□ 十一 □
肉屋のある辺りには、食品を商う店が並ぶ。夕暮れの近い時刻である。通りは大変なにぎわいであった。
「秋生さん!」
聞き覚えのある声がして振り向けば、大きな包みを抱えた恰幅の良い男が笑みを浮かべている。
「あ、梁の旦那。」
小間物屋は店頭でも商売をするが、家々を回っての商いもするのだろう。大きな包みの端から、見慣れた団扇の柄が覗いていた。
「買い物ですか。」
「はい。夕食の準備で肉屋まで。」
律儀に答える秋蘭ににこにこと頷いて、梁雲は包みを抱え直す。化粧品やら小物やら、いろいろなものを入れているようで、かさばるだけでなく、重さもなかなかであるらしかった。
「手伝いましょうか?」
「いえ、慣れておりますから大丈夫ですよ。」
おっとりとそう告げて、秋蘭に並んで歩き出す。このまままっすぐ行けば梁の店に着く。
「今、玉花楼さんに行って参りましてね。天上の鴬にお会いしました。」
その言葉に、覚えず、秋蘭は梁雲の表情を伺った。青青は梁の旦那に惚れている。鈍い方ではないにしろ、秋蘭がすぐ気付くほどに分かりやすく惚れているのだ。しかも、数日前、青青には旦那のための薬代を支払うのを諦めさせたばかり。一体、どんな顔で、梁の旦那に会ったのだろう。青青は大丈夫だっただろうか。一度しか会ったことのない朱朱の妹を想って、秋蘭は胸が苦しくなるのを感じた。
――人の恋、なのにな。
「鴬さんにはたくさん白粉を買って頂いて……少し恐縮したほどでした。秋生さんからお伝えくださったんですか。薬代のことは。」
梁の旦那は大きな包みを抱えたまま、穏やかな視線を秋蘭に向ける。
「俺じゃなくて……張録の旦那が、です。」
朱朱の名を出すわけにはいかない。だけど、自分が直接伝えたとも言いにくくて、秋蘭はもごもごと言い訳がましくそう述べる。
「そうですか。いずれ……申し訳ないことをしました。張録の旦那だって、玉花楼さんはお得意先でしょうにね。」
確かに看板歌姫の気分を害しかねないような話を、得意先の妓楼に持ち込むのは、商売人だったら避けたい事態だろう。朱朱と青青が姉妹じゃなかったら、きっと話は複雑だったはずだけども。
「天上の鴬はさすがに懐の広いお方。嫌な顔一つなさらず、お出まし下さいましたが。」
そう言って、梁雲はふと言葉を切る。あちこちの店から聞こえる威勢の良い呼び込みの声。野菜。肉。米。あるいは惣菜。色とりどりの商品が並んでいる。興陽より都はさらに賑やかなのだと言う。
――ここより遥かに賑やかな街。都ってどんな場所なんだろう。
「そういえば。」
何となく天上の鴬、青青の話を続けるのは嘘を重ねるようで気が咎めた。特に青青が買った白粉のいくらかは、自分の分なんだろうなと思うと、一層気が咎める。舞台で何かの役を演じるのとは違うのだ。現実社会の中で、秋蘭は二人の人間を演じている。薬屋の少年役と、真闇の蛍の女中役と。そう思えば何か目の前の善良な人をたばかっているような、そんな気がしてくる。
話題を変えようとばかり、秋蘭はふと思い出したことをそのまま口にした。
「この辺の山賊って、町を襲ったりするんですか。」
安家を襲ったり、書肆の奥さんと子供を襲ったりしたという山賊。さっきの風来の話が心の奥に引っかかっていた。
「最近はそういう話は聞きませんね。ですが、十年ぐらい前までは、町の人を襲うこともよくありました。特に十五年くらい前に、長い飢饉の時期がありましてね。」
梁雲が饒舌で噂好きなのは、もともと生まれつきなのだろう。恰幅の良い体つきに似合わず、器用に雑踏を塗って歩きながらしゃべり続ける。
