□ 十七 □


 目が覚めると、窓の外はすでにかなり明るかった。
 ――しまった!寝過ごした!
 慌てて台所に飛び込むと、もう、朝ご飯の片づけまで済んでいる。秋蘭の足音に気づいたらしく台所を覗き込んだ張録がにこにこと台所の隅を指さす。隅の机の上には二人分のお膳が残っていた。
「昨夜はお嬢様とずいぶん話し込んでいたそうだね。今朝はお嬢様もまだお休みだよ。」
 責める口ぶりでもなく張録が微笑む。店先で人の立ち働く気配があるのは、恐らく蒼郎であろう。
「すみません。」
 怒られないことは、却って申し訳なさを生んだ。消え入りたい気分で秋蘭は卓につく。
「ゆっくり食べなさい。開店準備は終わったから。」
「……すみません。」
 繰り返し謝る秋蘭に張録は苦笑し、卓のそばに椅子を引き寄せて腰を下ろす。
「驚いたかい。」
 唐突な問いに、秋蘭はきょとんと張録を見返した。
「お嬢様の正体に、だよ。」
「やっぱり、と思いました。でも、驚きました。」
 正直に述べる。予想がついていたことでも、それが現実として告げられれば話は別だ。
 鳥の声が台所奥の扉から聞こえる。庭ではしゃぐ小さな張芳の声。がさがさと草をかきわける音がする。小梅も一緒なのだろうか。
「張の旦那は……誰なんですか?」
 朱朱の話では、昔から知っている人であるには違いない。だが、なぜ興陽の薬屋が、朱朱をかくまってくれているのだろう。もし、興陽の知事が、風来の言うとおりに、趙家を滅ぼしてしまおうと画策していたのだとしたら、張録はそれに巻き込まれてしまいかねないだろうに。
「私の正体は秘密にするほどでもない。張録という名は本名だよ。」
 敢えてそう宣言する程度には、張録も自分の立場を危険なものと了解しているということなのだろう。秋蘭は重ねて尋ねた。
「ずっとここで薬屋をやっているんですか。」
「いやいや。父は白沙村の医者だった。普段は畑を耕し、誰かが病気になったり怪我をしたりすれば、その場で医者に変わるような人でね。腕はどれほどかは分からないのだけれども、あの村で唯一の医者だったから、とにかく重宝がられていた。その父が、兄に家業を任せて隠居してからは、お屋敷の爺さんと仲良くなって。」
「お屋敷の爺さん?」
「そう。趙家の旦那様と奥様が白沙村にいらしたとき、数人の若い召使いと、一人の爺さんだけ連れていらした。それで、その爺さんがお屋敷の金の出入りなんかを全部切り盛りしていたわけだ。旦那様はその辺さっぱりのお人だったからね。」
 張録は何かを思い出したのだろう、いたずらっぽく笑った。
「爺さんはお嬢様方が生まれる前に死んでしまったんだけども、そのとき、父にお屋敷の金のことを託した。子飼いの部下でもない父に託すわけだから、不思議なものだけども、確かに旦那様に任せるわけにはいかないだろうし、父は隠居していて暇があったし、帳簿を付けられる程度には学のある人間だったから、頼みやすかったのだろうね。」
 張録は、一度話を切ると、立ち上がって瓶から水を汲んできた。自分の椀になみなみと注ぐと、秋蘭に目をやる。秋蘭が小さく頷いたのを見て、もう一つ椀を取り出した。
「ありがとうございます。」
 両手でその椀を受け取って、秋蘭は椀に口を付けた。水がひんやりとのどを潤していく。
「父が死んだ後、私がお屋敷の金の管理を引き継いだんだよ。家は兄が継いだし、私はお屋敷に雇ってもらって、金のやりくりだけじゃなく、土地の管理、農民達との交渉、何でもやったね。旦那様は本当に俗世のことに興味のない方だったから、私が収支の報告にうかがっても、全く疑うこともなく『そうですか。ありがとう。』とだけおっしゃって、中を確認なさらない。これには参ったね。この人はだまされても死ぬまで気づかないだろうと思うと、お屋敷の爺さんが最後まで旦那様を心配していた理由がよく分かっておかしかったな。」
