□ 一 □
突然、甲板が騒がしくなった。船室には窓もなく、何が起こっているのかは分からない。だが見なくても見当は付いた。
「やはり、無理だったか。」
調度品などほとんどない狭い部屋で、椅子を引いて立ち上がった若い女は、誰に聞かせるともなくつぶやく。がっちりしたその体を灰色の地味な服で覆い、愛想なく引っ詰めた髪の後れ毛を軽く掻き上げる。指先はどこか苛立たしげに自分の首筋を何度か叩き、一瞬だけ、目を閉じた。そして意を決したように瞳を見開くと、同時に甲板に続く扉が勢いよく開いた。
「海賊だ。完全に囲まれた。」
足早に入ってきた男は、動揺を隠そうともせず、せわしなく瞬きを繰り返しながら小声で告げた。
「完全に?相手は何隻なんです?」
責める風もなく、女は冷静に確認する。
「今見えるだけで、七隻。もしかしたらまだいるかもしれない。たぶん、ただの通りすがりの海賊じゃない。前々からこの船を狙っていたんだろう。」
机に片手を置き、もう片手を額に当て、参ったように男はつぶやく。だがその独り言にも似た声は、部屋に入ってきたときよりはだいぶ落ち着いたように聞こえて。
「ジンジャー特使、落ち着いてご指示を。活路はあるはずです。」
「あぁ、分かっている。すまない。本来なら、貴女が指揮を執るべきところなのだろうが。」
「それはできません。指揮官は特使なのですから。今は最善を尽くしましょう。」
「あぁ、ありがとう。アイキ、それを……よろしく頼む。」
「はい。」
ジンジャー特使と呼ばれた、やや文弱にも見えるその男は、唇をかみしめると、それでも気丈にちらりと柔らかい笑みを見せ、来たときと同じように大きな音を立てて扉を開け放った。
「全船、全力前進!国王陛下と王太子殿下のために、最後まで力を尽くしてくれ!」
男達の野太い声が応える。彼らはおそらく、海に慣れないジンジャーが指示を出す前に全力で活路を探っていたに違いない。だが、船首でその身を危険にさらし、命を海兵達とともにしようとする都の高官の姿は、士気を高めるに十分だったのであろう。ジンジャーに応える男達の怒号は、決しておざなりなものではなく、誠意に満ちて甲板を行き交った。相手が七隻では、自分が指揮を執っても危ないものだ。たぶん、逃げ切れるものではない。よほど運がよくなければ……。アイキはふぅっと息をつく。みんな、全力で頼むぞ。
扉を一枚隔てた向こう側、甲板を覗くこともせず、アイキは船室の扉を閉め切った。鍵もかけた。そして、船室の一番奥に位置する、身の丈よりも高い棚を力一杯押しのける。戸棚の裏には人が一人やっと入れる程度の隙間があり、小さな、しかし頑丈に、華麗に作られた箱が収められている。棚の奥の狭い空間に体を押し込んで、身をひねるようにして棚をやっと元の位置にまで戻すと、小箱を抱き、アイキは膝を抱えるようにして座り込んだ。
表の男達が全員、連れ去られたとしても、あるいは殺されてしまったとしても、この部屋が見つからない限りなんとかなるだろう。この船に火をかけられたり、撃沈されたりしない限り。いや、火をかけられたとしても、そのどさくさに紛れて海賊の目を盗み、上手く海に逃れることができれば、もしかしたら何とかなる。だが。
アイキの指先が再び、コツコツと神経質に動き始める。悪い想像ばかりが脳裏をよぎり、自分の見込みの甘さに苛立ちが募る。
国王と王太子の旗を掲げて行く船を襲うような海賊なら、通り一遍の盗みでは満足するまい。余程の物を積んでいると期待して、そのぶん、相当に覚悟を決めて、この船を襲ってきたに違いない。徹底的に船室中を漁るだろう。こんな見え透いた隠し部屋などで、ごまかしきれるはずもない。
船は全力で進んでいるはずだった。だが男達の叫び声にどこか怯えるような響きを聞いて、アイキは覚悟を決め、目を閉じる。屈強で鳴らしたこの船の男たち。選りすぐりの海兵を揃えているのだ。その彼らが怯えるのには、それ相応の理由があろう。やむを得ない。手が小箱をなでるようになぞり、三つある鍵が全てしっかりと留まっていることを確認する。同時に、悲鳴と怒号、それから籠もった破裂音が船を揺らした。海賊船の砲撃だ。甲板の様子は見るまでもなかった。奴らは船に乗り移ってくる。そして圧倒する。こちらは三隻、向こうは七隻。百戦錬磨の海賊に立ち向かうのに、ジンジャー特使は勇敢な、しかしただの文官なのだ。海兵達がいかに優秀でも、勝負は目に見えている。
