□ 九 □
中の様子は昼間見た玉花楼とはまただいぶ印象が違う。朱朱は慣れた足取りで店の者が出入りする細く薄暗い廊下を通り、狭い階段をとんとんと駆け上がる。階段の半ばにたどりついたところで再び笛の音が聞こえだした。
――この間と同じ曲だ。
一番奥の部屋の戸をすっと開くと、朱朱は遠慮なく奥に上がり込む。部屋の中はきらびやかな衣装や化粧道具が所狭しと広げてあった。入ることをためらい立ち止まった秋蘭を朱朱が手招きする。
「この窓の横が特等席だ。」
招かれるままに近づけば、その窓はちょうど宴席の真上に当たるらしい。天上の鴬の声が伸びやかに夜気をふるわせた。
窓辺に椅子を寄せ、壁にもたれかかるように座り、朱朱は目を伏せていた。それに倣うように、秋蘭も窓の横の小さな椅子に腰を下ろす。
昼間、繰り返し練習していた旋律が流れ出す。滑らかに響くその音色に、巧くなったなと秋蘭は軽く頷いた。
――うん。だいぶ良くなった。
見たこともない笛の主に、不思議な親しみを感じた。同じ箇所を何度も何度も繰り返して練習し、それが本番で巧く吹けたときの喜びは、きっと旅芸人だって妓楼の笛吹きだって変わらないはず。それだけではない。
白粉の匂い。笛の音。歌声。
秋蘭が育った世界と同じ空気がそこにあった。
ただ一つだけ違うのは、あちこちに広げてある着物がどれも高価そうなこと。そして聞こえてくる歌声が天上の鴬の声であること。
旅芸人の一座にも歌の巧い者はいた。金持ちに気に入られて高価な着物をもらうこともあった。だが、それにも限度がある。興陽の町はさほど大きな町ではない。玉花楼の建物は古くて、廊下はぎしぎしときしむし、壁だってすきま風が入りそうな風情。だけど、天上の鴬は別格であるらしい。
――とびきりの歌声。そしてとびきりの贈り物。それが天上の鴬というわけだ。
秋蘭はふぅっと息を吐いた。
曲が止んだ。
酔った男たちの声がひとしきり聞こえた後、店の中は急にしんと静まりかえった。
朱朱は寄りかかったまま窓の外を眺めている。
声を掛けてはいけない気がして、秋蘭も黙って窓の外を眺めていた。
そのとき、ばたばたばたと勢いよく階段を駆け上ってくる足音がする。
「朱朱!」
扉を開くと同時に飛び込んできたのは、鮮やかな緑の着物に身を包んだ少女。きれいに化粧を施した顔は、あでやかというよりもまだ愛らしさが勝っていた。少女は飛び込んだそのままの勢いで朱朱を抱きしめる。
「……あれ?」
――この人、知ってる。
秋蘭は思わずきょとんとその少女の顔に見入った。
朱朱がくすくすと笑い出す。
「双子の妹の青青だ。よく似ているだろう。」
青青と呼ばれた少女と朱朱とを見比べて、秋蘭は目を見開いた。確かに化粧や着物はずいぶん違うけれど、二人は瓜二つであった。
「この子が秋蘭ね?」
朱朱を椅子ごとぎゅっと抱きしめたまま、秋蘭を振り返る青青。
「そう。私の女中だ。」
「蒼郎の拾いものの、可愛い男の女中さんね。」
くすくすと笑う青青は、本当に朱朱とよく似ていた。
――ああ。そうか。
秋蘭はようやく気づいた。天上の鴬の歌声に聞き覚えがあると思ったのは、朱朱の声と似ていたのだ。伸びやかに澄み切った鴬の声と、ときおりかすれる朱朱の抑え気味の声。だけれども、その二つは本当によく似ていたのだ。
「柔らかい声、ですね。」
ようやく言葉を見いだした秋蘭に、青青は一瞬小首をかしげてから、ころころと笑い出した。
「ありがとう。嬉しいよ。」
朱朱にしがみついたままだった青青が、転がっていた椅子を引きずり起こして、やっと普通に座り直す。
「元気か。」
自由の身になった朱朱は再び壁に寄りかかり、青青を見た。
「当たり前じゃない。私はいつだって元気よ。それより朱朱は大丈夫なの?また熱を出したりしていない?痛いところはない?怖い夢を見たりしていない?」
身を乗り出すようにして、小さい子を案じるかのごとく青青がたたみかける。
窓の外に見える通りの灯りが、一つ、また一つと消え始めた。このあたりにも夜は来るらしい。
「私だっていつも元気だ。何も心配することはないよ。」
苦笑気味に笑う朱朱に、青青は納得いかないといった表情で頬をふくらます。
「でも……。」
朱朱は苦笑を深め、それからふぅっと息を吐いた。
「それよりも青青。梁の旦那のことだけど。」
その言葉に、青青の頬がぱっと朱に染まる。
――あれ?
