□ 河童 □
学者を名乗るのはおこがましい気がするが、私はいわゆる生物学者、すなわち薄給の生物オタクである。
ある日のことだ。その日もご多分に漏れず、夜の次には朝が来た。私の研究室は西向きの大変恵まれた環境なので、朝日のまぶしさに悩まされることはない。論文と格闘し続けること早二十二時間。薄明るくなってきた窓辺でインスタントコーヒーに口を付けたとき、研究室の扉がそっと開いた。
振り返ればそこには……河童が一人。
河童はそそくさと研究室に入り込むと、遠慮がちにしかし断りもなしに応接用のソファに腰を下ろし、私にも座るように促した。生物学者ではあるが私は恥ずかしながら本物の河童を見たのは今日が初めてだったので、どうしてよいのか分からず、とりあえず勧められるままに腰を下ろした。
河童はその緑色の手で、厳かに一冊の子供向けの動物図鑑を私の前に広げた。水に濡れてべこべこのそれをもどかしげに開くと、河童は索引頁のカ行の辺りをゆっくりと指でたどり、私の顔を見上げた。もう一度カ行をたどる。そして見上げる。
河童の指が五往復ほどしたころだろうか。私ははたと気付いた。なるほど、この動物図鑑には河童という項目がない!ああ、という溜息のような私の声に、河童は嬉しそうに瞬きをした。河童にはまぶたがある、と私は心のメモ帳にしっかりとメモを取りつつ、腕を組む。河童は私を生物学者であると知って、河童が図鑑に掲載されていない不条理を訴えに来たのだ。徹夜明けだったせいか、何かがぐぐっと胸にこみ上げてきた。さて……どうしようか。河童はまっすぐに私を見つめている。
図鑑を数頁捲って、私はそっと索引のナ行の辺りを指さした。案の定、図鑑には人間は出ていない。河童は私の示した事実にはっとした。そして哀しみを湛えた目でしばらく何かを考えていたが、徐に甲羅から小さな鉛筆を取り出し。
「ニンゲン」
とたどたどしく索引に書き加えた。私は徹夜明けの頭で河童の友情になぜだか妙に感動してしまい、その四文字をまじまじと眺めた後、机の引き出しを漁って古い油性ペンを取り出した。それからカ行のある辺りを開き、カッパという三文字を心を込めて書き加える。
河童は涙ぐんでいた。何度も何度もその文字を見返し恭しく頭を下げると、図鑑を大事に抱えて厳かな足取りで研究室を出て行った。
コーヒーはすっかり冷めている。西の窓の陽光に、私はなぜか目頭が熱くなるのを感じた。