□ 十五 □
「確かにいい男ですわね。もったいない……かしら。」
少し鼻に掛かったような妖艶な声が頭上から降ってくる。水原がいなくなってからは全く人気のない道である。秋蘭は思わず肩をびくりと震わせた。おそるおそる振り返れば、秋蘭の身の丈より少し高い塀の上に、髪をきりりと結い上げた妖艶な美女が腰かけている。
「李氏!」
――女狐。
風来の声が脳裏を過ぎる。趙家の生き残りを探していたという怪しげな人。夜道で出会ったとしてもわざわざ声を掛けてくる必要もない。
――だったらなぜわざわざ……?
困惑した様子を見せる秋蘭に、李氏は凛とした笑みを見せる。
「でも、あの男には惚れたりなさらない方が良いですわ。」
音もなく地面に降りたった。ふわりと品の良い香りが鼻をつく。
――あの男って、水原の話、だよな?
得体の知れない相手に下手なことは言わない方が良い。秋蘭は黙りを決め込んで、李氏をまっすぐに見やる。
――何を言ってもムダ。俺は何もしゃべらないよ。
「お嬢ちゃんは……関係ないですわよね?」
朱朱としゃべっていたときとは違う、どこかしら気さくな雰囲気で、唐突に李氏が問いかける。二人の距離は三歩ほど。手を伸ばせば届きそうな近さ。
「お嬢ちゃんは、真闇の蛍とも、天上の鴬とも、何の関係もないのではないかしら?なぜ一緒にいらっしゃるのかしら?」
――この人は……何を知っているんだろう……?
真っ暗な道。頼りは星明かりのみ。李氏の声だけが聞こえる闇の中で、秋蘭は自分の心臓の音さえ聞こえそうな気がした。
「秘密ですの?ま、よろしいですわ。知りたいことはだいたい分かりましたもの。だけど、お嬢ちゃんの正体だけ分からなくて気になりましたの。最後の謎を解いてから帰りたかったのですけれども……ムリみたいですわね。」
李氏はそれ以上改めて問いかけようとはしなかった。妖艶ではあるが、きつい顔つきをした女である。
「ご主人様に伝えていただけないかしら。仕事は済みましたから、狐は野に帰りますって。」
「……野に帰るの?」
黙りを決め込んでいたつもりが、口を衝いて出た言葉にはっとする。李氏は目を細めて小さく笑った。
「ええ。狐は野に帰りますわ。それから杜の旦那のこと、気を遣ってくれてありがとうございますともお伝えいただけますかしら。旦那ね、どこか、父に似ておりましたの。悪い狐に化かされたと思って、私のことなんか忘れてくだされば、それで……私は満足ですわ。」
かっこをつけているのでも拗ねてるのでもなく、それが李氏の本心のように見えた。
「杜の旦那、店を掃除してた。ちゃんとやり直すみたいだって言ってた。」
ふと思い出して、蒼郎の言葉をそのまま告げれば、風が頬を撫でる。
「そう。」
李氏は目を伏せた。夜風が薄っらと雲を刷く。
「李氏は……何者なの?」
「……私?」
趙家の生き残りの情報を探っている怪しい人。風来さんなどは本当に警戒しているみたいだった。だけど……いったい何者なんだろう。
「私は……狐ですわ。」
そう答えて、李氏はのどの奥で軽く笑った。
「お嬢ちゃんも狐に化かされたと思っておいでなさいな。……そうね、あなたが誰でも構いませんわ。お嬢ちゃん。どうかご主人様によろしく。」
静かに風が吹く。雲が消える。
――この人は何を知っているんだろう?
いずれにしろ、朱朱達の正体を知っていることは間違いない。すっかり調べつくしたから、この町を去ると、そう言っているのだ。
――俺は……朱朱が誰なのか、知らないけど。
「……いつか運命が変わる日が来る、と思いますわ。その日まで、きっとそばにいてさしあげて。」
くるりと背を向ける李氏。
「待って!」
ゆっくりと李氏は振り返った。
「家族だから。」
唐突な秋蘭の言葉に、李氏が小首をかしげる。
「家族だから、私は……私達は一緒にいる。理由とか関係なくて……家族はずっとそばにいるもんでしょ。」
風がぴたりと止んだ。
「そう。」
それだけ言うと李氏は目を細め、そのままきびすを返し、瞬く間にひらりと塀を越えて視界から消えた。長い夜だった。青青のところに行って、水原に会って、その後に李氏にまで会った。
――朱朱に話さなきゃ。
報告しなくてはならないことはたくさんある。だが、それ以上に聞きたいことがあった。
――朱朱は誰なの?どうしてそこに居るの?
