□ 十三 □
「ありゃいけませんぜ。」
翌晩、張録の薬屋に姿を見せた風来は、どっかと腰を下ろすなり開口一番にそう斬り捨てた。薄暗い朱朱の部屋に集まったのは朱朱、蒼郎、秋蘭、そして風来の四人。
「何がいけない。」
「何ってあの女狐っすよ。」
女狐、といういささか穏便でない響きに、秋蘭はぎょっとする。
――それって昨夜の李氏のことだよな。
いくら風来であっても、よほどのことがない限り、そんな風にひどく相手を貶めるような呼び方はするまい。仮にも彼らの主、朱朱の目の前だ。しかし、驚いたのは秋蘭だけであったらしい。朱朱はびっくりした様子もなく、そのまま言葉の続きを眼で促す。
「例の噂を拾ってきたやつを捕まえて、さっき確認しました。どう考えても同じ女としか思えねぇんすよ。あちこち嗅ぎ回ってなんか探ってるらしい女ってぇのと、昨夜の女狐は。」
「例の噂、というのは、趙家の生き残りを探している者がいるというあれか。」
念を押すように尋ねた朱朱に、風来はすっと居住まいを正す。
「へぃ。左様で。杜の旦那の奥さんもやつらに殺されてますから、同じ境遇だってんで、何か知ってるかもしれん、と思ったんでしょうな。」
――なるほど。李氏が、以前から警戒していた相手だった、というわけか。
詳しいことは秋蘭にはよく分からない。とにかく推測するしかない。だが、風来以外は仮面を付けていたにしても、李氏との遭遇が歓迎すべき事態ではないだろうことは容易に想像が付く。
秋蘭の視線の先で、朱朱がふわりと団扇を動かした。思案するようにゆっくりと口元を覆う。
「ちょいと面白くねぇ展開になっちまいましたかね。」
面目なさそうに俯く風来。蒼郎は相変わらず眉一つ動かさず、二人の会話を聞いている。
「だが。」
厳かに朱朱が口を開いたので、ぱっと風来は顔を上げた。
「李氏はおそらく二度と杜佳の元へは行くまい。最初は、生き残りの手がかりでも探して杜佳に接触したのだろうが、杜佳が何も知らないことくらいすぐ分かったはずだ。それでも李氏が何度も杜佳の元を訪れた理由は一つ。」
ぱたり、と団扇を膝に置いて、朱朱が微笑んだ。
「見捨てられなくなったのだろうな。」
生きる望みもなく、ただ、孤独の中で、時の過ぎ、命が尽きることを待つだけの杜佳。情が湧き、見捨てられなくなることもあろう。
「だが、杜佳は李氏が普通の人間ではないことに気付いてしまった。」
――あのように優しい子が、闇の中で生きなくてはならないということが、私には怖ろしい。
杜佳の言葉が蘇る。
化け狐を追い払うための香で、李氏を追い払うことができたなら、きっと杜佳は李氏が狐だったと信じるだろう。それで杜佳が苦しまずにすむのなら、李氏もそれを望むはずだ。孤独の中で苦しむ杜佳を見捨てられなかった人なのだから。
ゆらりと戸口で長い影が揺れた。
「今日、杜の旦那が書肆を整理していたのを見た。」
「書肆を整理していた?」
蒼郎の低く抑揚に欠けた声を反芻する朱朱に、蒼郎が訥々と語り出す。
「置きっぱなしになっていた古い書物から、順番も構わず適当に並んでいた箱入り本まで、いちいち確認して、帳簿に書き入れていた。おそらく、きちんとした商売をもう一度やり直すつもりなのだろう。」
――それって、李氏のおかげなのかな。李氏に会って、生きていても良いって思えるようになったのかな。
口を挟んで良いものか判じかねて、秋蘭は朱朱と蒼郎の顔を順繰りに見やる。朱朱の口元にふと柔らかい笑みが浮かんだ。
「杜佳が今後、どんな本を仕入れてくるか、楽しみだな。」
そこへ、風来が苦虫を噛み潰したような表情で口を挟む。
「杜の旦那はそれで良いですがね。あの女狐はどうしますかい。」
「……趙家の生き残り、か。」
風来の苦言に、朱朱が天井を見上げた。
――皇帝の一族、趙家。一人残らず山賊に殺されたという一家、だよな。
