□ 十 □
暑い盛りである。正午近くになれば、道を行く人影も減る。
「奥で少し休んでおいで。」
額の汗をぬぐいながら椅子に深く腰を下ろし、張録が秋蘭を促した。蝉の声が降り注ぐ。店の奥は薄暗く、むぅっと熱気のこもった店先に比べれば心持涼しい気がした。台所を覗き込めば、庭に通じる扉が開け放されていて、真夏の強烈な明るさが戸口からあふれている。草いきれを運ぶ微風。秋蘭の気配に、戸口に鼻先だけ突っ込んで伏せていた小梅が、うっそりと顔を上げ、ふわと大きくあくびをした。
開け放した扉を押さえるように、台所の古い長いすが据えられている。長いすにゆったりと腰を下ろし団扇を使う朱朱。その膝を枕代わりに小さな張芳が昼寝をしている。
朱朱が振り返った。膝の上の張芳を示し、しぃっと口元に指を当てて見せた。
――分かってるよ。
秋蘭も黙って頷く。小さな、と言っても、もう六歳にはなっているのだが、張芳はむにゃむにゃと何かつぶやいて、身じろぎをした。
甕に汲み置いていた水を一杯あおると、台所の端の椅子を引き寄せて座り込む。ほとんど風はないけれど、日陰で座り込んでしのぐしかない。噴出す汗を何度もぬぐいながら、秋蘭はふぅっと深呼吸した。
小梅が真っ黒な鼻先をひくひくとうごめかせる。その様子に朱朱はあたりを見回し、静かに微笑んだ。視線の先には風来の姿。
庭の茂みの向こうからひょこりと顔をのぞかせた風来は、音もなく台所に入り込む。ぱたりぱたりとゆっくり尻尾を振る小梅を、軽く撫でてやりながら、風来は台所の隅に胡坐をかいて腰を下ろした。秋蘭が水を差し出すと、一気に飲み干す。
人が動く気配のせいか、張芳が目をこすりながら身を起こした。
「ありがと。」
秋蘭に差し出された水を両手で受け取って、のどを鳴らして飲む。その様子に風来は目を細めた。
「あれ?風来おじさん。」
器を秋蘭に返した張芳は、きょとんと目を見開いて風来を見、それから嬉しそうに長いすから飛び降り、風来に飛びついた。
「おいおい。汚れるぞ。」
風来の汚い着物にも構うことなく、張芳はぎゅっとしがみついて、何がおかしいのかころころと笑っている。
朱朱が団扇でゆったりと自らを扇ぎながら呼ぶ。
「風来。」
その声は名を呼んだだけであったが、それだけで十分だった。風来は膝に張芳をまとわりつかせたまま、さっと朱朱に向き直る。
「主。書肆の杜の旦那はご存知ですかい。」
何の用もなく風来が張家の薬屋を訪れるはずがないのだ。
「二つ先の通りを少し行ったところの小さい書肆か。」
興陽の街にはさほどたくさんの書肆はない。売り物になる書籍自体、それほど需要があるわけでもないのだ。実際、秋蘭が知っている書肆もその一軒だけである。
「そうです。あそこの旦那のことはご存知で?」
「いや、面識はないな。」
それはそうだろう、と秋蘭は考えた。風来も意地悪だ。朱朱は昼の間、ずっと店の奥にいて、外になど出ないのだから。知り合いなんてほとんどいないも同然なんだから。
だが、風来の意図はそうではなかったらしい。
「面識は、わしもなかったんですがね。噂だけは何度も聞いてまして。何でも、例の十五年前の大飢饉のころのことだそうですが。農家やってる実家に食べ物を分けてもらいに行った杜家の奥さんと息子が、帰り道、城外で何者かに襲われたっていう噂でね。……おかげであの爺さん、十数年前から天涯孤独だそうすよ。」
朱朱の表情が曇った。
「あいつらだな。」
低くかすれた声。
「でやしょうね。十五年前といえば安家が襲われた次の年。」
「要するに趙家が襲われる五年前、か。」
――山賊の話、だよな。これ。
秋蘭は少し驚いて朱朱と風来の様子を見比べた。
――張家では山賊の話をしてはいけないんじゃなかったんだっけ。
朱朱が自らの左肩をすっと撫でた。台所の薄闇を庭に満ちる光が照らす。
「それで、あの爺さん、もともと大人しい人だったそうですが、家族を失ってからは本当にしょんぼりしちまって。安家の大旦那が気にかけて、書物を買うときには爺さんの店で買ったりしているそうですが、店といってもただ閉めてないというだけ。繁盛のしようがないような商いをしている御仁なんす。」
真面目な話が始まったことを空気で悟ったのだろう。張芳は風来の膝を離れ、お気に入りの人形を拾い上げて店先に走り去った。小梅がばさりと真っ黒な尻尾を大きく一度だけ振って見送る。
「さっき、その爺さんから呼び止められましてね。真闇の蛍に頼みがある、と。」
ぱたり、と朱朱の団扇が動きを止める。
「それが奇妙な頼みでしてね。」
ぼりぼりと腕をかきながら、風来は思案しながらとつとつと説明する。
「そんな爺さんにも飲み友達はいたらしくて。」
風来の話によればかくのごとき依頼であったらしい。
杜の旦那は、三月前、夜遅くに友達の家から帰ってくる途中で急にめまいがして、道のはずれに倒れこんだのだという。
――このまま死ねるのだろうか。
