□ 二七 □


 水原が逮捕され、青青が助け出された翌日、雪の溶けたぬかるみ道をたどって、陸善史は山賊討伐のため山へと急いだ。頭領捕縛の報が届くか届かないかのうちの、混乱に乗じて叩くのが良かろうとの判断である。精鋭の兵士を与えられたとはいえ、山賊には地の利もあり、命がけで戦うだろうから決して侮れない。陸善史をはじめ、兵士達もみなそう考えていた。
 だが、予想に反して、大半の山賊達は抵抗しなかったという。
 皇帝の旗を掲げた陸善史の軍を見ると、すぐに恭順の意思を表した。拍子抜けしたようにそう語った陸善史に、玉花楼の玄関まで出迎えた青青が笑った。
「大した手柄ね。」
 山賊達を一網打尽にして、しかも被害はほとんど出ていない。
 一階の宴の間に通された陸善史は、居並ぶ古なじみ達に会釈して腰を下ろす。青青と朱朱、蒼郎、風来、張録、郭宝。秋蘭と燕燕も招かれていた。今日は陸善史の戦勝祝いであり、再会の宴である。陸が興陽に戻ってきて早々、青青がさらわれたため、旧交を温める間さえなかった。それを取り戻すかのような、穏やかな冬の日和。窓から射し込む陽射しは三日前の雪など嘘のような暖かさである。
「青青お嬢様。」
 酒の注がれるのを待たず、陸善史が口を開いた。
「水原から送られた手紙をお持ちですか。」
 青青が首を振る。
「焼いちゃった。」
 少し目を見開いて驚いたように青青を見やった陸であったが。
「なるほど。」
 と頷く。
「では、何が書いてあったか、伺ってよろしいでしょうか。」
「今夜、迎えに行くから一緒に山に来てくれって。それだけ。」
「それだけ、ですか。」
「そう。それだけ。」
 にこりと微笑んで、青青が陸善史の杯に酒を注ぐ。
「あの男が山賊だということは気づいておられたのですよね。」
「うん。」
「いったいいつ。」
「二度目に会ったときかな。左手を取られて。あのときの人だって気づいた。」
 青青は左手に触れられることを極度に嫌うことを秋蘭は知っている。
「私、山から下りるときにね。手を引いてくれたその人の手ばっかり見て歩いてたの。」
 ――だから、あの手は振り払えなかった。
 あの人は今でも山賊として生きているのだろうということは予想できた。山賊どもに報復するために青青は生きていた。
 ――だけど、あの手は振り払えなかった。
 安の屋敷でも青青は丁重な扱いを受けた。もちろん、軟禁状態ではあったけれども、決して粗略に扱われることはなかった。
「雪が止んだら山に行くって。軍隊が山狩りを始めないように、時間を稼ぐための人質として来て欲しいって。」
 水原ははっきりとそう告げたのだという。
「必ず降伏するから、って。」
 山賊達の中には生まれついての山賊もいる。好きで山賊をやっている者もいる。だが、それは一握りにすぎない。ほとんどの者は、やむにやまれぬ事情で、食うために山賊となった者ばかり。彼らはもともと山で木材を切る人夫だったり、それを麓の問屋まで船で運搬する人夫だったりした。堅気にしてはいささか荒っぽいところがあったにしても、決して好きで山賊をやっているわけではない。
 ――だから、あいつら、喜んでんだよ。兄貴の仕事、回してもらえてさ。
 水原は確かにそう言ったのだ、という。
 安の材木問屋から仕事を回してもらえれば、刃物を持ち出さなくとも稼ぎになる。
 ――あいつら、ばかだからさ。他にどうしていいか分からないまま、気が付いたらここまで来ちまっただけなんだ。堅気に生きてゆくだけの知恵もない。悪事にもずいぶん手を染めた。だから興陽には帰れないだろうけど。でも、山を根城に戦争おっぱじめる気なんてかけらもねぇんだよ。
「私、あいつらを恨んでいた。あいつらに、朱朱と同じくらい怖い目を見せてやりたいって思ってたの。それがあいつらにふさわしい運命だって。」
 青青の言葉に朱朱が目を伏せる。
「でもね。思ったの。なんで、水原は私達を恨んでいないんだろうって。私達を助けてくれた水原を、私は今まで助けなきゃなんて思いもしなかった。なのに、なんで水原は私達を恨んでいないんだろうって。」
 ――生きていてくれたか。
 朱朱に気づいた水原の言葉。
 水原は朱朱が生きていたことが嬉しかったのだ。
「私はここに居て、水原はあそこに居て。」
 ――それが運命だった。
 呟くような青青の言葉に、朱朱が押し殺したように嗚咽した。