ガチャガチャと乱暴に扉を揺さぶる音が響く。それはすぐに体当たりの音にかわり、みしみしと嫌な音を立てて船室の木製扉は破られた。
「兄貴、何にもないよ。しけた棚があるだけだ。」
「馬鹿言え、もっとしっかり探せ。こんなご大層な船に、しけた棚だけなんてこと、あるわけねぇだろ。」
机や椅子が無造作に投げられ、壁を蹴る音、天井を小突く音、粗暴な動きをしていることが手に取るように分かった。アイキは眉をひそめる。船室に何かフェイクの宝箱でも据えておけば良かったか。しかし今更、如何ともしがたい。アイキは小箱を自分の膝の下に隠す。何の用もなさない小細工だと分かっていても、今、この一瞬を耐えるアイキにとっては、何もしないよりはましな気がした。棚が勢いよくガタガタと揺すぶられる。
「おい、それ動かしてみろ。」
天井と床にしっかり固定されているように見える棚が、易々とはぎ取られてアイキの視界から消える。棚を乱暴に壁に投げつけた二人の男達が満面の期待を込めて覗き込む、その視線を、アイキは座り込んだまま冷たく見据え返した。
「驚いた。こんなしけた女、隠していやがった。」
若い方の男は、まだ少年としか呼びようがない顔つき。強がった言葉を吐くことが大人の証であると思っているかのように、遠慮なくじろじろとアイキを見て、鼻で笑うように言う。
「馬鹿。こんなしけた女を守るために、こんなご大層な船にこんなご大層な隠し部屋を作るかって。もっと頭、使え。」
もう一人の男は、アイキと同世代のように見えた。二十代。決して、それ以上でもそれ以下でもない。
「どうする、兄貴?この女、始末しちゃう?」
「海兵じゃねぇし、一応女だし、訳有りだろうし、頭のところに連れていかねぇわけにはいかねぇ。おい、他に何か隠してるはずだ。探すぞ。」
この男なら、多少は話ができるかもしれない。アイキは膝の下から箱を出して見せた。
「捜し物はこれか?」
少年はきょとんとし、兄貴と呼ばれた男はにやりと笑い、手を伸ばした。
「いいね、物わかりがよくて。それがお宝ってわけか。」
男の手を邪険にはたくと、アイキは立ち上がり、睨み付ける。
「頭のところへ私を連れて行くのだろう。ならばこの箱も私が持って行く。」
「何言って、」
突っかかりかけた少年を手で制し、男は口元の笑いを絶やさぬまま、
「いいだろう。どうせ逃げられるはずもねぇし。さ、お嬢様、こちらへ。」
無骨な腕を伸ばし、エスコートするかのように男はアイキの肩を抱き、扉の方へと向かわせる。甲板はもう、静かになっていた。被害者はどれほどだろう。せめて惨い有様を見なくてすむように、祈るような気持ちで、半ば砕けた扉の外へと押し出される。外は案の定、血の臭いがした。だが、恐れていたほど凄惨な修羅場ではなかったらしい。七隻もの海賊船に囲まれてあっけなく勝負が付いてしまったのだろう。勝ち目がないと分かって、ジンジャーは無理な戦いを海兵達に強いなかったのか。彼はおそらく海軍の指揮官としては有能ではない。だが、人として正しい判断を下した。そういうことだろう。
縄で縛り上げられた数人の海兵が、アイキの姿を見て呻いた。アイキは首を横に振ると静かに板の橋を渡って、海賊船へ乗り移る。板橋から見下ろした海は、高い空を映してどこまでも青く深く、二隻の船の間に砕けた波の飛沫が冷たく潮に匂っている。
飛び込もうか。
自分の思いつきを、あっさりと笑い飛ばし、アイキは海賊船の甲板に降り立った。縛り上げられた海兵達は緊急時のために備えてあった小舟に寿司詰めにされ、次々と海の中に投げ込まれて行く。大丈夫だろう。彼らは何とか岸までたどり着く。見渡す限りの大海原に見えても、実際、ここから岸まではそう遠くないはずだ。陸沿いに航行してきたのだから。
「頭!女とお宝を見付けました。」
少年が得意げに報告すると、背の高い男が振り返った。
「ご苦労。」