「七年くらい前のことでしたかな。数年間、凶作が続いたんです。町に住む比較的豊かな者達も食うに困って、郊外の農家に食べ物を無心しに行く始末でして。貧しい者達の中には食うに困って、山賊の仲間になった者さえありました。ですが、山賊になったからと言って食えるわけではない。彼らも食い詰めたんでしょうな。町を襲ったり、農村を襲ったりという事件が何度も起こりました。道行く商人などもだいぶ狙われましたし、穀物を運んで市に売りにゆく途上の農民や、買い出しに郊外に出た城内の人などもいろいろと酷い目に遭わされました。興陽で一番の大金持ちの安家が襲われたときには、財産も蔵に蓄えてあった穀物も全て持ち去られたそうですし、趙家も同じような目を見たと聞いています。」
「趙家……?」
――誰だっけ。その名前。
記憶の片隅に何か引っかかる響き。
――そうだ!この前、朱朱が言っていた姓だ。「趙家の生き残り」を探している者がいる、と確かに朱朱は言っていた。
夕暮れの風は、真夏の匂いを帯びつつ、少しだけ涼やかに吹く。
「趙家の人達は助かったんですか?」
秋蘭の問いかけに、梁雲は悲しげに目を伏せて首を振った。
「小さな子供に至るまで、誰一人……。」
「……じゃあ、趙家には生き残りはいないんですか。」
食い下がる秋蘭を梁雲は不思議に思う様子もなく、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「そうですね。いないはずですよ。全員が亡くなったからこそ、興陽県が白沙村を接収したのでしょう。生きている方がおられたなら、その方が治めるべきですからね。」
「治める?」
西日が通りを照らす。家々の屋根を朱に染める。
「趙家の亡くなったご当主は、庶子とはいえ、二代前の皇帝のお孫さんに当たる方でした。都での生活に倦んで、この地で隠遁生活をしたいと望んだ趙章様に、先代の皇帝陛下が白沙村をご領地としてお与えになったのだとか。」
「へぇ。」
――皇帝の一族、か。
秋蘭には都での生活に倦む、なんて、想像も付かなかった。都は明るくて賑やかで楽しい場所に違いないのに。それに……都にいたら、山賊に襲われたりもしなかっただろうに。
「秋生さん。肉屋にご用だったのでは?」
梁雲に言われて、肉屋を行きすぎかけたことに気付く。
「ではまたお会いしましょう。」
にこにこと会釈をして、梁雲は包みをもう一度抱え直し、歩き出す。
夕暮れの町にはいつの間にか激しい蝉時雨が湧き起こっていた。翌日の夕方、風来が薬屋の奥に姿を見せた。どこから入り込んだのか、秋蘭には分からない。ただ、気が付いたら、店の奥にいたのである。
「主。昨夜、例の狐を見てきましたぜ。」
手の甲で汗をぬぐいながら、それでもずいぶんと畏まった様子で、風来は報告する。
「小梅を連れて行ったんでさ。狐は犬を怖がって化けてても元の姿に戻っちまうって言いますし、犬も狐が相手なら吠えると思ったんでね。で、よっぴいて杜の旦那の店の前で待ってたんすよ。そしたらずいぶん夜が更けた時分になって、出てきました。狐めが。」
風通しのある場所に据えた長いすの上で、朱朱はゆったりと座ったまま、黙って話を聞いている。秋蘭も続きが気になって、壁に寄りかかったまま、聞き耳を立てた。
「確かにあれは妖艶としか言いようのねぇ女でした。綺麗は綺麗なんだが、何というか怖ろしく綺麗なもんで。あれなら狐だと疑いたくなる気持ちも良く分かりやす。」
そこまで言って、もう一度額の汗をぬぐう。
「ですが、小梅をけしかけてみたんですが、全然怖がらねぇ。小梅もあんまり吠える気がしなかったらしくて、すぐ大人しくなっちまいましてね。まるでその女に手懐けられたような状態でした。わしも姿を見られたくねぇもんで、小梅けしかけるだけけしかけて、ずっと物陰に隠れてましたが、どうもとびきりの美人なだけで、何といいますか、ありゃ人間に見えましたね。」
「ならば、その女は狐ではない、と。」
団扇をぴたりと止め、ころころと笑うような声音で、朱朱が尋ねた。
