□ 十六 □
汗くさい男達に担ぎ上げられて、真っ暗な山道を登っていったところで、朱朱の記憶はいったん途切れるのだという。
「ひどく怖かったからな。それで記憶が消えてしまったのだろう。」
少し照れくさそうに笑って、朱朱は腕のない左肩を撫でた。
――そりゃ、そうだ。腕を切られたんだもの。むちゃくちゃ怖い目を見たに決まっている。忘れていられるのなら……そんなこと、思い出さない方が良い。
「ただ……奴らの隠れ家に着いたとき、蒼郎くらいの少年が物陰からこっちをじっと見ていたことだけは何となく覚えている。私達もあの子のように山賊として生きてゆくのか、と思ってぼんやり眺めていたら、すぐどこかへ行ってしまったのだが。」
膝に置いた団扇を軽く指で弾く。
「その次の記憶は、山を下りてからのものだ。丸二日くらい、記憶がない。」
そう断ってから、朱朱は話し始めた。白沙村の屋敷で山賊に捕らえられたのは深夜のことだった。そして、山賊の巣窟に着いたのが夜明け近く。朱朱達は捕らえられた翌晩、暗くなってから逃げ出した。山賊達の足跡を追って山に入った風来が朱朱達と合流できたのは、奇跡のようなものだったのだと言う。たまたま、血のにおいが鼻についた。そして覗き込んだ木々の間に、青青と、蒼白な顔でぴくりともしない朱朱を背負った蒼郎が、座り込んでいるのを見つけた。そこで風来が気付かなければ、三人とも行き倒れていたに違いない。
運良く三人を見いだした風来は、朱朱を背負い、青青を抱えて山を下り、白沙村のはずれにある小さな家の戸を叩いた。その家の中で介抱されて、翌日の夕方、朱朱はようやく意識を取り戻した。
「朱朱!」
目を開くなり、青青の掠れた声が耳に飛び込んでくる。泣き疲れたひどい声だった。
「……青青?……ここ……どこ?」
見覚えのない部屋をうつろな目で見回し、朱朱が尋ねた。
「風来の友達の家だって。」
まだ、何が起こったのか思い出せないまま、目に見えて憔悴した青青に触れたくて、朱朱は腕を伸ばそうとする。
「……っ!」
その瞬間、予期せぬ激痛が全身を貫いた。
「……左手が……痛いよ。」
何も答えられない青青の背後から、獣の唸るような声がする。
「……怪我……したんだっけ……?」
呟くような朱朱の言葉に、唸り声はわっと激しい泣き声に変わった。朱朱はぼんやりと視線を声の主に移す。そこには傍目を気にせず号泣する蒼郎の姿があった。
「蒼郎……どうしたの?」
後にも先にも蒼郎が泣いているのを見たのはこのとき限りだと言う。朱朱の呼びかけにも首を振るだけで、蒼郎は声を上げて泣き続けた。
「ああ。」
蒼郎のその姿に、朱朱はようやく自分の身に起こったできごとを理解した。とぎれとぎれの記憶をつないでゆけば、おおよその事態は把握できた。
「……そっか……斬られたんだっけ。」
右腕でおそるおそる触れれば、固く縛られた包帯が指先に当たる。
――ああ。なんだ。腕がないだけじゃないか。
そのときの気持ちは、妙にあっさりしたものだった。痛みはある。だが、喪失感などというものを感じたのは、その数日後だという。
――生きている。
ゆっくりと指先からその実感が駆け上ってきた。
「……私、生きてるよ。」
その言葉に、蒼郎が涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「生きてる、でしょ?」
蒼郎が頷く。何度も頷く。朱朱の右手を青青がぎゅっと握りしめた。だんだん、また意識が薄れてくる。
その直後だっただろうか、あるいは少し時間が経ってからかもしれない。がたり、と遠慮がちに扉を開く音が遠くから聞こえた気がした。
「目が覚めやしたか!」
どたどたと足音を響かせて風来が駆け寄ってくる。風来の太い指が朱朱の額に触れた。
「……風来。眠いよ。」