筋肉質で日焼けをして髭を蓄えた、見るからに海賊の船長といった風貌のその男は、アイキを一瞥すると、また視線を海に戻した。
「怪我している奴は、縄を緩めてやれ。」
海兵を縛り上げている手下に、指示を出しているようだった。甲板の奥にはジンジャー特使らしき人影が見える。縛り上げられている上に、意識を失っているのだろうか、横たわったまま微動だにしない。
「手、あいてる奴は、船に火をかける準備をしな。」
海兵達が気遣わしそうに、あるいは不安げに、アイキの方を見やりながら、小舟に押し込まれて行く。お前達は生き残れ、生きて帰れ。私には私の戦い方がある。護衛船の二隻にはすぐに火がかけられた。最後まで懲りずに本船で物色を続けていた連中が戻ってくると、本船にも火が放たれ、ジンジャーの指揮下にあったその船は瞬く間に海賊船団を離れ、煙を名残に流されて行く。
ぱちぱちと音を立てて、旗が燃え、風に乗って散った。
「さて、お前が分捕り品か。」
どれぐらい時が経っただろうか。あわただしく仕事の後始末を付ける部下達を後目に、じっと遠くを見ていた大男が、ようやくアイキに目を向けた。
「それからこれだな。王太子の婚礼の祝いにシャイナ国から贈られた国宝ってのは。」
大男の視線が手元の箱に移る。だが手を出そうとはしなかった。アイキは身を固くし、一手先を読もうと全身の感覚をとぎすます。この男は箱を力ずくで奪いに来ない。どうするつもりなのか。
「よく知っていたな。これが何であるかなど。」
アイキは自分の声がうわずるのを感じた。仕方がない。怯えているのは仕方がない。だが、勝負に負けてなるものか。
「そりゃ、こっちも商売なもんでな。」
彫りの深い顔立ち、背の高さ、肩幅。太陽を背にして見るその男には、全てを圧倒するような、威厳さえ感じられる存在感があった。この男の前で、自分は、小さい。
「見たところ、あっちで伸びている船長は、お役人みてぇだが、あんたも不幸だったな。全く海の渡り方をご存じない船長に仕えなくちゃならないなんてな。」
哀れむようでもなく、馬鹿にするようにでもなく、しかし陽気にでもなく、ただ男は笑うためだけに笑ったように見えた。無表情な笑い方だった。
「悪いがそれを渡してもらおう。そうすればあのできそこないの船長と一緒に、どこかの港に落としてやるよ。」
「断る。」
計算をするまでもなかった。声のうわずったまま、アイキは強く応じた。応じてしまってから、これでよかったのか自問する。他の答えがあるはずもなかった。
「やはりな。」
男は先ほどよりは少し楽しそうに笑った。
「力ずくで奪ってもいいんだぞ。」
「まぁ、焦るな。ティル。」
嚇すようにナイフを取り出した少年を、軽く視線で押さえ、男はまた無表情に戻った。無表情、というより、無関心に近い目に。
「その箱の鍵、何か特殊な細工があるようだな。中味を無事に手に入れたければ、正しい開け方をしなくてはならん、と。お前はそれを知っている。だから取り引きをしたい。そういうことか。」
「分かっているなら話は早い。だが、私は取り引きする気はあっても、この箱を渡す気はない。」
男は鼻を鳴らした。今回は明らかに面白がっている。この男、多少は話が通じる。どこまでやれるかは自分の話術次第。アイキはいくぶん緊張がほぐれてきたのを見透かされないように、うわずった口調のまま言葉を継ぐ。
「決して、な。」
船縁でナイフを弄んでいた少年が、腹立たしげに船長とアイキを見比べた。船員達は仕事が片づいた者から、船縁に寄りかかって二人の様子を見物し始めていた。
「それじゃ、取り引きにはならねぇだろ。お前は何も譲歩していねぇ。」
「今回の強盗騒ぎ、海兵を襲って傷付けた罪、陛下の旗を掲げた船に火をかけた凶行、全て見逃そう。これでは取り引きにならないか?」
「ならないね。てんでならねぇ。」
つれなく男は言い捨てた。だが、その目は面白がっている。
「お前に見逃してもらったところで、俺には一文の儲けにならない。お前の言う、陛下とかいう方に許していただいたところで、全く儲からねぇ。気に入らねぇな。」
「では、私の命もやろう。」
海賊達から小さなどよめきが起こった。動揺ではなく、面白いことを言う女を囃し立てるような響きで。船長も片方の眉を軽く上げ、もう一度鼻を鳴らした。
