□ 夏みかん □
長寿庵は何の変哲もない蕎麦屋だけれども、変わった常連がいる。三十過ぎだという彼女はいつも一番奥のお座敷に行儀良く座っていて、目が合うと会釈してくれるし、普通に世間話なんかも交わすけれども、実は幽霊なのだ。
生前の健康志向が祟って、と彼女は言うが、とにかく幽霊の癖に夜更かしは苦手だとかで、朝から座敷にちんまり座ってにこにこしている。常連客である警察官の安田さんに頼まれて、子供会の肝試しで幽霊役を務めた翌日は、居眠りをしていた程だ。
長寿庵の主人は生前の彼女と面識はない。だが、彼女を追い出す気もないようで「怨念がおんねん」などと言って、一人でけたけたと笑っている。彼女は彼女で「怨念なんかじゃないですよう」と笑う。
ある晩、事件が起きた。長寿庵に深夜、空き巣が入ったというのだ。僕は、噂を聞きつけて、早速長寿庵に顔を出した。
「人を呼びに行く間に逃げられちゃうと思ったの。私、足遅いから。」
足はないけどね、と照れくさそうに彼女が舌を出す。
主人の家は店から少し離れたところにある。空き巣に出くわしてしまった彼女は、数日分の稼ぎがレジに入っていることを知っていたらしい。
「いつもお世話になってるし、今日くらい頑張らなきゃって思ったら、できたのよ。ひゅーどろどろ……ってヤツ。生暖かい風も吹いてくるしね。もうこれはやるっきゃないって思って、恨めしやー。」
表蕎麦屋ーと彼女は時代がかった幽霊のまねをして見せる。いや、本当に幽霊なのだけども。
「そしたら空き巣のヤツ、からきし意気地なしで失神しちゃったの。交番まで安田さん呼びに行って、それで一件落着。でも、安田さんにも見てもらおうと思って、ひゅーどろどろ……やってみたんだけど、できなくてね。」
火事場の馬鹿力ってヤツだったのかしらねと彼女が言うので、僕もそんなもんかもねぇと相槌を打つ。
「何かすっきりしちゃった。もう行こうかな。」
彼女はさばさばした表情で伸びをした。
その空き巣に強盗殺人容疑が掛かっていると、この前安田さんから聞いた。若い女性を殺したらしいけども、殺されたのが彼女なのかどうか、僕らにはもう確かめるすべもない。
彼女の居なくなった長寿庵は、相変わらず何の変哲もない蕎麦屋だ。一番奥の座敷にも、最近では時折客が入る。見知らぬ年若い女性客の紙袋から温かなオレンジ色の果実が覗く。見るともなくそれを見て、僕はふと彼女のことを思い出した。