□  二  □


 日が沈んだのだろうか。隣の船室に男達の声があふれた。どうも非番の連中が酒を飲み始めたらしい、陽気な酔っぱらいのわめき声がいびつな扉を通して聞こえてくる。部屋の中は長らく掃除された形跡などなく、座る場所を作るために散らかったものを端にまとめてみると、どこに何があったのか、はっきりと分かるぐらい、一面にほこりが積もっていた。広さに不足はない。ささくれだってはいたが、頑丈そうな木箱を椅子代わりにして、アイキは肘をつき、ぼんやりと男達の話し声を聞いていた。何でもない日常会話。だが、アイキのいる世界とは全く違う日常に生きる会話。
「あの男、本当に箱の開け方知らねぇのかな。」
「もうちょっと痛めつけてやれば、吐いたかもしれねぇけど。頭がやめろって言ってたし。本当に知らねぇんだろ。」
「こじ開けてもいいんだろうけどな。」
「それじゃつまらないだろ。壊すのはいつでもできるけどよ。あの男なぶって吐かせる方が面白いだろ。」
「そりゃ、そうだけど。なんか、知ってたら簡単に吐きそうじゃねぇか。あの男は。女の方がずっとしぶとそうだ。だけど、あの女の場合、開け方知ってるってのは、ただのはったりかもしれねぇけどな。」
「まあな。でも、頭、あの女のこと、ずいぶん、気に入ってたじゃねぇか。お宝も取り上げねぇし。」
「だけど今回のは、そんなにいい仕事じゃねぇし。大して儲からないわ、箱は開け方が分からんわ。入っているもんはそんないいもんなのか?」
「どうだか。国宝だって話だけど、国宝なんて拝んだこともねぇ。箱に入ってるしなぁ。実はこっちのは囮でさ、本物は陸路で運ばれていたりとかな。」
「なんだよ、あの女、命の張り損じゃねぇか。」
 男達はどっと笑った。アイキも密かに笑った。
 そうかもしれない。自分の乗った船は囮かもしれない。確かにその可能性はある。だが、それでも本物を持たされていると信じて、最後まで働くことが、自分の務め。
 アイキの笑いは自嘲であったのかもしれない。けれども悪い気はしなかった。箱の開け方を知らされているのだから、これが偽物かどうか、囮を演じさせられているのかどうか、確かめることはできる。もちろん、開ける気はないが。小箱には細かい彫りが施されている。幾何学模様の線は、空白を恐れるかのようにびっしりと、その一面を覆い尽くし、鍵の仕組みを見付けにくくした。
 宰相に呼び出され、シャイナの国宝をリスナ博物院の宝物庫まで運ぶ航海に同行しろと命じられたとき、まさか三隻の船団で行くのだとは思わなかった。首都からリスナまでの海域は海賊が横行している。海賊を掃討する作戦が大成功を収めた直後だとは言え、まだ全ての海賊を追い払った訳ではない。早くとも三日、通常は四日かかる距離を三隻の船団で、国王と王太子の旗を掲げて、どうして無事に渡りきれると思ってしまったのか。しかも結納の品はリスナの宝物庫に収められるという噂が既にあちこちで聞かれるようになっていた中を、である。迂闊だった。これが偽物だったら、却って気が楽になるかもしれない。自分が今、首都の連中にとって目障りなのだとしたら、彼らは都合よく囮として自分を使い、あわよくば葬り去ってしまおうと、あるいは考えているのかもしれない。
 アイキは再び密かに笑った。箱は開けない。最後まで諦めない。実際、これが本物だという確信はなかった。ジンジャー特使が宰相のお気に入りであるという点、そして宰相がわざわざ箱の開け方を自ら示してみせたという点だけが、本物である可能性を支えている。だが、本物かどうかなど問題ではない。とにかく、私の仕事は一つ。これをリスナ博物院に届けること。必ず届けること。それだけ分かれば良かった。
「あ、頭?」
 隣室が急に静まる。大股に沈み込む足音が、古い木の床を踏みにじるように聞こえ、
「女に話がある。席を外しな。」
「へぇい。」
 数人の足音が遠ざかっていった。扉が軋みながら引き開けられ、薄暗い船室に巨大な男の影が広がる。白木で無造作に作られた木箱に座ったまま、アイキは目を上げた。額にかかる前髪に、髪がひどくほつれていたことに気づく。男はアイキを見下ろしたまま、後ろ手に扉を閉めて、片手には灯り、肩には大きな毛布を背負うように掛けて、無言であぐらを組んで座った。
「夜は冷える。必要ならば使え。」