 信じられる?と張録が目で問うている。商売人の才覚のある張録には、とうてい信じられないのだろう。秋蘭とて、信じられなかった。
「それで……なんで薬屋になったんですか。」
 張録が趙家と関わった理由は分かった。だけど、興陽で薬屋になる理由はない。
 箸で飯を口に運びながら、秋蘭は真顔で尋ねた。
「ああ。それは……あの日の話をしなくてはならないな。」
「山賊が……来た日、ですか。」
「そう。」
 本当はこの家では山賊の話をしてはいけないはずであった。だけど、その理由はもう分かっている。朱朱の事情を知らずに、山賊の話をしてはいけないだけなのだ。朱朱の事情を知った今、むしろ秋蘭は全てを知りたかった。
「その日、私は興陽の町にいた。あの数年はひどい凶作でね。白沙村は豊かな村だったけれども、それでもずいぶん苦しかった。それを知って旦那様は全ての農民の年貢を免除するように、と私に命じてね。」
「優しい人、ですね。」
「ええ。優しすぎるくらいだったよ。だけど、いくら優しくても、収入なしで生きていかれるほど、旦那様は豊かではなかったからね。都に住んでいたときは知らないけれども、少なくとも白沙村ではね。どうしようかと困り果てていた私に、奥様が笑いながら大きな宝石の施された首飾りを出してきてくださった。それを興陽で売って金にするように、と。奥様は、都で名を馳せた歌姫だったそうだけど、旦那様にお似合いのおっとりしたお人でね。本当にお二人一緒のところなど、傍目にもほほえましいほどだった。」
 ――青青のお母さんは、都の歌姫なんだ。
 妓楼の歌姫として生きる青青は、母の血を引いているのだ。青青の澄みきった歌声を思い出すと、さもありなんと思えた。
「その首飾りも都の高貴な方から贈られたものだったとか。さぞや高名な歌姫だったのだろうね。そう……天上の鴬のように。」
 秋蘭の思考を見透かすように、張録がにこりと笑う。
「それを売りに興陽に来て、夜は玉花楼さんに泊まっていた。旦那様から玉花楼の旦那にお手紙を預かっていたからね。お二人は詩友で、詩のやりとりをなさるのが何よりの楽しみだったそうだ。旦那様は金のことはからきしだったが、詩の名声は都に届くほどだったらしい。そのついでに甘えて、泊めていただいて、翌朝、白沙村の事件を聞いた。私は、首飾りを売った金など全てを玉花楼さんに預けて、とるものもとりあえず白沙村に飛んで帰ったんだ。」
 庭とつながる戸口から、くん、と鼻を鳴らして小梅が覗き込んだ。二度ほど大きくしっぽを振ると、また庭に戻ってゆく。張芳が小梅を追う声がする。

 張録が白沙村に戻ったとき、興陽の役人達がすでに屋敷内を調べ始めていたという。
 門前で見張りをしている役人の制止を振り切って、張録は屋敷の戸を開く。血のにおいが鼻をついた。散らかった屋敷の中。ばたばたと駆け回る役人達。昨日の朝とは全く違う屋敷の空気に、一瞬、信じられない気分で凍り付いた張録は、自らを励まして、奥に進んだ。
「旦那様達は?」
 役人の腕をつかんで問う。声が震えているのが分かった。髭を蓄えた役人は、張録を見下ろして横柄に奥の扉を指さす。
 ――そこに旦那様がいる。
 屋敷の様子から考えても、役人達の態度から考えても、二人が生きているとは思えなかった。だが、覚悟はしたくなかった。生きていると信じて扉を開けたかった。自分が信じなかったら、本当に旦那様が死んでしまうような気がして、張録は祈るような気持ちで震える手で扉に触れた。
 そのとき、扉が内から開く。
「張録!」
 飛び出して来たのは、鬼のような形相をした風来である。張録の腕をつかむと、廊下の陰に引きずり込んだ。そして声を殺して耳打ちする。
「お嬢様達がいない。」
「え?」
