□ 十四 □
階下がにわかに慌ただしくなる。客が帰るらしい。
「もうすぐ鴬お姉様が戻ってみえますわ。」
館の外から見送りに出てきたらしき郭の旦那の声がする。それに応じる男たちの声に、青青の朗らかな笑い声が混じる。
「燕燕は今日は一緒じゃないんだね。」
「はい。今日の宴は、鴬お姉様と男衆だけ呼ばれましたの。安の大旦那様、今日はゆっくり落ち着いて飲みたい気分だとおっしゃったそうですわ。」
「今日来ているの、安の大旦那なの?」
この前来たときも確かそう言っていたはず。そうと聞いて朱朱が驚いていた記憶がある。安の大旦那は滅多に妓楼で宴をするような人ではないのかと思っていた。
秋蘭の驚いた様子に、燕燕はくすっと笑った。
「水原様もご一緒ですわ。水原様、きっと、鴬お姉様をよほど気に入られたに違いありません。ねぇ、秋蘭お姉様。」
「うん?」
「安の大旦那様はお子様がいらっしゃいませんでしょ。そしてお若い材木屋の頭領、水原様をとても気に入っていらっしゃるご様子ですわ。もしかして、安家の跡取りとしてお迎えになるおつもりではないかしら。そうしたら、鴬お姉様は玉の輿だとお思いになりませんか?」
瞳をきらきらと輝かせながら尋ねる燕燕に、秋蘭は面食らう。
「でも天上の鴬は……。」
――青青は梁の若旦那のことが好きなんじゃないのか?
そう言いかけて言葉を飲み込む。もしかしたら燕燕は、青青の片思いを知らないのかもしれない。だが、その危惧は当たらなかったらしい。
「秋蘭お姉様。」
言葉の途中で黙り込んだ秋蘭を見て、燕燕がふわりと穏やかな笑みを浮かべた。
「ここは妓楼ですわ。妓女の恋なんて、空に掛かる月と同じ。いくら憧れても手の届くはずがありませんもの。夢が叶わぬさだめならば、せめて現実くらい、恵まれていても良いですわ。同じ籠の鳥なら、良い飼い主に巡り会うのが幸せですわ。そう思われませんか。」
そしてすっと立ち上がった。
「そうそう!こちらの窓から玄関が見えますの。水原様、本当に素敵な方ですのよ。」
秋蘭の手を引いて、廊下に出た燕燕。導かれるままに二人並んで窓から身を乗り出す。斜め下に、玉花楼の名を記した看板代わりの灯りが見えた。
「こんなはしたないことして、郭の旦那様に知れたら怒られてしまいますけど。」
くすくすと小さく笑いながら、燕燕が秋蘭を振り返る。燕燕の華奢で柔らかい右手の指が、燕燕の斜め後ろから窓枠に寄りかかるように身を乗り出す秋蘭の、左手の甲に触れる。
――こうやって見ると俺の手って大きいよな。
いつまでも女のふりをしているのは難しいかもしれない。そんなことを考えつつ、窓の外に目を向ければ、男衆に灯りを持たせて、二人の男が店から出てくるところだった。一人は、少し離れたところから見ても分かるほどに、貫禄あふれる壮年の男。もう一人は背も高くがっちりした体つきに見える。
――背の高い方が水原とかいう材木屋の頭領かな。
店先まで見送りに出ているのだろう。二階の窓からは姿は見えないが、青青の別れを惜しむ声が聞こえる。
安の大旦那と水原は二度ほど振り返って、店を後にした。二度目に振り返ったとき、水原だけがちらりと店の二階に視線を向けた。その一瞬の視線はあまりにも一瞬のものであったから、燕燕は気付かなかったかもしれない。だが、水原の猛禽のように鋭い眼差しに、覚えず秋蘭はぞくりとした。
――あれは堅気の商売をやる人の目じゃない。
旅芸人をやっていれば、いろいろな人に出会う。渡世人の類とも行き会って、時にはいざこざがあったりもする。武芸など欠片も身につけていない旅芸人達にとって、人を見極めることが、すなわち生き残ることだった。