梁の旦那から聞いた話を思い出す。もし、生き残っているとしたら、皇帝の一族だからきちんと探し出されて大切に扱われているに違いない。きっとそうに違いないけど。
――でも、もしかしたら朱朱たちは……。
「何が目的なのだろうな。」
秋蘭の思考を断ち切った、独り言のような朱朱の呟きに、蒼郎も風来も答えなかった。夜の風は少しひんやりとして、湿度の高い部屋の中をそっと吹き抜けてゆく。
「主。大変申し訳ないが、ことがことだ。当分はここで大人しくしていてくだせぇ。」
苦虫を噛み潰したような声のまま、風来が告げる。得体の知れない李氏を相手にするためには、慎重になるに越したことはないだろう。それは確かなことだ。
――だけどそれじゃ朱朱が可哀想じゃないか。
朱朱のためを思えば、それが必要なのは分かる。だが、釈然としなかった。一日中、薬屋の奥で息を潜めてじっと隠れている朱朱に、たまの夜の散歩さえ禁じるなんて。
さすがの朱朱も一瞬は口をつぐんだが、すぐに団扇を取り上げて軽く揺らした。
「それもそうだな。大人しくしていよう。」
そして秋蘭に目をやる。
「そうとなれば、悪いが、明日の晩、玉花楼に使いに行ってもらえないか。青青への言伝を頼みたい。」
「え?俺?」
唐突に水を向けられ、驚きを隠さず聞き返せば、朱朱がころころと声を立てて笑った。
「仮面を外して歩けば、秋蘭だとは悟られまい。青い衣ばかりでは可哀想だと、白氏が萌葱の着物をあつらえてくれたから、それを着れば良い。もちろん、女物の着物だ。なかなかに愛らしい色だったぞ。」
「白氏が?」
白氏が萌葱の布で何かを縫っているのは、数日前から気付いていた。けれど、余りにも可愛らしい色合いだったので、小さい張芳の着物だと思い込んでいたのだ。
――あれが自分のためのものだったとは。
少し面くらい、少し気恥ずかしくなりながらも、新しい衣裳に心が弾む。たとえそれがお下がりであっても、新しい衣裳で笛を吹く日はいつだっていくらか晴れがましい気分になるのだ。まして、自分のために作ってもらった衣裳ともなれば言うまでもない。
「頼まれてくれるか。」
朱朱の言葉に、秋蘭は何度も頷いた。この薬屋から出られない朱朱の役に立てるなら、それが何よりだ。自分は朱朱の女中。頼まれたら、何だってやる。
「秋蘭は私が何者なのか、聞かないのだな。」
ふと、朱朱が口元を団扇で隠すように言う。
「主だって俺がどこから来たのかとか、何も聞かないじゃないか。」
――俺を疑いもせず、ここの家に置いてくれた。だから、俺も何も聞かない。趙家のこと、山賊のこと、朱朱のこと。気にならないわけじゃない。だけど、聞かない。
「主は主だから、それで良いだろ。」
蒼郎の言葉を思い出す。狐だろうが、人だろうが、主は主。何者かなんて関係ない、はず。
「それも、そうだな。」
秋蘭の答えに眼を細める朱朱は、心なしか少し寂しそうに見えた。玉花楼の一階からは相変わらず賑やかな宴の声が溢れていた。だが、今日聞こえてくるのは話し声ばかり。笛の音も天上の鴬の歌声もない。
「おや。」
恰幅の良い玉花楼の主人、郭の旦那は、一度見ただけであろうに、秋蘭の顔をしっかり覚えていたらしい。裏口の木戸から招き入れる。
「朱朱ちゃんは元気かい。」
愛想良くそう尋ねながら、二階への通路を指し示す。
「この前の部屋で待っておいで。」
どっと笑い声がわいた。宴は盛り上がっているようだが、人数はさほどではないのかもしれない。七、八人、あるいはもっと少ないくらい。だが、待っておいでと言う以上、青青は宴に出ているのだろう。
聞き耳を立てながら足音を忍ばせて二階に上がる。きっちりと閉ざされた扉を、そっと開くと、きょとんと秋蘭を見上げる燕燕と目が合った。ぱっと目を輝かせる燕燕。
「秋蘭お姉様!」
