え、五歩跳ねては塀にぶつかりそうになり・・・うさぎは自分がうさぎだという自信を持った。
 ある日、ねこがまた、塀の上に現れた。うさぎはねこが何か言うものを思って、じっとぴくりともせずに見つめた。ねこも期待されることに悪い気はしないらしく、フンッと鼻を鳴らすと、
「うさぎというのは、月にいるものだ。月って、分かるか?空にあって、夜、白く光る丸かったり細かったりするあの光だ。あそこにいるものなんだ。」
 と、庭を覗き込むようにして教えた。それから誇らしげに、もう一度鼻を鳴らした。
 だから自分は独りぼっちなのか。みんな仲間は月にいるのか。だから周りにいるのは人間ばかりなのか。
 それまでうさぎは退屈はしたけれど、寂しいとは思わなかった。あまりいろいろなことは思わなかった。ただなんとなく満足だった。みんな優しかったし、なにも不自由はなかった。だが、急に、会ったことのない仲間が恋しくてたまらなくなった。
 だって、走れるのだもの。
 この足で、このたくましい後ろ足で風みたいに走れるのだもの。
 うさぎにとって塀の向こうは全く関係のない世界だった。しかし塀の向こう、月というところに行けば、もっとたくさんのうさぎに会えるのかも知れない。会いたかった。わくわくした。
 うさぎはまた後ずさった。それから力強く塀に向かって走って見せた。ねこは目を細め、
「ほぅ、」
 と言った。
「……うさぎ、月に行きたいのか?」
 うさぎはうなずいた。ねこは笑った。
「月まで走れるか?月は遠いぞ。」
 そして、塀の向こうにするりと消えた。戻ってくるかと思ったが、戻ってこなかった。その晩、薄い月が暗くなる夜空に沈んで消えたのを、うさぎは立ち上がって見ていた。月も塀の向こうに消えた。
 塀の向こうへ。
 うさぎは塀の下の土を掘った。
 塀の向こうへ。
 土は硬かった。しかしうさぎの足はもっと丈夫だった。穴は少しずつ深く長くなっていく。

「おい、うさぎ。」
 ある日、うさぎはその大きな声にびっくりして、堀りかけの穴から転がり出た。ねこが塀の上にいる。うさぎは激しく身震いをして、体中の土くれを振り落とした。
「月の道を見つけた。来るか?」
 うさぎはもう、後ずさらなかった。穴に飛び込んだ。大急ぎで大急ぎで掘り進めた。
 塀の向こうへ。月へ!
 土の隙間に薄く西日が照る。力一杯土をえぐろうとのばした足が、ふと空振りをする。空が見えた。ねこが待っていた。
 塀の向こうへ!ついに塀の向こうに来たんだ。
「おう。」
 ねこはもう歩き出した。
 月へ!
「そろそろ月への道が通じる頃だ。早く行かないと、月が空に行ってしまうからな。」
 うさぎも泥だらけのまま後に続いた。でも、初めての仲間に会うのに、泥だらけじゃかっこが悪いと思って、急いで土を払い落とした。
 塀の向こうは、初めて見るものばかりだった。聞いたことのある音はたくさんあった。見た覚えのあるものはほとんどなかった。
「あれは、車。あれは、自転車。あれは、いぬ。」
 気が向くとねこは振り返って、教える。ただねこだけが頼りで、うさぎは一生懸命、足早に歩くねこを追った。その頼りになる後ろ足で、ねこに負けないぐらい、軽快に走った。
 風の匂いが変わる。西日が雲を茜色に染める。空は群青、そして次第に紫紺に移ろう。
 水の音がする。たくさんの水の音。
「海だ。あれが、海。水がたくさんあって、魚がたくさんいて、月が出てくるところ。」
 いくつもの段差と塀とを越えて、ふと、目の前に開けたのは、一面の水。夏に庭に人間が作ってくれるたらいのプールなんかとは全然違う、一面の、水。
 ねこが立ち止まった。うさぎも立ち止まった。
 水の向こうにゆらりと光る道が見えた。道の先には、月が、丸い大きな月が頭をのぞかせていた。夕方の柔らかい風が、月に向かって吹いて、ゆらゆらと、海の上には白く光る道が月に向かって伸びていた。
「見えるだろう?あれが、月に続く道だ。」
 うさぎは上の空でうなずいた。一歩一歩、海に近付いて、砂を踏みしめて、その湿った音を、ジャリ、ジャリ、と確かめて、目は一点、月へ向かう道を見ていた。
 そして、ねこを振り返り、深々と頭を下げた。波が足をぬらした。
 パシャッ、パシャッ。
 一歩、二歩。足下を確かめる。
 走れる。このたくましい丈夫な後ろ足で。風みたいに!
 うさぎは走り出した。
 月へ!
 一度だけ、立ち止まって振り返った。ねこがまだ見ていた。そしてすぐにまた、走り出した。ねこはうさぎの口許が、ありがとう、と動いた気がした。
 月が、ゆらり、と海を離れた。うさぎは間に合っただろうか。ねこは月が南の空にかかるまで、じっと海を見ていた。




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