家族だから、聞かなくて良い。ただ黙ってそばに居れば良い。そう思っていた。自分をそうやって受け入れてくれた人達だから、自分も聞いちゃいけない、黙っていなきゃいけないと思っていた。
――でもそれじゃダメだ。
家族だからこそ知りたい。知らなくては朱朱の力になれない。
秋蘭は道を急いだ。「お帰り。」
木戸を開けてくれたのは張録だった。
「お嬢様が部屋で待ってらっしゃるよ。」
一階の廊下をまっすぐに行けば、階段の奥に朱朱の部屋がある。薄く開いた扉の隙間から漏れる淡い灯り。
「ただいま。」
すっかり遅くなってしまったから、もう朱朱は眠っているんじゃないかと思いながら、そっと声を掛ける。だが、間髪入れず返事があった。
「遅かったな。」
怒っている声音ではない。李氏のこともある。心配していたのだろう。いつもの椅子に座って、団扇を玩ぶ朱朱に目で促され、部屋の中央部に置かれた椅子に腰を下ろす。蒼郎は相変わらず戸口のそばにじっと立っている。
「いろいろあるんだ。まず、これ。」
そう言いながら秋蘭は、青青から預かった菓子箱を朱朱の膝に置き、懐に手を突っ込む。
「手紙もあるんだ。」
「青青は元気だったか。」
手紙などは後回しなのだろう。受け取ったままそれを膝に置き、朱朱は秋蘭の話を先に聞きたがった。青青のこと、水原のこと、李氏のこと。何から話して良いのか分からない。だが、秋蘭は思いつくままにたどたどしく伝える。朱朱はその言葉に一つ一つ頷いた。
「李氏は……野に帰ると言ったのだな。」
一通り話し終えた秋蘭に、独り言のように朱朱が尋ねた。
「うん。」
だから朱朱もまた外に出かけられるだろ、と、言いかけて口をつぐむ。李氏がどこかに行くというのが確かだとしても、朱朱の何かばれてはいけないことが、誰かにばれてしまったことは間違いない。もしかしたら、事態は悪化したのかもしれない。
――でも、俺は朱朱の家族だから。
「……主。」
「どうした?」
秋蘭の声が思いの外緊張感に満ちていたためだろうか、朱朱は少しびっくりしたように秋蘭に目を向けた。
「主は……何者なの?」
ふわり、と団扇が揺れる。
「……私か?」
口元を覆ったまま、朱朱が穏やかに微笑む。どこか安堵したような笑み。
「たぶん、お前の予想通りの人間だよ。秋蘭。……私は白沙村の趙朱朱。山賊に襲われて滅ぼされた趙家の生き残りだ。」
――白沙村の趙家。
やはり、という思いと、驚きとが相半ばした。予想はしていても、今まで実感はさっぱり伴っていなかったのだ。
「それって……皇帝陛下の一族の?」
「よく知っているな。」
そこまで秋蘭が知っているとは、朱朱も予測していなかったらしい。軽く眉を上げて驚きを示す。だが否定はしない。白沙村の趙家が皇帝の一族なのは、梁の旦那の言葉通り、本当のことだったのだ。
「じゃあなんでこんなところに住んでいるの?なんで……なんでこんなところで隠れて生きていかなきゃいけないのさ。」
――皇帝の一族なら、みんなが守ってくれて当然じゃないか。
朱朱が団扇を膝に置いた。
「あのころ、この地方では凶作が続いていた。都では権力闘争。だから……運命だったんだ。」
薄く開いた戸口の向こうから吹き込んでくる微風に、灯りが揺れる。
「長い話になるが良いか?」
当然、と、秋蘭は深く頷いた。話は十二年前に遡る。
白沙村は興陽の北西にある小さな、けれども豊かな村であった。興陽近隣の主産業は林業である。良質の材木を産出することで有名だが、それは同時にこの地域が農業に向かないことをも意味していた。そんな中、土壌に恵まれた数少ない農業地域として、また風光明媚な村として知られる白沙村を、仁宗皇帝の庶孫、趙章が隠遁の地に選んだのが、今から二十六年前のこと。当時の皇帝はすでに趙章との血縁は薄く、趙章の希望を聞くや、大した興味もなさそうに「村を一つ与えよ」と興陽の知事に詔を下したのである。皇帝の子孫とはいえ、権力欲もなく、政治の表舞台にほとんど出てこない趙章がどこに隠遁しようが、大した問題ではなかった。いずれ、趙章は庶孫、しかも身分の低い女の孫である。権謀術数に忙しい都の貴族たち、皇族たちは、みな、すぐに趙章ら家族のことなど記憶から消し去ってしまったに違いない。
おかげで、というべきであろうか。趙章とその家族達は豊かな村の主として、とても穏やかな暮らしを享受していたのである。十二年前のとある夜までは。
その夜、朱朱と青青はぐっすりと眠っていた。まだ六歳の子供である。白沙村の趙家の屋敷の一番奥の部屋にいた二人は、誰かの叫び声で目を覚ました。
「賊だ!」
確かにそう聞こえた。山賊に襲われた安家の話は、小さい朱朱たちも何度も聞かされている。残酷で怖ろしい山賊達。小さな子供まで殺してしまうという。
――どうしよう……?