――あれは修羅場をくぐってきた人の目。
もちろん、川上で材木運搬屋の頭領をやっているのであれば、山賊達と日々やり合っているに違いない。だから、修羅場をくぐることも日常茶飯事であるかもしれない。それは想像に難くなかった。だが、水原は、有徳の人として名高い安潜に、気に入られるほどの男なのだと考えると、どこかにぬぐいがたい違和感を覚えることも否めない。
水原も安の大旦那も、もう玉花楼を振り返らなかった。道の向こうに客の姿が消えるのを待って、燕燕が秋蘭を振り返り見上げる。
「素敵な方でしたでしょう?」
逞しくて頼れそうな雰囲気の男ではあった。確かに旅芸人の一座にいた少女達が、あの手の男に優しくされれて浮かれはしゃぐこともままあった。秋蘭とて、その気持ちは分からないわけではない。
――いずれ、女装していてもあまり違和感がない自分とは大違いだけどな。
そんなひがむ気がないわけじゃない。手放しに褒める気もしなくて、秋蘭は空を見上げた。満天の星である。
「郭の旦那に見つかる前に部屋に戻ろう。」
「はい。」
燕燕の手を引いて部屋に戻ると、すぐさま後ろから階段を駆け上がる足音が追いかけてきた。
「秋蘭!」
勢いよく扉が開き、青青が飛び込んでくる。
「どうして朱朱が一緒じゃないの?朱朱は病気なの?熱でも出したの?」
噛みつくようにまくし立てる青青。鮮やかな碧の着物。頬が軽く紅潮している。宴で酒を飲むのも妓女の仕事のうちなのだろう。
「あの、これ、朱朱からの手紙。」
自分が説明するより、こっちの方が早い。秋蘭は袖の中から預かっていた手紙を取り出した。青青はさっと手紙を開封すると、真剣な面持ちで読み始める。燕燕が団扇で静かにゆったりと青青を扇ぐ。
一通り目を通すと、青青はもう一度最初に戻って読み返した。そしてもう一度。
「……狐、ね。」
ふぅと軽く歎息する。
「燕燕。悪いけど、冷たい水をもらってきてくれない?」
「はい。少々お待ち下さいね。」
しずしずと燕燕が退出するのを待って、青青が口を開いた。
「今ごろ、趙家のことを探ってるなんて、何が目的なのかしらね。」
それは独り言ではなく、明らかに秋蘭に意見を求める口調だった。
――青青は俺が「趙家」のことを知っていると思っているんだ。
確かにこんなところで手紙を届ける役を引き受けているのだから、秋蘭は内部事情に通じていると思われても不思議はない。いや、むしろ、内部事情を知らない方が不思議なくらいだろう。
「分からない。主も風来さんもどういうことなのか分からないみたい。」
正直に答えれば、青青はふぅっと息を吐いて天井を見上げた。
「まぁいいわ。とにかく朱朱に、よくよく周囲には気を付けてって伝えて。もうすぐ陸善史から手紙の返事が来るころだろうし、何か分かるかもしれないしね。」
今度の言葉は、途中から独り言のように響いた。秋蘭は黙って頷く。
「お水、お持ちしました。」
静かに扉が開く。燕燕が三つの茶器を載せた盆を持って立っている。もう夏も終わるころだけれども、やはり暑くないと言えば嘘になる。
「ありがと。」
上品な器を受け取る。口に含めば、心地よい冷たさが体に染み渡った。
「そうそう。朱朱にこれを渡して。」
突如立ち上がった青青は、部屋の奥から上品な木箱を取り出した。
「宮廷のお菓子職人の弟子筋にあたる、有名なお店のお菓子。お客さんからいただいたの。きっと美味しいから、朱朱に食べてもらってね。」
勢いよく押しつけられて、つい受け取ってしまった秋蘭。