風来が目を細めたのが分かった。
「へぃ。お休みなせい。」
声が震えている。
――風来が泣きそうだなんて、変なの。
かすみゆく意識の中でそんなことを思いながら、そのまま、朱朱は眠りについた。後に風来に聞いた話によれば、山賊という連中は、自分達の砦でよそ者が死ぬことを嫌うのだという。朱朱は山賊達によって腕を切られた。もちろん、連中が手当などするはずもないし、蒼郎や青青にできるはずもない。そのまま放っておけば朱朱が死ぬのも時間の問題だった。
「だから見逃したんでしょうな。たとえ逃げ出したとしても、瀕死の怪我人連れて慣れない山の夜道をさまようんじゃ、三人とも助かるはずもねぇと思ったんでやしょう。」
数日後、起きあがれるようになった朱朱をまっすぐに見据え、風来ははっきりと断言した。
「ですが……わしがいる限り、死なせません。絶対、死なせませんぜ。」朱朱が起きられるようになればすぐに屋敷に戻るものだ、と朱朱も青青も考えていた。だが、風来は首を縦に振らなかった。
「お屋敷に戻るわけにはいかねぇんすよ。」
申し訳なさそうに告げると、風来は白沙村の小屋から、山のふもとの樵小屋に引っ越すことを提案した。
「ここでも危ねぇんす。」
どういうことか、朱朱には分からなかった。風来も説明しなかった。だが、そのときには朱朱も、お屋敷に帰ったところで両親には会えないだろうことは理解していた。だから、風来が言うならそれが一番に違いない。二人は黙ってそれに従った。
樵小屋に移る日の早朝。まだ夜明け前のことだろう。窓の外から小さな声が聞こえる。
「あの小さなお嬢様達を、本当にあんな汚ぇとこに住ませるつもりなのか?」
声の主は、朱朱達をかくまってくれた風来の友達という男。まともに働いているようにも見えないが、悪い男ではなかった。少なくとも、朱朱達にはとても優しかった。
「あんまりだとは思うさ。だけど、しょうがねぇだろうが。」
答えたのは風来である。
「凶作続きのこのご時世だ。興陽の役人どもは、年貢目当てで白沙村を取り返したくて仕方ねぇが、そこの領主様が皇帝の一族となっては手出しはできねぇ。そんで、うずうずしていたところを、白沙村の領主一家が全員山賊にやられたとなれば、渡りに船、と来たもんだ。」
「お嬢様達は生きてるじゃねぇか。」
「だから、死んだことにされてるって言ってんだろ。もう都に報告書を送られたって言う話だぜ。ここでのこのこと出て行ったら、皇帝陛下の一族を名乗る不届き者ってことにされて、取り調べもなく殺されるに決まってら。興陽の知事様はそれくらいやる男だ。もしかしたら、趙家を山賊に襲わせたのだって、知事様の差し金なんじゃねぇのか。」
「……ありえねぇ話じゃねぇな。」
「そうだろう。だったら今は隠れるしかねぇ。絶対、あの二人を死なせるわけにはいかねぇんだ。」
そこで会話は途切れた。
窓の外がだんだん明るくなってくる。
――そっか。私達、死んだことになっているんだ。
幼い朱朱には事情は半分くらいしか分からなかった。だが、それでも風来が自分達にその話を告げたがらなかった理由はよく分かった。
――でも、生きてる。
天井の片隅にかかる蜘蛛の巣が、朝陽にきらきらと光る。良い天気になりそうだった。
――これも、運命なのかな。
「起きてくだせぇ。出発しますぜ。」
風来の呼ぶ声に、朱朱は小さくあくびをして、身を起こした。樵小屋に潜んでいたのは三ヶ月ほどだった。その樵小屋は、ずいぶん前に主を失ったらしく、無人でぼろぼろであった。だが、そこでの生活は、次第に元気になってきた朱朱には何だか新しい遊びのようで楽しかった。肩の痛みもだいぶ治まってきたし、何より家の中に隠れていなくてすむのが嬉しい。
ぽかん、と何かが心の中に欠けているような気はしていた。
――だけど、それでも今、私は生きている。
