□ 十二 □
満月の夜だった。静まりかえった街。足音も立てず、四人は書肆に向かう。
「うわ。化け狐が出そうな風でやんすな。」
生温かい風が顔を撫でてゆく。
「化けて出るにはいささか明るい。」
くすりと笑って朱朱は空を見上げた。次の角を曲がれば書肆である。広いようでさほど広くない興陽の街。そう感じるのは、秋蘭がこの街を歩き慣れてきた証拠かもしれない。
「ちょいと辺りの様子を見てきやす。」
裏手の様子をうかがいにいく風来を見送って、物陰に潜む。
「主。」
「どうした。」
朱朱の耳元に口を寄せて蒼郎が囁く。
「杜佳に聞きたいことがある。聞いても良いか。」
何を?とは朱朱は尋ねなかった。鷹揚に頷く。
「任せる。」
蒼郎もそれ以上は説明しない。そのとき、再び風来が通りに姿を現して、三人を手招きし、小さな書肆の戸口を叩く。そしてすぐさま風来はまたどこかへと消えてしまった。
「真闇の蛍にご用だとか。」
誰何に蒼郎の低い声が応じた。開かれる扉。
「いらっしゃい。」
杜佳は見るからに平々凡々な男である。山賊に家族を奪われた悲劇の人であるようにも、化け狐に取り殺されそうにも見えない。普通のどこにでもいる地味な男である。
――なんでこの人が家族を殺されたりしなきゃいけなかったんだろう。
秋蘭の真剣な瞳を男は臆することなく正面から受け止めた。朱朱と蒼郎にも視線を向ける。そして、ゆっくりと溜息を吐いて、店を通って奥の部屋へと案内した。
部屋の中はそれなりに片づいていた。部屋の隅に埃は積もっているし、壁もしみだらけ。積み上げた書籍やら箱やらは、乱雑に置きっぱなしである。だが、それでも誰かが片づけようとした痕跡はあちこちに見られた。
「散らかっておりますが。」
いささか無愛想にそれだけ言うと、杜佳は指で椅子を指し示した。座れということだろう。素直に三人は椅子に腰を下ろす。まちまちの器を四つ取り出して、杜佳は白湯を注ぐ。
「最初からお話しますか。」
「いえ、事情は風来から聞いております。」
無表情のまま、蒼郎が低く応じた。茫洋とした薄気味の悪い大男蒼郎にも、杜佳は全く動じる様子もない。淡々と話を続ける。
「では何かご質問は。」
朱朱が蒼郎を見た。いつものようにころころと笑う朱朱ではない。厳かな表情で黙って蒼郎を見やる。
「その女が狐だったら、どうなさるおつもりですか。」
――もし私が狐だったら、どうする?
蒼郎の言葉に朱朱の問いかけが重なる。薄暗い部屋に小さな行灯の光が揺れる。
「狐だったら追い払っていただきたい。そのためにお呼びしたのです。」
あくまでも淡々とした杜佳の声。
「なぜです。」
――女に化けた狐は男に取り憑いて殺すのだというぞ。
確かに朱朱はそう言っていたし、旅芸人時代、何度も聞いた座長の怪談にもそういう話があった。家族を殺されて、苦痛の中に辛うじて生きている杜佳であっても、狐になんか取り殺されたくはないだろう。
蒼郎の問いに杜佳は困ったように黙り込み、しばらく何かを思案する様子だった。だが小さく息を吐いて応じる。
「野に棲むものは野に帰るべきでしょう。人と狐とは棲むべき場所が異なるはずです。」
「狐が怖ろしいからではないのですか?」
単刀直入に尋ねる蒼郎。杜佳はむすりとまた黙った。そして口を開く。
「本当に怖ろしいのは、李氏が狐でなかったときでしょう。狐なら狐で正体が知れている。あなたがたにお願いして払ってしまえばよい。あるいはそもそも李氏に救われた命なのだから、取り憑かれて取り殺されてもそれはそれ、しかたがないと思う。だが、李氏が人であるなら……。」
街の人が誰も知らない謎の美女李氏。杜佳の店に夜にだけ現れ、世話を焼いて消えるという奇妙な女性。確かに彼女が人であれば、摩訶不思議には違いない。
そのとき朱朱が一瞬、天井に目をやったことに秋蘭は気付いた。だがあまりにも一瞬のできごとであったので、気付いたのはたぶん秋蘭だけだっただろう。杜佳はそのまま言葉を続けた。
「あのように優しい子が、闇の中で生きなくてはならないということが、私には怖ろしい。」
そして真っ直ぐに朱朱を見据える。
「真闇の蛍殿、あなたもですね。闇の中で生きている。」