くらくらと回り続ける世界をぼんやり眺めながら、今はなき家族を想っていた彼を、通りがかりの妖艶な美女が助け起こした。
「杜の旦那じゃないですか。どうなすったんです。こんなところで。」
全く見覚えのない女だった。だが、彼自身、浮世のことにほとんど興味などない。毎日店の前を通る程度の人ならば、いかに美人でも記憶にないだろうとは思った。だから、覚えがなくても、自分を知っている人くらいあるかもしれない。そのときはそのくらいにしか考えなかったのだという。
彼女に支えられて、ふらふらと家までたどりつくと、その女は甲斐甲斐しく杜佳の世話を焼いて、茶を飲ませ、朝飯用の粥まで煮て、様子が落ち着いたのを見てとると、ようやく安心したように家を出て行った。
それ以来、夜になると、彼女がたびたび家を訪れては世話を焼く。杜佳が夕食を済ます前ならば、夕食をあつらえ、洗濯物がたまっていれば洗濯をし、繕い物を見つけ出しては繕ってゆく。果ては、書肆の仕入れにまで助言をするようになったのだという。
「かくかくしかじかという本が、近く、どこどこの町で出版されるはずです。それを大量に仕入れなさいませ。その代わり、興陽のほかの書肆には決して卸さないように頼むのです。そうすれば杜の旦那は大いに儲かるはずですわ。」
出版業界の裏事情など、書肆をやっていてもさほど詳しくなれるものでもない。不思議に思いつつ、杜佳が調べてみると、確かにその街でその本が出版されることが分かった。しかもその本は昨年都で爆発的な売れ行きを見せたのだという。小さな町とはいえ、興陽では杜佳の書肆でしか商わない、ということになれば、確かに一山当てることはできるだろう。
そのころになって、杜佳はようやく薄気味悪くなってきた。
財産目当てであろうはずもない。年老いて痩せこけた老人に、美女が尽くす理由など考えられない。しかも女――李氏と名乗ったという――は夜にしか姿を見せない。近所の人にそれとなく尋ねても、そんな女は知らないと口をそろえる。
――もしかして、あれは人ではなく狐なのではないか。
杜佳にはほかの答えが思いつかなかった。狐であれば、人の知らぬことを知っていても不思議はないし、財産などなくとも何か人の知りえぬ狙いがあるのかもしれない。
「なるほど。それで私の出番、ということか。」
団扇で口元を覆うように、朱朱がつぶやいた。
「へい。」
「ネズミの次は狐とはな。」
「しかし今度はちょいと妖しげなお話で。」
狐が女に化けて人を騙す、という話は秋蘭も聞いたことがあった。
――でも、本当にそんなことするのかな。
だいたい、狐にしたって、書肆のおじいさんを騙して何か得があるとは思えない。
「どうなさいますか?」
風来の問いかけに、朱朱は秋蘭の顔を見た。そしてさらにその向こう、店に通じる戸口に目をやった。いつの間にかそこにはうっそりと立つ蒼郎の姿があった。二人の表情を静かに眺めてから、朱朱はふわりと団扇を揺らした。
「引き受けよう。」
大げさに風来がため息をついたのは、できれば引き受けてもらいたくないと願っていたからだろうか。それでもすぐに風来は笑みを浮かべて立ち上がる。
「じゃあ、明日の晩に杜の旦那んとこに行くということで、話をつけて来やす。」
「今夜でも良い。」
「主。わしに下調べする時間をくだせぇ。さすがに今回のは、ちょっと妖しくていけません。」
肩をすくめる風来に、朱朱は笑った。
「分かった。では明日の晩に。」
真夏の草の匂いを乗せて、かすかな風が台所に吹き込んできた。白氏の様子がおかしい、と秋蘭が気づいたのはその日の夕方のことだった。
「あ!」
水がめを抱えあげようとした白氏に、秋蘭はとっさに横から腕を伸ばす。
「ありがとう。」
「もしかして……張芳に妹か弟ができた?」
秋蘭の言葉に、白氏はいつも以上に片えくぼを深めて微笑んだ。
「秋蘭ちゃんは本当に勘のいい子ね。びっくりしちゃうわ。」
この家に来て一ヶ月。また新しい家族が増える。秋蘭はうきうきと水がめを運ぶ。
もしかしたら、朱朱が女中をほしがったのも、白氏に二人目が生まれることを知っていたからなのかもしれない。
「俺、できることがあったら、何でも手伝うから。」
今までだって何でも手伝うつもりでいた。だけど、もっともっと役に立ちたかった。
はにかむ少女のように白氏が笑う。
「嬉しいわ。じゃあ、遠慮なくお願いしようかしら。」
店のお使いを頼まれることは何度かあった。だが、奥向きの買い物はそれまでは白氏が一手に引き受けていた。
「お肉屋さんの場所は分かるかしら。」
銅銭を数えながら白氏が尋ねる。
「知ってます。」
方向感覚にはそこそこ自信がある。一度前を通りがかったことのある店なら、たぶんたどりつけるはずだった。
「行ってきます!」
西日が射し込んでくる。店じまいまではもう少し時間がある。たぶん、急いで行けば、店の片付けまでには戻ってこられるはず。張録に見送られて、秋蘭は夕方の街に飛び出した。