 旦那のことしか考えていなかった張録は、その言葉にとまどい、そして目を見開く。
「いない、って、どういう……?」
「旦那様と奥様のご遺体しかない。」
 ――旦那様と奥様のご遺体……。
 風来の言葉をゆっくりと反芻する。
 ――そうか。お二人は、もう、亡くなった、んだな。
 分かっていたはずの事実を、改めて突きつけられる。この屋敷を見て、風来の声を聞いた今、それを信じないわけにはいかない。
「だったらお嬢様方は?」
 絞り出すような張録の声に、風来は首を振る。
「分からない。葉家のせがれも行方不明らしい。葉家のせがれがお嬢様方を連れて逃げたかもしれない。」
 葉家のせがれ、というのは、今の蒼郎である。
 お嬢様が無事に逃げおおせたかもしれない、という風来の言葉に、張録は深く深く一度頷いた。
 ――まだ、なせることがある。きっと、ある。
 絶望と呼ぶにはあまりに唐突で、あまりに信じがたい事実を前に、呆然としていた張録に、一筋の希望の光が差した。
「わしは今から心当たりの場所をしらみつぶしに探す。」
「はい。」
「お前は、屋敷の蓄えがどこにあるか、知っているな?」
「え。……はい。いくらかは。」
「なら、できる限り持ち出せ。役人どもは山賊と変わらん。屋敷の財産を漁り回っている。あんな役人どもに旦那様の蓄えを食いつぶされてなるものか。」
 ふとそのとき張録の胸に疑念が湧いた。風来は屋敷の金を自分のものにしようと考えているのではないか、と。だが、その疑念は一瞬にして消えた。
「旦那様のものは全てお嬢様方のものだ。命に替えても……お嬢様方を救い出す。」
 いつも飄々とした風来に似合わない、真剣な眼差し。
 博徒だった風来が食い詰めていたところに行き会って、唐突にお嬢様の守り役に雇ったのは趙章であった。何の疑いも抱かず全てを委ねてくれた趙章に、風来は畏怖の念さえも抱いた。もちろん、流れ者の博徒に朱朱と青青を託すことに、屋敷の者達は反対した。だが、双子の母は「旦那様が選んだ守り役ならきっと大丈夫ですわ」と笑って取り合わず、双子もあっという間に風来になついたのである。
「お嬢様方のことはわしに任せろ。」
 それだけ言い捨てて、風来は文字通り風のように消えた。屋敷には蓄えなど、ほとんどない。それでも張録はいくらかの宝石と、趙章が大切にしていた本、趙章が作った詩の書き付けなどを持ち出せる限り持ち出した。
 葬儀は興陽の知事の名で行う、と役人達に告げられても、張録にはどうする術もなかった。もちろん、張録達が葬儀をしてもよいのだ。だが、役人の動きの不穏さに、張録は恐怖に近い思いを抱いていた。
 ――役人どもは山賊と変わらん。
 風来の声が脳裏を過ぎる。
 ――今は、お嬢様方のために、隠れているべき時。
 張録は持てる限りのものを持って、興陽の玉花楼に戻った。玉花楼の主は、張録の話を聞き、趙章の詩の書き付けを見て、黙って涙を流した。
 数日後、興陽の知事は、趙家の者が全員死亡したと発表する。そして、極めてひっそりと役所内で葬儀が行われ、趙家の事件についてはそのまま沙汰やみとなった。

「お嬢様方のご無事を知るまでに、数ヶ月かかってね。一月ぐらい経った頃、玉花楼さんが私に、店でも持ってはどうか、と提案してくれた。もしかしたら、そのとき、玉花楼さんは諦めておられたのかもしれない。私も諦めかけていた。だけど、一かけらの希望にすがってでも、興陽でお嬢様方を待ちたかった。」
 そのとき、店先で人の声がした。
「おや、お客さんだ。話し込んでしまったね。」
 照れたように笑うと、張録はあわただしく店先に出て行く。
 蒼郎が応対する声がする。
 急いで最後の一口を飲み込むと、秋蘭は皿を片づけ始めた。



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