□ 一 □


 町は静まりかえっていた。
 人通りもない深夜。家々は戸を閉ざし、灯りも見えない。
 誰もいないのは好都合だとは思う。だが、怖くないわけはない。
 一人きりで夜を過ごすのは、記憶の限り初めてだった。小さな旅芸人の一座に物心付く前に拾われて以来、ずっと彼らとともにいたのだから。
 ――だけど……もう帰れない。
 秋蘭は懐に忍ばせた笛にそっと指先で触れた。
 いきなりいなくなった秋蘭を彼らは恩知らずだと怒っているだろう。しかも座長を殴っての逃走だ。恩知らずには違いない。秋蘭もそのことはよく分かっていた。
 ――座長とはもともと馬が合わなかったのだ。
 小さく頭を振って秋蘭は空を見上げた。
 不条理な理由で殴られるのも腹は立ったが、それは我慢すれば良いだけのことだった。座長が不条理な理由で町のならず者達に酷い目に遭わされても、一座のために耐えている姿を、秋蘭は何度も見ている。だから、それくらいは耐えられた。だが、小さな女の子達にまで手を挙げるのを見ると、胸の奥がかっとなる。このままではいつかは我慢できなくなる。そう予感していた。いつかは座長に逆らって、追い出されるだろう、と。その「いつか」がたまたま今朝だっただけ。
 ずいぶん前のことのようだが、妹のように可愛がっていた芳春が、運良く豪商の目にとまって買われていったのは昨日のこと。
 その手のことは決して珍しくはない。一座にとって、芳春がいなくなることはもちろん多少は痛手であるけれども、芳春の穴くらいすぐに埋められるし、むしろ大枚が舞い込んできたのがありがたかった。芳春を売ること自体には、秋蘭も薄情なようだが実は大いに賛成だった。不安定な旅暮らしを続けるよりも、きっと大店の旦那に愛人として可愛がられていた方が幸せに違いない。芳春はきっと上手く立ち回るはず。上手くやれば息子の一人も産んで、ずっと落ち着いた暮らしができるはず。
 それだけなら何も問題はない。だが、芳春を買い取った大店の旦那が、ご祝儀として座長に酒を振る舞ったのだ。そして、夜明けごろにようやく安宿に戻った座長が、眠っていた秋蘭を呼びつけた。
「その小汚い笛でも売って、酒買って来い。もう一杯飲むぞ。祝い酒だ。」
 そのささいな一言が原因だった。
 旅芸人暮らしが嫌なわけではない。もうすぐ十五になるのに、女の衣装を着て、化粧までして見せ物になることだって、さほど苦痛ではない。秋蘭などという女みたいな名前を付けられたことだって気にしてはいない。女が音楽を奏でた方が客は喜ぶし、客を喜ばすのが旅芸人の仕事だからだ。だけど、この笛だけは別だった。秋蘭は本当の名前も出身地も親の身の上も知らない。一座に拾われたとき、握りしめていたというこの笛だけが秋蘭の身元を知る唯一の手がかりだった。
 ――それを知っているはずなのに。
 気が付いたときには座長は床に倒れていた。
 ――殴ってしまった……!
 半ば身を起こした座長の目を見て、秋蘭は恐れた。殴り返される恐怖ではない。本気で殴り合ったら自分は間違いなく座長に勝ってしまうだろうという恐怖だ。このままここにいたら、自分は座長を殺してしまうかもしれない。そんな恐怖。
「秋蘭……。」
 殴られた頬をさすりながら、座長はしばらく立ち上がらなかった。たぶん、立ち上がれないのだろう。彼だって今はっきりと思い知ったはずだ。力の差は歴然。老年にさしかかった座長に秋蘭を打ち据えることなど、もうできはしないのだと。
 だから逃げ出した。
 いつか、取り返しのつかないことをしてしまう前に、自分を育ててくれた人を殺してしまう前に、その人から逃げたかった。笛と、わずかばかりの金を懐に忍ばせて、秋蘭は今朝一座を抜けた。
 いくら旅慣れた身とはいえ、一日で歩ける距離などたかが知れている。夕方、城門が閉まる寸前に秋蘭は興陽の町に転がり込んだ。静かな小さな町だった。
 真っ暗な路地裏で塀に寄りかかり座り込む。警邏の兵士などに見つかったらやっかいだ。旅芸人ならどこで野宿していてもさほど怪しまれることはないけれども、自分はもう旅芸人と名乗ることもできないのだから。
 ――これからどうしよう。
 全く考えはなかった。身よりもないし、金だってほとんどない。仕事を探そうにも、特技といったら笛くらいなもの。別の旅芸人の一座に行き会ったら、そこに拾ってもらえばいいのだろうけれど。こんなことになるなら、占いのやり方でも習っておけば良かったかな。占いなら市の立つ日に稼ぐこともできそうなものだけど。
 春も終わりに近い。野外で夜を過ごしても辛い気候ではない。それがせめてもの救いだった。
