□ 二六 □


「大旦那様。あんたの弟を気取るのもなかなか悪くなかったな。」
 にっと笑って、水原は刀の切っ先を朱朱に向ける。あっと思う間もなかった。刀はまっすぐに朱朱の喉元に突きつけられていた。身動きもできぬまま、目を見開いて秋蘭はことの成り行きを見守った。
「だが、それも終わりだ。」
「源!」
 水原の言う意味を理解しかねるのだろう。安潜は目を見開く。
「さて、お嬢さん。あんたが新しい人質だ。雪の中、申し訳ないがご同行願おう。」
 朱朱は動じる様子もなく、水原を見据えていた。そして目を伏せる。
「断る。」
 その瞬間、勢いよく扉が開いた。鍵などかけていなかったものらしい。飛び込んできたのは青青。蒼郎達が無事に助け出したのだろう。
「朱朱!」
 喉元に刀の切っ先を突きつけられている朱朱に、青青が悲鳴のような声を上げる。
「朱朱から離れろ!水原!」
 その声に呼応するように裏口の戸が蹴破られた。
「主!」
 飛び込んできたのは中庭に控えていた風来。肩にうっすらと雪が積もっている。
 廊下の奥で小梅が吠えている声がする。青青を下がらせて、蒼郎が居間に踏み込む。
「お前は……あのときの。」
 無表情な蒼郎の目が、一瞬、何とも言えない色を浮かべた。
 あのとき、朱朱と青青を助けてくれた少年が、今、朱朱に刃を向けている。
「くたばりぞこないが。」
 ちらりと蒼郎に視線を向け、水原が喉の奥で笑う。
「瀕死の方が連れて行きやすいかな。」
 刀の切っ先がすっと朱朱の肩口に据えられる。
 今にも飛び出しそうな青青を秋蘭は背中でかばった。
「あんなこと、もう二度と……。」
 青青がうめく。きっと今、青青の脳裏にあるのは、朱朱が斬られたときの記憶。
 水原の刀が閃いた。朱朱の左肩を薙ぐように振り下ろされる。
「源!」
 安潜の叫び声。
 刀が振り下ろされると同時に蒼郎が水原に体当たりを食らわせた。
「……なぜだ。」
 床に押さえつけ尋ねる。
「なぜ主を斬らなかった?」
 いつの間にか廊下の喧噪は止んでいた。荒い息を弾ませて陸善史が部屋に駆け込んでくる。蒼郎が水原を組み敷いているのを目にして、部下達を戸口に控えさせた。
「斬りそこねただけだ。」
 水原は抵抗しようともしない。薄い笑みを浮かべたまま、蒼郎を見上げ、そして朱朱に目をやった。
 ――斬りそこねただけ……?
 そんなはずはなかった。斬りそこねる距離ではない。それに、朱朱には左腕がないということを、水原は間違いなく知っていた。なのにわざわざ左肩に刀を振り下ろしたのだ。斬るつもりがなかった、のだ。
「……なぜあのとき無理矢理にでもお前を連れて共に逃げなかったのか。ずっと後悔していた。」
 蒼郎が低く呟いたのがかすかに聞こえた。水原の表情がゆがむ。
「くだらねぇ。それが運命ってやつだったんだろ。」
 しんしんと窓の外に雪は降り続く。
「善史。」
 蒼郎が陸を振り返る。心得て陸は兵士達を促した。その場で縛り上げられる水原。安潜は呆然と立ちつくしていたが、よろよろと水原に歩み寄った。
「源……!」
 床に座らされたまま縛られた水原は、安潜に冷ややかな視線を向ける。
「残念だったな。あんたの弟はとっくの昔に流行り病で死んでいるよ。」
 にっと口元に薄い笑みを浮かべ、「騙されたのはあんたがお人好しだからいけねぇんだ」とさげすむように毒づいた。
「だいたい、拾ったガキが山賊の頭になんぞなれるもんかよ。」
「源!」
 安潜はそれでも水原を源と呼んだ。そして陸の前に跪く。
「お役人様、この者は兄である私の頼みを断りかねて山賊のまねごとをいたしておりました。咎はこの者ではなく、私にございます。どうぞ、どうぞ、私をお縛りください。この者にはご慈悲を。どうか、どうか。」
 額を床にすりつけんばかりにして哀願する。舌打ちして目をそらす水原。
「いかれちまったんじゃねぇのか。このオヤジは。」
 水原に一瞥を投げ、陸善史は凛と言い放つ。
「この軍は皇帝陛下の軍なれば、罪を見逃すわけにはいかぬ。そなたもそれ以上我らがつとめを妨げるのであらば、容赦はせぬ。」
 役人らしい高圧的で決めつけるような言葉に、安潜は呆けたように座り込んでいたが、ゆっくりと立ち上がった。
「ならばせめてこの者に別れの杯を与えますこと、お許しください。」
 棚の奥から小さな瓶を取り出し、自ら杯を満たす。呆然と立ちつくしていた召使いが、はっとして目を見開いた。
「連れて行け。」
 酒の支度をする安潜を意に介さず、陸善史が部下に命じる。
「お待ちください!せめて一口だけでも。」
 兵士達が陸を見る。陸は首を振った。
「行け。」
 水原は一瞬、安潜に視線を向けた。その目は猛禽の色はなく、先ほどまでの毒づく風情もなく、ただ、穏やかな光のみを宿している。
「源!」
 搾り出すような安潜の声。
 抵抗する様子などかけらも見せず、水原は兵士達に囲まれて部屋を出て行く。