「でも、それじゃ、あんたが食べられないじゃないか。」
燕燕がいるというのに、反射的にうっかり出てしまった男言葉は、青青が朱朱にあまりにも良く似ているからだろうか。燕燕も青青もそれを気にする様子はない。
「お菓子はたくさんいただくから、持て余すくらいなのよ。だから、私はそれはいらない。朱朱に食べてもらいたいの。」
そう言われては反論もできない。秋蘭はお菓子と短い返信を受け取って、玉花楼を後にした。もう夜も更けた。道行く人影など全く見あたらない。秋蘭は一人急ぎ足で、誰もいない静まりかえった夜の道をたどった。月明かりをたよりに角を曲がろうとして、誰かがいることに気付く。
――こんな時間にこんな場所で立っているなんて、どういうことだろう。
薄気味の悪さを押し殺しながら、秋蘭はその前を素通りしようとして、見覚えのあるその男に横顔にはっとする。
「やあ。こんばんは。」
夜道の暗さに似合わず、朗らかな声が響いた。
「さっき玉花楼の二階から覗いてた子だね。住み込みじゃなくて通いなんだ?」
その長身の男は、間違いなく水原だった。安の大旦那とともに店を出て、安家の屋敷に帰るものだと思っていたのだが、なぜこんなところにいるのだろう。混乱して言葉もない秋蘭に、水原は快活な笑みを見せた。
「びっくりさせちゃってごめんな。空があんまりきれいだから、ちょっと酔い覚ましに散歩してたとこでさ。家、どこ?ついでだから送っていくよ。」
――あれ?悪い人じゃなさそうだな。
先ほど感じた「修羅場をくぐっている人」という印象はすっかりどこかへ行ってしまった。眼前にいる水原は、どう見ても面倒見の良い兄貴分である。だが、家まで送ってもらうというのも困る。張録の薬屋に住んでいるのは、「秋蘭」という少女ではなく「秋生」という少年なのだから。女の姿のまま、張録の薬屋に帰るところを見られるのはまずい。
「いえ、一人で帰れます。」
「そうか?じゃ、俺も帰ろうかな。」
予想外にあっさりと水原が折れた。もっと食い下がられたらどうしようかという不安が、一瞬にして消えさった。
――感じの良い人、だな。
燕燕が彼を褒める理由がよく分かった。
「家、こっち?だったら途中までは一緒だな。」
――途中までなら、良いか。
安家の屋敷に向かうなら、すぐに別れることになる。秋蘭は水原と並んで歩き出した。
「君は、天上の鴬のお付きの子?」
頭上から降ってくる低い男の声。見上げれば、首筋に傷跡があるのが分かった。やはり修羅場をくぐってきたには違いないらしい。たくましい体つきだった。年の頃はおそらく二十歳過ぎ、蒼郎と同じくらいか。
「ちょっと違うけど、だいだいそんな感じです。」
自分の立場をどう説明して良いのか、分からない。だが、正直に説明することもできない。困惑しながら応じた秋蘭に、水原はそれ以上穿鑿しなかった。
「天上の鴬って、どんな人?」
「どんな……って?」
「んー。そうだな。家族はいるのかとか、どこの出身かとかかなぁ。知ってる?」
――家族?出身?この人、何を知りたいんだろう?
意図を掴みかねて、秋蘭は黙り込む。水原も黙った。重ねて問いかけようとしない辺り、青青の家族や出身には実はさほど興味なんてなくて、ただ単に何か通じやすい話題を振りたかっただけだったのだろうか。
黙って歩くうちに、すぐに岐路に出る。星が天高く瞬いている。昇りはじめた十七日の月がゆっくりと世界を照らす。
「じゃ、気を付けて帰れよ?」
急に黙り込んだ秋蘭の無礼を咎める様子もなく、朗らかに手を振って、水原は通りの向こうへと消えていった。