杜佳の視線を受けて、朱朱の厳かな表情がふわと和らいだ。否定するでもなく、肯定するでもなく、一瞬だけ、穏やかに微笑む。
「闇もまた一定の住処。狐が野に生き、人が街に生きるべきだというのなら、闇に棲む者は闇に生きなくてはならない。それが運命ですから。」
蒼郎の紡ぐ言葉に、杜佳は首を振った。
「闇に生きなくてはならない者が生まれてしまう、この現実が怖ろしいのですよ。だから私は……」
「狐であってほしい、と。」
突然口を挟んだ秋蘭に驚いたような視線を向けたのは杜佳だった。
「そう、ですね。李氏には狐であってほしい。家族に死に後れたこの私でさえ今まで日の当たる場所で生きていたのですから。」
そこまで言って杜佳は黙った。だが言わんとすることは秋蘭にも容易に理解できた。
――日の当たる場所で生きることすら叶わない、闇に生きる者の哀しみはいかほどか。
李氏にはそんな哀しみを抱えていてほしくはないということなのだろう。そしてはっと気付く。
――杜の旦那、李氏のことを狐じゃないと思ってるんだ。
「ならば杜の旦那。狐払いをいたします。」
厳かに告げる蒼郎。立ち上がった朱朱が袖の中から香を取り出す。燕燕が錬った新しい香だろうか。火を付ける前からほのかに甘い香りがした。
――朱朱の妖術は偽物だ。だったら狐払いなんかできるはずもない。だから本物の狐だったらこの狐払いは意味がない。李氏が狐じゃなかったら、狐払いにはやはり意味がない。杜の旦那は李氏が狐だとは思っていないし、誰のための何のための狐払いなんだろう?
ふうわりと煙が立ち上る。天井に向かって真っ直ぐに昇る穏やかな白い煙。
誰もが静まりかえり、その煙を目で追った。
「真闇の蛍殿。」
呼びかけられて振り返る朱朱。
「あなたは李氏が狐だと思いますか。」
杜佳の問いに黙って首を縦に振る。
「そう……ですか。」
――なんで?
朱朱が肯定する理由が秋蘭には分からなかった。狐であるわけがない。朱朱ならきっとそう言うに違いないと思っていた。だが朱朱は沈黙を守ったまま、ゆっくりと香を焚きしめ始める。白煙が天井の隙間に吸い込まれてゆく。香炉を右の手のひらに載せて、朱朱はゆっくりと差し出した。
「この部屋に妖かしのいた気配がある、と真闇の蛍が申しております。」
差し出されるままに、杜佳は香炉を受け取る。小さな土色の香炉である。
「妖かし避けの香です。これを焚いた部屋には妖かしは入ることができません。夜ごとにこれを焚かれればよろしい、と。」
朱朱の代弁をするような蒼郎に、杜佳は数回瞬きをした。自分が信じていない狐を、真闇の蛍が肯定したのである。ならば李氏は本当に狐なのだろうか。杜佳も不安になってきたのかもしれない。
次第に部屋中に柔らかく甘い香りが満ちる。何とも言えない独特の香りである。
「十日。」
煙は天井伝いに部屋を満たして消えてゆく。
「十日の間、狐が出なければ、お礼をいただきましょう。」
「十日の後で良いのですか。」
蒼郎の言葉に、驚いたように問う杜佳。
「今のままでは何もしていないも同然ゆえ。」
その言葉を合図とするように、朱朱は滑るような動きで戸口へと歩き出した。もうこの家に用はない。仕事は終わったのだ。
「では十日後に、風来殿をお呼び止めしてお礼をお預けいたしましょう。」
「狐が出なければそう願います。」
軽く会釈をして、朱朱は店の木戸をくぐる。秋蘭が続く。そして、蒼郎。後ろ手に木戸を閉ざそうとした瞬間、杜佳がひょいと顔を出した。
「蛍殿。」
黙って振り返る朱朱。
「狐であったとしても、私は李氏に感謝をしています。もしどこかで李氏に会うことがあったなら、どうかそう伝えていただけませんか。」
朱朱が頷いた。頭上には大きな月が掛かっていた。杜佳の家を離れてすぐに、風来が合流した。右に蒼郎、左に風来。朱朱と秋蘭を挟むようにして歩く。張りつめた空気。何かを警戒する視線。
大きな通りを抜けて人気のない小径に入ると、朱朱が立ち止まり、秋蘭を引き寄せた。蒼郎と風来は朱朱をかばうように立つ。
「そろそろ出てきても良いのではないか。狐。」
静まりかえった街に朱朱の掠れた声が低く響く。月明かりが白々と夜道を照らす。
――狐?狐って、李氏のこと?