その表情を見れば、青青が梁の旦那をどう思っているかなど、火を見るより明らかだった。
朱朱も知っているからだろう、一瞬、言葉に迷い、それからはっきりと告げた。
「言いにくいが、薬のお代を肩代わりするのは、少し迷惑みたいだぞ。」
「……そうか。そうだよね。やっぱり。」
目に見えてしょんぼりする青青。
「分かってるんだ。妓女にそんなことされたくないよね。」
否定するでも肯定するでもなく、朱朱はすっと目を細めた。
「青青。」
「うん。ごめん。もう止めるよ。」
「梁の旦那は青青が好意からしていることだとは分かっているさ。」
「うん。」
俯いてしばらく瞬きを繰り返していた青青は、ぱっと顔を上げてさっきと変わらぬ笑顔を見せた。
「うん。そうだね。張録にも謝っておいて。」
青青の額を朱朱の指先が軽く弾いた。
「良い子だ。青青。」
「うん。」
「その代わり、今度、私と秋蘭の分まで白粉を買っておいてくれ。」
頷く青青の髪を風が静かに揺らして吹き抜けて行った。
――なんか可哀想だな。
売れっ子の芸妓。天下に名の知れた歌姫。
なのに。
――好きな人のためにできることは、その人の店で白粉を買うことくらい、か。
難しいもんだな、と思う。
今日朱朱が蒼郎を連れて来たがらなかった理由が何となく分かったような気もした。一人で出かけたかっただけじゃない。自分は蒼郎と一緒にいることができる。なのに、青青の小さな小さな幸せを奪い取るなんて、きっと苦しいことだから。
「そういえば、風来が今日の夕方、店に来た。」
「風来が薬屋に?」
「ああ。どうも……この町のどこかに、趙家の生き残りがいるんじゃないかと嗅ぎ回っている者がいるらしい。」
朱朱の言葉に青青の額がさっと青ざめた。
「……へぇ。いったいどこの誰が?」
青青の声がかすれる。低い声は本当にそっくりだ。
「分からない。だが、気を付けるに越したことはない。」
――趙家の生き残り……?
秋蘭は首をひねる。なんだか趙という姓には聞き覚えがある。別に珍しい姓でもない。むしろ皇帝陛下の家の姓だから有名極まりないものだけども。
――なんか今日どこかで聞いたような。
そのとき、すっと音もなく戸が開いた。
「蛍お姉様!」
華奢な少女が礼儀正しく一礼する。そしてしずしずと部屋に上がると、控えるように隅の椅子に腰を下ろした。
「お疲れ様。燕燕。」
秋蘭よりも二歳か三歳年下だろうか。芳春と同じくらいの年に見えるその少女は、秋蘭に目を留めて座ったままもう一度礼をした。
「秋蘭お姉様ですね!」
驚いてぱちぱちと瞬きをする秋蘭に、朱朱が笑う。
「刺繍の達人だよ。この妓楼の看板娘の燕燕だ。」
――仮面を作ってくれた子か!