灯りなどない真っ暗な部屋の中、逃げることなど思いもよらず、二人は身を寄せ合って聞き耳を立てた。
玄関の方から、激しい物音が鳴り響く。何かを叩き壊す音、金属のぶつかり合う響き、あるいは怒号。子供部屋の前の廊下を数名の足音が駆け抜けてゆく。
「お前はお嬢様方をお連れして逃げろ!裏口から抜けて納屋に隠れるんだ!」
蒼郎の父の声だった、と朱朱は記憶している。その声が消えたと同時に、蒼郎が声もなく戸を開けて部屋の中に飛び込んできた。朱朱と青青の姿を確認すると、二人の手をつかむ。ときに、蒼郎は十二歳。
真っ暗な部屋から記憶を頼りに廊下に出る。怒号や物のぶつかり合う音はどんどん大きくなっているようだった。
「父上は?」
震える声で尋ねる朱朱に蒼郎は、分からないと首を振る。
「父上達のところに行こう?」
青青が提案する。父上達のところに行けば、きっと蒼郎の父上もいる。蒼郎の父上は屋敷の召使いの頭で、大きくてたくましくて、しかもとびきり強いのだ。山賊が来たら守ってくれると、いつだってそう豪語していた。
だが蒼郎は黙って首を振った。
「納屋に行く。」
低くそれだけ告げると裏口へと向かう。蒼郎がそう言うのなら、双子達には逆らう気はなかった。小さく頷いて、蒼郎に手を引かれるまま歩き出す。何も見えない廊下は予想外に長くて、どこまで行っても外に出られそうにない。だが、激しい物音はいつの間にか聞こえなくなってきた。
――もう、大丈夫なのかな?
朱朱は少し安心して、蒼郎の手をぎゅっと握り直した。きっともう大丈夫。蒼郎の父上が山賊なんか全部やっつけてくれたんだ。
そのとき、廊下の奥に灯りが揺れた。
「おや。まだ生きてるのがいたか。」
聞き覚えのない声。ぬっと姿を見せるひげ面の巨漢。村の人間ではない。蒼郎の手にぐっと力が入る。
「走れ!」
双子の手を引いて蒼郎は今来た道を引き返す。そして双子の部屋に飛び込むと、三人は扉を閉ざし息を潜める。先ほどの男だろうか、大股の足音がのっしのっしと廊下をこちらに向かって進んでくるのが聞こえた。そのまま通り過ぎてくれ、と三人は息を止めて祈った。指先が氷のように冷たく感じられる。雷が鳴ったって顔色一つ変えない蒼郎が震えている。信じられないものを見てしまったかのように、朱朱は闇の中で目を見開いた。
がちゃり。
扉は怖ろしく大きな音を立てて開いた。灯りが部屋の中をぼうっと照らし出す。
「見つけた。」
ひっひっと男は低く声を殺して笑った。
「ガキだけか。」
手の中で弄ぶのは大きな刃物。切るというよりも、何かをたたき壊すのに使うような、荒々しい作りのものだった。その鈍い光を、朱朱はやけに鮮明に記憶している。
「ガキ、殺すのは後生が悪いな。」
男は独り言のように呟くと、廊下に向けて怒鳴った。
「誰か、縄持って来い!」