 ほこりの積もった床の上に無造作に毛布を放り投げ、灯りはアイキの足下に置く。視線は逆転し、男がアイキを見上げる。年はアイキよりも十ばかり上であろうか。甲板で見たときにはもっと年輩かと思ったが、灯りの中で見る限りは四十路には達していないようであった。アイキは華奢な女ではない。むしろがっしりして、女らしい体つきとはお世辞にも言い難い。そんなアイキが自分を小さく感じるほど、その男は不思議な存在感があった。
「特使はご無事か?」
 男の訪問の意図がはっきりと分からないまま、睨み付けるような視線を睨み返し、固い声で尋ねると、男は笑って
「人質だ。殺しはせん。」
 とだけ応える。ジンジャー特使は宰相からも将来を嘱望された有能な官吏だと聞いている。だが、そのような話は彼らにとっては意味を持つまい。下手をすれば、危険人物だとして、処分されかねない。アイキは口を閉ざした。先ほどの男達の話と、この男の口調からすれば、そう酷い目には遭っていないだろう。
 しばらくは睨み合ったまま、沈黙が続く。船が小さく揺れる。碇を降ろした様子はなく、夜も航行しているようだった。どこへ向かっているのか分からないが、首都を出てから二日が過ぎている。おそらくは海峡を越えて外海に出、この国の支配外に逃げ出すつもりなのだろう。海峡警備隊に見つからないように、今夜、闇に乗じて海峡を抜ける気なのだろうか。しかし余程いい風が吹かない限り、今夜の内には海峡は越えられない。どこかに拠点があって、そこに向かっているのか。
「お前は、その箱をリスナに届けるためならば、命など惜しくはないと言ったな。」
 低い、掠れた声は海の男の証。だが、アイキは一瞬、その意味に迷った。首都から海峡まで三日、海峡を抜ければリスナまでおよそ一日、と、海図を思い描いていた脳裏には、いささか予期せぬ言葉であった。
「確かに言った。」
「シャイナとの関係を悪化させないため、戦争によって苦しむ者を出さないためになら、命も惜しくはない、ということだな。」  
 まだ男の意図は読めなかった。アイキはうなずきつつ、言葉の続きを待つ。
「命が惜しくない。それだけの覚悟があるということか。」
「覚悟か。あるつもりだ。」
「ならば見せてもらおう。それだけの覚悟があれば、何でもできるはずだ。」
 男が口の端を上げて笑った。見苦しい笑い方だとアイキは感じた。男の目は真剣でどこか無関心で虚ろにも見えた。
 男はゆっくりと立ち上がり、アイキの顎をつかんで無理矢理立ち上がらせた。箱を蹴って、端によけられた荷物の山にぶつけると、乾いた音が狭い船室の低い天井に弾かれるように何度も淀んで消えた。
「ならば。」
 男が喉の奥で、くっと声を立てて笑った。
「誇りを捨てて見せろ。命さえ惜しくないなら、誇りなど簡単に捨てられるはずだ。本当にその覚悟があるのなら、今ここで、俺に媚びてみろ。」
 アイキの喉に男の手がかかり、反るような姿勢をとらされる。男と視線を合わせながら、狭まる気道に口を薄く開いたが、視線を逸らす気はなかった。男に逆らう意志はなかった。命を捨てる覚悟ならできている。
 だが。
 誇りを捨てる覚悟は、あるのだろうか。
「今、ここで。」
 誇りを捨てるのは難しい。仕事をやり遂げる決意も、死ぬ覚悟も、全て誇りだけで成り立っているのだから。男もそう知っているに違いない。男はその手を離し、支えを失ったアイキはそのまま後ろに二歩、後ずさった。片膝を付くと床を払い、髪を縛っていた布で小箱を包む。そっとそれを床に置いて、灯りが照らし出す自分の影が天井に揺れることを感じながら、アイキは立ち上がった。
「さぁ。」
 男が笑う。顔だけで笑う。
 アイキは一瞬だけ唇をかみ、それからゆっくりと男の肩に手を伸ばした。
「頭、名前は?」
 男の目が軽く見開かれる。
「本当の名前じゃなくてもいい。何と呼べばいい?頭でいいのか?」
 視線はまだ睨み付けるような色を失っていないが、それでも精一杯穏やかにアイキは尋ねた。男は少し無様に笑った。
「あぁ、呼び名か。ロキと呼びな。本当の名だ。」
「ロキ、か。」
 誇りを捨てる覚悟などなかった。だが、必要ならば作り上げよう。誇りを捨て去るだけの覚悟を。海賊に媚びるだけの覚悟を。アイキは目を閉じた。
「見せてやろう。私の覚悟は偽りではない。」
 男の舌打ちが聞こえた。
「ご立派なことだな。見せてもらおうじゃないか。」
 アイキの顎に再び男の手が掛かり、唇が押しあてられたのが分かった。



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