灯りの横で譜面を読んでいたらしい。朱朱の女中だから、この部屋に来ても当然だと思っているのだろうか、立ち上がって優雅に礼をすると、秋蘭にも一つ椅子を勧める。
「それ、何の譜面?」
挨拶もそこそこに秋蘭は燕燕の手元を覗き込んだ。旅芸人の一座にいたときは、譜面などなしで、直接先輩に曲を習うことが多かった。だが、時折、酔狂な客から譜面を渡されて吹けと命じられることもある。初見できちんと吹ける秋蘭は、一座でも重宝がられたし、新しい曲に出会うのは秋蘭にとってとても楽しい一時であった。
「おさらいですの。」
気恥ずかしげに答える燕燕の手から、秋蘭は譜面を取り上げた。初めて見る曲だ。並んでいる数字を音楽に変換してゆく。鼻歌で軽くその旋律をなぞれば、燕燕が眼を見開いた。
「すごいですわ。ちょっと見ただけで全部お分かりになるなんて。」
「こういうの、得意なんだ。」
真顔で褒められて急に照れくさくなる。観衆が驚きの声を上げる中、初見で吹ききるのはとても気持ちが良いものだった。だが、妓楼で笛を吹いている燕燕が相手では、少し面はゆい。
「楽器をなさるんですか?」
「うん。笛ができる。以前、旅芸人の一座にいたんだ。」
その言葉に燕燕はぱっと両手を合わせ、身を乗り出した。
「旅をなさっていたのですね!」
「え?」
あまりに当たり前の問いかけに、秋蘭は少し面食らった。そして気付く。
――燕燕は旅芸人なんか、見たことないんだろうな。
妓楼の看板妓女は、市場で旅芸人に拍手を送ったりしないのだろう。根無し草の芸人と、居るべき場所のある妓女とは、違う世界の住人。秋蘭だって、玉花楼に顔を出すまでは、妓女など見たこともなかったのだ。
「旅ばっかりだったよ。ずっと。」
「羨ましいですわ。」
「羨ましい?」
今度は心底びっくりして聞き返す。旅ばかりの根無し草の生活は、情けないことばかりだった。住む場所がある方が良いに決まっている。そう思い込んでいた。だから、旅ばっかりだったという言葉は、自嘲気味に吐いたつもりだったのだ。
「羨ましいって、何が?」
「え?」
今度は燕燕が驚く番だった。しばらく口を開けて秋蘭を見つめていたが、ようやく秋蘭の質問の意味を把握した様子で、言葉を紡いだ。
「私、ずっとこの通りから出たことないんですの。」
「出たことないって、小さいころから一度も?市場にも行ったことはないの?」
「はい。ここで生まれて、ずっと育って。危ないから遠くに行ってはだめ、と。」
そこまで言って燕燕は俯く。階下の宴の声はまだ続いている。
「私は……家のある人が羨ましかったけどな。同じ場所で暮らして、同じ場所で買い物して、同じ場所で年を取っていくのって。」
素直にそう告げれば、燕燕が小さく首をかしげながら目を上げた。
「そういう、ものでしょうか。」
芳春が大商人に買われていったとき、これで芳春は一所に住めるのだ、と少し羨ましく思ったことを、秋蘭は思い出した。
――不思議なものだな。
「いつか、秋蘭お姉様の旅のお話、聞かせくださいね。それから笛も。」
燕燕の声は純粋な憧れに満ちていて、秋蘭を更に面はゆくさせた。窓の外にはきれいな星空が広がっている。空気が澄んでいるのか、空がずいぶんと高く見える。
譜面を机の上にそっと置きながら、燕燕が恥ずかしそうに言った。
「私、本当は笛はあまり得意ではないのです。」
そうかもしれない、と秋蘭も思った。何度か聞いた燕燕の笛は、確かに特別巧いわけではない。練習に練習を重ねて、やっとまともに吹けるようになっている。そんな感じがした。
「歌うのが得意?」
「いえ……歌は鴬お姉様がいらっしゃいますもの。」
「じゃあ、踊り?」
はにかんだ笑みで、燕燕が頷いた。
「今度、私が何か吹いてあげるから、燕燕は踊ってくれる?」
冗談めかしてそう誘えば、燕燕がにこりと微笑んだ。
「楽しみにしておりますわ。」