「お前にとって、その命は大切だろうが、俺にとっちゃ何の意味もねぇ。儲かりもしねぇ。そんなもの取り引きにはならねぇよ。それに第一、自分が死んじまったら、俺がその宝をただ取りできるだけで、お前にゃ何の儲けにもならねぇだろ。」
「彼にこの箱を持たせて、リスナに連れて行ってやってくれればいい。そうすれば用は済む。私が届ける必要はない。だがどうしてもこれはリスナに届けなくてはならん。」
「死んだら、俺がその約束を守るかどうか、知ったことじゃねぇだろ。」
「信じる。頭、あんたは人を裏切るようには見えないからな。」
船員達が口笛を吹き、船縁を叩き、冷やかすような喝采をぶつける。男は両目を見開いて見せ、それから本当に笑った。
「お前が死んだら、お前にとってのこの世界は終わりだ。この世界が終わってしまうんなら、いったい何のためにその箱をどうにかしなくちゃならねぇんだ?」
「分かっているはずだ。この中にはカリン王太子に贈られたリーナ姫からの結納の品が入っている。シャイナ国にとっては先祖伝来の大切な品。最近、小競り合いが続く我が国へ、娘を嫁にやるだけでなく、国宝までも贈ってくれたのだ。その心意気を無駄にするわけにはいかない。海賊に国宝を奪われたと知れば、和平に反対するシャイナの政治家達が大騒ぎをして、この婚礼を潰すだけじゃなく、大きな戦争を仕掛けてくるだろう。もし私の命一つで、この箱が無事にリスナに届いて、両国の平和が保たれるのなら、安いものだ。」
「ご立派だな。」
男はまた無表情に戻っていた。だが、目の奥では笑っているように見えた。
「平和のため、か。だけど、それじゃ、俺は全く儲からねぇ。」
そしてすぐにアイキに背を向ける。
「おい、その女、あっちに閉じこめておきな。男の方は、檻にでもぶち込んでおけ。」
それから思い出したように振り返っていった。
「いつでも気が変わったら言いな。箱の開け方を答えたら、船を降ろしてやるよ。」
「私は本気だ。命などに未練はない。」
叫び返すアイキには目もくれず、男は側にいた荒くれから何か報告を受け始めた。隠し部屋からアイキを連れ出してきた男が、再び抱えるようにして甲板から船室へ通じる狭い階段にアイキを押し込んだ。
「頭の言うことを聞いといた方が身のためだぞ。って、聞きそうにもねぇな。」
彼は愉快そうに笑いながら、背中を押して、すえた臭いのする船室の奥へと進ませる。
「その箱、ぶち壊しちゃえばいいじゃんか。」
まだナイフを手にしたまま、ティルが後ろから付いてくる。
「なぁ、兄貴。お頭も手ぬるいよな。」
男は答えず、楽しそうにくすくすと声を立てて笑った。そしてアイキに
「俺はサナっていう。何かあったら呼びな。一応、この船じゃ頭の次に偉いことになってるから。」
「サナ、か。」
復唱する気などなかった。だが無意識に自分の声がそれを復唱する。ダメだ。疲れているな。アイキが自嘲的に笑うと同時に、後ろから露骨に舌打ちの音がする。
「兄貴はどうしてそう、女に甘いわけ?そんなしけた女にまでさ。」
「まぁ、そう言うなって。それにな、こんな度胸のあるお嬢ちゃん、そうそうお目にかかれるもんじゃないぜ。最近、拾ったお宝の中では、この箱もこのお嬢ちゃんも、かなりの品だと俺は踏んでいるけどな。」
物置小屋にしか見えないような、かびが生えた小部屋に通される。
「すまねぇな。男所帯なもんで、酷いことになってるけど。」
「思っていたほど酷くはない。」
笑うようにアイキが答えると、サナは目を見開いて見せた。この船の連中は皆、こうするのが好きらしい。アイキも肩をすくめてそれに応える。ティルがまた舌打ちをする。
「じゃ、一応、鍵かけるから。」
立て付けの悪い扉が、往生際の悪い音を立てながら閉ざされる。一人になったことが実感されてくる。にわかに膝が震え、箱を抱えたまま、アイキは座り込んだ。急に体中を緊張と疲労が襲う。これからどうするかを考えなくてはならない。どこかで冷静な声がそう主張していたが、アイキは何も考えられぬまま、錆び付いた蝶番を呆然と見つめていた。しばらくすると、男達の怒号が聞こえ、船がゆっくりと動き出した。