「や、分かりやせん。とにかく、わしも化けた狐ってヤツは見たことがねぇもんで。」
渋々ながらも負けを認めるように頭を掻く風来。
「本物であれ偽物であれ、いずれ、行って確かめるしかなかろう。それに、私も一度、化け狐というものを見てみたい。」
朱朱はくすくすと声を立てて笑った。
「あんまり無茶はしねぇでくださいよ。狐じゃないにしても、あの女が何か妖しいのは間違いのないことですぜ。闇を歩き慣れた気配でしたから。」
朱朱を止めることなど、とっくに諦めたのだろう。いくらか警告めいた言葉を残し、風来は立ち上がった。
「じゃあ、また夜に。」
今夜は満月ですから灯りはいらねぇかもしれませんね、と言い残し、風来はまた来たときと同じようにふらりとどこかへ消えていった。
「狐か。」
急に静かになった店の奥で、朱朱が低く掠れた声で呟く。
「秋蘭。お前は狐を見たことがあるか?」
「本物の狐なら見たことある。でも、化けたのは見たことないと思う。」
「……思う、とは?」
「もしかしたら……主だって狐かもしれないだろ。」
秋蘭は大まじめに言ったつもりだった。誰が狐で誰が狐じゃないかなんて、分かったものじゃない。だが秋蘭の言葉に、朱朱は堪えきれない様子で声を上げてころころと笑った。
「そうだな。私だって狐なのかもしれないな。あるいは秋蘭だって。」
笑いすぎて涙目になったのだろうか。右手の袖で軽く目元をぬぐいながら、朱朱は一言言うと、また何とも楽しそうに笑い出した。そしてはたと真顔になり尋ねる。
「もし私が狐だったら、どうする?」
「え?」
問いの意味を理解しかねて、秋蘭は黙ったまま、朱朱を見返した。ひらりと団扇をひらめかせる朱朱。
「蒼郎は?」
いつからいたのだろう。部屋の隅に茫洋と立っていたその男は、相変わらずの無表情のまま、朱朱に真っ直ぐな目を向ける。
「狐だろうが人だろうが、主は主だ。何が変わる?」
「……蒼郎らしい。」
ぴたりと口元で団扇を止め、朱朱が少しはにかんだように微笑む。
――そうだな。朱朱が狐だろうが人だろうが、同じことだよな。
騙されたなら、騙されたので良い。何も困るものか。
そこまで考えて、ふと首をかしげる。杜の旦那という人は、その女が狐だったなら、どうしたいと願っているんだろうか。
「女に化けた狐は男に取り憑いて殺すのだというぞ。」
からかうような朱朱の声に、蒼郎は全く動じた様子もなく淡々と応じた。
「主に取り殺されるのなら、それも運命。何の悔いもない。」
――杜の旦那はどうだろう。どう答えるのだろう。
朱朱が立ち上がった。空っぽの袖を微風が揺らす。
「杜佳はたぶんその女が狐でないことを願っているのだろうな。」
呟くような朱朱の声が、誰の返事も待たずに、風の間にかき消されていった。待っているとなかなか時は進まない。ようやく訪れた夜に、逸る気持ちを抑えて、秋蘭は女物の着物を取り出した。
――狐、か。
狐が気になるのか、妖術使いの真似事が楽しみなのか、秋蘭自身分かりかねた。だが、薬屋の楽しさとはまた別のわくわくするような想いが胸にあった。
久し振りという程に日が開いた訳ではないはずだが、衣の匂いにふと不思議な感覚を覚える。懐かしい、というと少し大げさであるにせよ、その匂いが嬉しい。袖を通すと、嗅ぎ慣れた衣の匂いに混ざって、ふうわりと玉花楼の香りがした。あの日、部屋に焚いてあった香の残り香が袖に残っている。
「夜になるとだいぶん涼しいな。」
通りに出る木戸に右手をかけて、朱朱が振り返る。朱朱の肩を抱くようにして、蒼郎が木戸を押し開いた。木戸の外には風来が待ちかまえている。
「小梅は連れて行きますかい。」
低く問う風来に、朱朱は黒い衣の裾を翻し小さく笑った。
「いや、置いていこう。今宵は真闇の蛍が相手だ。」