朱朱の表情は仮面に隠れていて見えない。だが、怯えているようには見えなかった。いつものように朱朱の声は自信に満ちている。
「お呼びですか。」
唐突に艶っぽい女の声が聞こえた。道伝いの塀をひらりと越えて、闇の中から一人の女性が姿を見せる。若い、だが二十代半ばすぎくらいだろうか、朱朱よりは少し年上の女である。服装は艶とは言い難い地味で慎ましい風情であるが、全身から漂う気配は妖艶としか言いようがなかった。品定めをするような表情でじっと朱朱を見る。
「李氏、か。」
「他に誰だとお思いです。」
たおやかに、しかし艶やかに微笑んでみせる女。
「狐は野に戻るが良い。ここは狐の棲むべき地ではない。」
臆することもなく朱朱が命じる。秋蘭は李氏を名乗る女を凝視した。
――この人が、狐?
確かに妖艶という言葉でしか表現できないその気配は、化け狐であると言われれば納得のいくものだった。だが、本当にこの人は狐なんだろうか。どう見ても人にしか見えない。化け狐など見たことないから、本物と偽物の区別など分かりはしないけども。
「お話はうかがっておりましたわ。最後の伝言に到るまで、全部。」
目を細めて笑い、李氏は自らの袖の香をかいだ。
「こんな香りをつけられては、隠し立てもできませんもの。」
ふっと鼻をつく、先ほどの甘い香り。ということは、李氏はあのとき部屋にいた、ということなのだろうか。
「それにしてもよくお気づきになりましたね。音でも立てましたかしら。」
「天井の隙間からわずかに埃が舞った。それに気付いただけだ。」
――なるほど。李氏は天井裏に隠れてたってことか。
香の煙は上に向かうもの。こんな独特の香りを付けられてしまっては、この場で隠し立てはできはしない。服は脱げばいいが、髪に染みついた香りはなかなか取れるものではない。李氏が隠れて様子を窺っていることを知って、そして後に自分を追ってくるであろうことを予測して、天井裏に潜んでいた証拠とするために香を焚いた、ということかな。
妖艶に微笑んで、李氏が一歩前に出た。警戒するように半歩踏み出す風来を右手で制し、朱朱が低く尋ねた。
「野に帰るつもりはないか。」
李氏はしばらくの沈黙の末に諦めたように応じた。
「そうですわね。狐払いをしていただきましたし、私も長く遊びすぎました。これ以上、杜の旦那を困らせるわけにもいきませんわ。」
生ぬるい風が吹くと、さきほど焚きしめた香がうっすらと漂う。
「野に棲まうべき者は野に、闇に棲まうべき者は闇に。」
李氏は口元に指を当てて微笑んだ。
「でも、運命って、意外と変わるものですわ。」
「どういう、意味です?」
思わせぶりな李氏の言葉に秋蘭が思わず問いかける。だが、李氏は秋蘭を見つめながら艶やかな笑みを深め、「ではご機嫌よう。」の一言だけを残して、ひらりと塀の向こうへと姿を消した。
「良い。追うな。」
朱朱の声に、追いかけようとした秋蘭を蒼郎が抱きかかえるように止める。
「あの人は……本当に狐なの?」
朱朱は答えなかった。ただくすりと小さく声を立てて笑った。
「さあ、帰るぞ。」
空高く、満月が皎々と照り輝いていた。