 その背を虚ろな目で見送った安潜は、ふと思い出したように手にしていた杯を口元に運んだ。
「おっと、待ちな!」
 がしゃん、と大きな音が響く。杯が床に落ちて割れている。安潜の腕をひねり上げている風来。残った酒を瓶ごと陸善史が中庭に投げ捨てた。
「よもやこの屋敷に鴆毒などあるはずがないな。」
 召使いに陸善史が厳しい口調で問う。
「ご、ございません。」
 応じる男の青ざめた唇に、秋蘭は、さっきの酒が鴆毒だったのかと驚いた。一口飲めば死んでしまうという猛毒の酒である。そのようなものが屋敷にあったら、それだけで重罪であろう。陸善史は安家をかばうためにあえて下手な芝居を打ったに違いない。
 だが、毒薬を持っていたことを知られても構わないから、残酷な取り調べのあと、恐らく残酷な方法で処刑されるであろう水原のために、せめてこの場で苦しまずに殺してやりたいと、安潜は考えたのだ。それが叶わないと知って、今度は自ら死のうとした。どこかに遺書が準備してあったのかもしれない。水原の罪を軽くするべく、全ての罪を自ら背負うような遺書が。
 暗澹たる気分で秋蘭は安潜を見やった。
 ――そこまで大切に思っているのなら……。
 ――せめて、ここで死なせてやれば良かったのに。
 水原が安潜を騙していたにせよ、兄をかばうべく偽っていたにせよ、水原が山賊の頭として囚われたことは間違いないことなのだ。
 秋蘭はすがるように朱朱と青青を見た。二人は寄り添って陸善史と安の大旦那を見守っている。陸が姿勢を正し、安潜を直視した。
「一つ問う。皇帝陛下の名の下に正直に答えよ。」
「はい。」
「先ほど、一人の山賊を捕らえた。あの者は、間違いなくその方の弟か。」
「……はい。間違いなく私の弟です。あざもほくろも……間違いございません。弟は兄である私が咎を受けることを恐れて、あのような偽りを申したに違いないのです。」
 安潜の目に涙が浮かんだ。恰幅の良い中年の男に似合わぬ涙が、頬にこぼれる。
 居間の片隅に小さな独楽が転がっていた。
「お役人様。どうぞ……私の弟にお慈悲を。私はどうなっても構いません。小さいころ、山賊に拐かされてただただ懸命に生きてきた私めの弟に、どうぞ、お目こぼしを。」
 陸は心を動かされた様子もなく、安潜を見返すとそっけなく応じる。
「法に背くことは許されない。あの男は山賊の頭として裁かれる。」
 ――確かに水原は青青を捕らえ、朱朱を殺そうとした。陸善史にはとうてい許せない相手なのかもしれない。だけど。
 ――だけど、水原が安源なのだとしたら、朱朱や青青と同じ立場じゃないか。
 見かねて一歩踏み出そうとした秋蘭を、朱朱が振り返った。そして穏やかに微笑む。
 ――大丈夫。
 声には出さず、そっと口を動かして告げた。大丈夫だから、陸善史を信じて、と。
 安潜の視線が床に移る。
「あ!」
 そこに落ちていたのは水原の抜いた刀。風来の腕を振り切るようにその刀に手を伸ばした安潜を、思わず秋蘭は突き飛ばしていた。慌てて刀を拾い上げる。
「……安潜殿。軽率な振る舞いは謹んでいただきたい。」
 陸善史の厳しい声が響く。
 貫禄に満ちた安潜の体が打ちひしがれて小さく見える。
「罪びとは裁かれる。それは当然のことだ。違いますか。」
 陸は秋蘭の手から刀を取り上げ、蒼郎に渡した。黙って蒼郎が鞘に収める。
 開け放たれた中庭への扉から、廊下の戸口から、冷たい冬の風が吹き込んでくる。陸善史は安潜にくるりと背を向け、仕事に戻るように廊下に二歩ほど踏み出してから立ち止まった。
「……ここからは私の独り言です。」
 低く抑えた声。陸善史の白い髪。それは長い孤独な戦いの証。
「長らく行方知れずになっていた皇帝陛下のご親戚の無事が確認された祝いとして、来月、大規模な恩赦が行われます。」
 はっと顔を上げる安潜に、振り向かぬまま陸善史が続けた。
「私は山賊に囚われて、むりやり仲間にさせられていた者達の恩赦を願い出るつもりでおります。討伐隊を指揮した私が願い出れば、まずその願いは通るでしょう。」
 廊下の奥に兵卒達の姿が見えた。水原をどこかに収容して、指揮官の下へ戻ってきたのだろう。
「あなたは私なのです。安潜殿。大切な人を山賊に奪われながら、のほほんと生き延びてしまった。何もできず、ただ、大切な人から与えられた財を頼りに、闇雲に生きてきた。そして今、やっと大切な人の力になれるときが来た。」
 早口にそう告げると、陸は部下達の方へと歩みだす。そして振り返った。
「あなた以外に誰が必死に生き延びた水原とやらを抱きしめてやれるというのです。軽率な振る舞いはくれぐれも謹んでいただきたい。よろしいですな。」
 兵卒が陸善史の前にかしずいて報告を始める。その声はくぐもっており、居間にまでは届かなかった。



□ 前 □    □ index □    □ 夜歌譚 目次 □   □ 次 □