銀糸で蘭の縫い取りのある黒い仮面。それを作ってくれたのがこんな小さな少女だったとは。
「初めまして。燕燕と申します。」
再び頭を下げる燕燕。優雅なその仕草は年端も行かない少女のそれとは思われなかった。
「あ、初めまして。秋蘭です。」
これが妓楼の流儀なんだろうか。たどたどしくも同じように頭を下げて挨拶を返した秋蘭に、燕燕は品良く微笑んで目を伏せる。
「さっき、笛を吹いていたのも燕燕だ。」
「私の歌に合わせられる笛は燕燕だけだからね。」
双子に口々に紹介されて、燕燕は少し恥ずかしそうに一度だけ目を上げて、また俯いた。
「燕燕は舞もお香の調合も見事でね。歌以外取り柄のない青青とは大違いなんだ。」
からかうような朱朱の口調に、青青は少し頬をふくらませる。慌てたように燕燕が口を挟んだ。
「そんなことありませんわ。鴬お姉様はお話がお上手ですし、それにとてもおきれいですもの。」
決して青青は美人ではない、と秋蘭は思う。
美人ではないけれど、見せ方を知っている。確かに青青は目を見張るほどに愛らしく、きれいだった。朱朱も少し見習えば良いのに、と思わないでもない。
「そうそう。聞いてください。蛍お姉様。」
燕燕が思い出したように告げる。
「今日のお客様、安の大旦那様だったんですよ。」
「安家の?あの方が妓楼で宴とは珍しいね。」
話を合わせているわけではなく本当に驚いたらしい。朱朱は青青に視線を向けた。
「川上の材木屋のお若い頭領様をお連れになったんです。頭領様、背が高くてたくましくてとても楽しくて素敵な方でしたの。」
はしゃいでいる様子の燕燕に、朱朱は小さく微笑んだ。だが青青はあまり芳しい顔をしない。
「でもあまり楽しそうじゃなかったよ。そう思わない?燕燕。」
「……ええ。ときどき他のことを考えておられるように見えましたけど……でも、そんなときは必ず鴬お姉様のことを見ておられましたわ。きっと水原様は鴬お姉様のことばかり考えておられたのですわ。」
にっこりと燕燕は決めつけた。青青は答えずに困ったように笑って話題を変える。
「そういえば燕燕。朱朱のために調合した香があるって言ってなかったっけ?」
「あ。そうでした。蛍お姉様、ちょっとお待ちくださいね。お持ちしますから。」
来たときと同じようにしずしずと、しかし小走りに燕燕が部屋を退出する。
「燕燕は鼻が良い上に、お母さんも妓女、妓楼生まれの妓楼育ちだから、小さい頃から本格的にこの世界を知り尽くしているの。だから、あの子のあつらえた香は絶品だし、舞も笛も立ち居振る舞いも全部完璧。偉い子なのよ。」
その背を見送りながら、まるで我が子を自慢しているでかのように青青が笑った。
青青は確かにとびきりの歌姫かもしれない。だけれど、妓楼の匂いはしない。燕燕の持つ妓楼らしい空気はない。それもたぶん青青の、天上の鴬の魅力なのだろう。
――でも……朱朱が「お嬢様」であるなら、青青も「お嬢様」のはずじゃないのか?
――なんでこんなところにいるのだろう。ここは……「お嬢様」のいる場所じゃない。いくら上等とは言っても、俺たち旅芸人と同じ人種の住む場所。いったいどうして……?
じっと青青の横顔を見据えていた秋蘭の視線に気づき、青青は振り返る。
「どうしたの?」
秋蘭はとまどった。とまどいながら、それでも小さい声で尋ねた。
「どうして……ここにいるんですか?」
「……なんで朱朱や張録と一緒に住まないのかってこと?」
青青の反問に秋蘭は少しためらってから頷いた。
「そうね……。」
青青が答えに迷ったのはほんの一瞬だった。
「これが私の選んだ運命だから、かな。」
呟くようにそう答えて、それから青青はふわりと微笑んだ。
「でもね、勘違いしないで。秋蘭。私、ここの仕事が好きのよ。」
青青の真っ黒な長い髪を朱朱の右手がそっと撫でた。