朱朱がぼんやりしていると、青青も蒼郎もひどく心配した。心配をかけたくはなかった。ただでさえ、傷のせいか、夜になるとしょっちゅう熱を出して、周囲を心配させるのだ。不安がらせるのはそれだけで十分だった。
「いつになったら屋敷に帰れるのかな。」
無邪気に笑う青青も、家族が死んでしまったことは知っているに違いない。
――でも、青青は、私達が死んだことになっていることをたぶん知らない。
「このまま、ずっとここに隠れ住むのも楽しいじゃない?」
「そう?朱朱が一緒なら、私はどこでも良いけど。」
うっそうと茂る山の中、青青が見つけてきた小さな日向に並んで座っていると、山賊に捕らわれたことも、両親を殺されたことも、嘘のように思われてくる。
――本当にこのままずっと隠れているのかな。私達。
六歳の朱朱にはこれからのことなど、見当も付かなかった。このまま風来と蒼郎と四人でずっと一緒だったら、それも良いかもしれない。しかし、風来は毎日のように「こんな山の中で申し訳ない」と双子に謝り続けていたし、蒼郎も高い場所に登っては、山賊がいないか、不審な人影はないか、神経質なほどに確認している。きっとこのままではいられない、いつか別のところに引っ越すんだ、とは幼い双子にも分かっていた。
「興陽に行きやしょう。」
ある日の夕方、白沙村から食料を担いで帰ってきた風来が、少し安堵した様子で告げた。
「ようやく連絡が付きやした。張録が興陽でお二人をお待ちしておりやす。」
張録の名前を聞いて、朱朱はふと現実に引き戻されるように感じたという。山の中は、現実と切り離された世界だった。だが、いつまでもそんな場所で過ごすわけにもいかない。
風来の言葉に、朱朱は青青を見た。青青も朱朱を見た。
――これからどうなろうとそれが私達の運命。
もう趙家のお嬢様ではいられないのだ。
「うん。行こう。」
朱朱が頷くと青青も真似をするように頷いた。
――父上がおられたら、母上にこうおっしゃるはずだ。それもまた運命、悪くないじゃないか、と。
「それもまた運命、だよね。」
亡き父の言葉をなぞる朱朱に、風来が跪いた。
「……主。」
絞り出すような声。その声は朱朱を呼んだのか、亡き趙章を呼んだのか判然としなかった。夕暮れの樵小屋は土の匂いがしていた。「それで、ここに移り住んだ、というわけだ。」
話はこれで終わりとばかりに、ぱたりと団扇を指で弾く。もう、夜もずいぶんと更けてしまった。月はすでに西に傾いているころであろう。
秋蘭はしばらく朱朱を凝視した。朱朱も視線を離さず見据え返す。聞きたいことがまだたくさんある。だけど、何から聞いて良いのか分からない。逡巡の末、秋蘭は意を決して口を開いた。
「いつまでここに隠れているの?ずっと?」
口を衝いて出たのはそんな問いかけだった。残酷な問いだったかもしれない。しかし、朱朱は穏やかに微笑む。
「分からない。」
朱朱の目に宿る色は決して絶望ではなかった。何かをなさんとしている人の、強い意志の光のある目だった。
「いつか歯車が合えば。」
それだけ言って黙る朱朱に、「歯車が合えば、どうなるの?」と問おうとした矢先、朱朱が小さくあくびをした。今夜聞かなくても良い。話の続きはいつだって聞けるのだから。今夜はもうおしまい。部屋に帰ろう。
「秋蘭。」
立ち上がりかけた秋蘭を引き留めるように、朱朱が呼ぶ。
「ん?」
「いつか……お前の話も聞きたい。」
朱朱の言葉に秋蘭は一瞬驚きに目を見開いた。それからすぐに押さえきれない幸せな気持ちが湧き上がるのを感じる。
――家族だから何も聞かないんじゃないんだ。家族だから知りたいんだ。
「うん。今度話すよ。」
もう夜も更けた。秋蘭は部屋に戻ってすぐに布団に転がり込んだが、いろいろな話が頭をめぐって、なかなか寝付くことができなかった。