 そういえばこの町には女の妖術使いがいるんだっけ。
 ふとそんな噂を思い出す。不安定な旅暮らしをしていると噂にさとくなる。上手く情報を拾い集めていかなければ、危険な目にだって遭いかねない。太平の世とみな言うけれど、実際、山賊やら強盗やら酷吏やら蛇やら虎やら、この世界には危ないものがいっぱいあるのだ。
 ――妖術使い、か。怖い人じゃないと良いんだけど。でも、もし呪術に使う生け贄を探しているとしたらどうしよう。見つかったら、生け贄にされちゃったりして……。
 暗闇の中、嫌なことを考え始めると、その思考を追い払おうとしてもなかなかできないもの。
 膝を抱え、額を膝に押しつけるようにして、秋蘭は目をつぶった。
 ――考えるな!もう、妖術使いのこととか、考えるな!他に何か考えること……そうだ。服のことを考えなくちゃ。
 いつものくせで髪は少女のように結い上げている。着物も普段着ている女物のまま飛び出してきた。背格好の似た男役の役者の服を無断拝借してくればよかったのだが、それに気づいたのは昼近くのことだった。その一事を考えても、自分がどれだけ旅芸人の感覚に染まっているか思い知らされる。秋蘭にとって女装は衣装も普段着もなく、一番着慣れたかっこうだったし、そもそもそれ以外の服など持っていなかったのだから。だが、このままでいるわけにもいかない。どこかで男物の服を手に入れなくてはならなかった。そうしなくては、まともに仕事も探せないだろう。
 ――盗むしかないのかなぁ。
 有り金全部はたいても着物など買えない気がした。自分で服を買った記憶はない。服など、誰かのお下がりを着ていれば事足りた。だから本当は服の相場など知らない。もしかしたら買えるのかもしれないけれど。だけど、いつ仕事にありつけるか分からない今、現金は少しでもとっておきたかった。
 ――だけど、盗みなどしたら座長に殴られるし。
 そこまで考えて苦笑する。もう殴られないんだ。座長に殴られる心配はしなくていい。
 顔を上げた。
 低い空には半ば欠けた月が霞んで見えた。
「……。」
 びくり、と秋蘭は身を震わせる。自分を覗き込む男がいたのだ。
「この町の者ではないな。」
 低く無表情な声で男が呟いた。
 黒ずくめの服に蒼白な顔をした大男である。どこか普通ではない薄気味の悪いものを感じて、秋蘭は座り込んだままじりじりと後ずさろうとした。しかし、背後には塀が迫っている。
「行く場所がないなら来い。」
 言葉少なくそう命令される。男の顔から目が離せない。
 ――人買い、だろうか?
 自分が女のかっこうをしていることを思い出した。女だったら慰み者にするつもりか、そうじゃなきゃ売るつもりか。男だったら力仕事させるために売るのかな。あるいは男でも慰み者にする趣味の人もいるって聞くけど……。
 頭の中はとりとめもなく混乱した思考が飛び交っている。男は反応を返さない秋蘭にいらだつ様子もなく、ただ無表情に秋蘭を見据えている。
「……お前、誰?」
 ようやく言葉を見いだした秋蘭に、男は短く答える。
「蒼郎。」
 妙にしめった風が吹いていた。
「だが、お前に用があるのは私ではない。私の主が若い女中を探している。だからお前に声を掛けた。」
 淡々と蒼郎と名乗る男が告げる。
 ――若い女中?
 家の下働きだけなら、もしかしたら女のふりをしたままで何とかなるかもしれない。声は少し低いけど、声の低い女の子だっていないわけじゃない。何だか得体の知れなくて薄気味の悪い男の誘いだから、怖くないとは言わない。だけど……背に腹は代えられないし。
 秋蘭はようやく落ち着いてきたのを感じる。寒くもないのにすっかり冷たくなった指先も、いつの間にか震えが止まっている。
 ――この男に付いていってみるか。
 決意を固めかけた秋蘭に、男が一言付け加えた。
「男の女中でも構わん。」
 ――男の女中?
 ――こいつ、俺が男だって気付いた……?
 今まで声を聞いても自分を男だと見抜いた人はいなかった。
 びっくりして男の顔を見上げたが、男は全く気に懸ける様子もなく、相変わらずの無表情のまま。
「どうする?」
 短く問われて秋蘭はためらった。
 なんだか薄気味が悪い。なんだか怖い。
 この男の主も、こんな感じの人なんだろうか。
 ――だけど……どうしようもない。背に腹は代えられない。
「行く。」
 秋蘭も短く応じて立ち上がった。
 くるりと背を向けて歩き出す蒼郎。着物に付いた土埃を払い落とし、秋蘭も小走りに彼に続いた。




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