 戦勝報告と、恩赦の願い出のため、陸善史は翌日には興陽を発った。
「本当に都にお戻りにならないのですね。」
 郊外まで見送りに来た朱朱に、何度目かの念を押す。
「私は白沙村で生まれ興陽で育った。帰る場所は都ではないよ。陛下にはくれぐれも御礼申し上げてくれ。」
 笑いながら応じる朱朱。陸善史は深く頭を下げた。
「承知いたしております。」
 朱朱からの書状をしまった懐を確認するように軽く押さえる。
「あ、そうでした。」
「どうした。忘れ物か。」
「李師師に何か伝えおくべきことはございますか。」
 李師師とは、皇帝お気に入りの妓女だという。李師師の師匠と、朱朱達の母親が仲が良かったと聞いている。朱朱が小首をかしげた。
「そうだな。御礼とともに、一度、お目に掛かってみたいとお伝えしてくれ。」
「主は李師師とお会いになっているはずですよ。陛下に頼まれて、興陽までお二人のご様子を見にいらしてますから。李師師の証言があればこそ、陛下がお二人のご無事を信じてくださって、討伐軍を託してくださったのです。だから。」
 きょとんとする朱朱。
「まさか。」
 陸は白髪頭をかき上げて困ったように朱朱を見やった。
「『狐』と言えばお分かりになるのではないか、と李師師が申しておりましたが。」
「……李氏か!」
 途端、ころころと笑い出す朱朱。
「気づかなかったな。秋蘭。」
 ――あの妖艶な女の人が皇帝陛下のお気に入りの妓女!
 秋蘭も目を見開いて、朱朱に頷くほかできない。
 趙家の生き残りの情報を集めていたのは、そういうわけか。
 ここ数日のどたばたですっかり忘れていた謎も解けて、秋蘭はふぅっと空を見上げた。


 そして日常が帰ってくる。
「今日は梁の若旦那がいらしているんですよ。」
 くすくすと笑いながら、燕燕が席を勧めた。壁越しに、青青のはしゃいだ笑い声が聞こえてくる。青青と梁雲の関係は、今でも妓女と小間物屋のままで。
「変わらないね。」
「きっとあのお二人はいつまでもあんな感じですわ。」
 はにかんだように微笑んで燕燕が秋蘭の手元に椀を置く。
「ご結婚なさっても、きっと。」
「結婚するの?」
「さぁ?」
 食らいついた秋蘭に、燕燕がにこりと微笑んではぐらかす。
「分かりません。でも、そうだったらいいなって。」
 蒼郎は近いうちに朱朱と所帯を持って、興陽のどこかに小さな薬屋を開くのだという。
 最近の朱朱はすぐに泣くし、すぐに怒る。だがそれは昔の朱朱に戻ったのだ、と誰もが口を揃えた。
 ――主はあの日以来何もかもを押し殺してしまわれた。以前は青青お嬢様などよりずっとにぎやかな方だったのだから。今のがあの方の本当のお姿。
 風来がにこにこと見守る視線の先には、蒼郎相手に何かをまくし立てている朱朱の姿があった。
 ――青青お嬢様が蒼郎と二人で遊んでいるところなど見てしまおうものなら、「私の蒼郎に触らないで」と大騒ぎなさるような方だったからね。
 黙って朱朱の言い分を聞いていた蒼郎が、軽々と朱朱を抱き上げて額にキスをした。目を見開いて黙ってしまう朱朱。二人から目をそらし、苦笑気味に張録はにこりと言い加えた。
 ――蒼郎が惚れたのは、そんなわがままでやんちゃなお嬢様だったのから。一番喜んでいるのは蒼郎だろうよ。
「秋蘭様、何を考えていらっしゃいますの?」
 椀からゆらりと立ち上る湯気をぼんやり見つめていた秋蘭に、燕燕が尋ねる。
「何でもないよ。それよりも。」
 今日は笛を教える約束で、ここに来たのだから。薬屋の店員が妓楼で笛を教えるなんて、変な話だけれども。
 燕燕が譜面を取りに立ち上がる。
 卓の上には小さな独楽が一つ。
 山賊どもの恩赦からもう三ヶ月が過ぎている。
「今度、白氏の子供を見においでよ。小さいのに、すごい声で泣くんだぜ。」
「可愛いのでしょうね。」
 窓の外はすっかり春である。





<完>

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