□ 十八 □


「じゃあ、頼むよ。」
 張録に渡された包みは、梁家の旦那の薬。毎月家まで届けるのが秋蘭のつとめとなっていた。若い秋蘭の足で急げば、簡単に往復できる距離ではある。慣れてしまえば、確かに興陽はそれほど広い町でもないな、と秋蘭も最近思う。もちろん、普通の村に比べれば、役所もあり、市場もある興陽は大きな町には違いないのだけれども。
「秋蘭!」
 荷物を預かって、駆け出そうとした秋蘭を低い声が呼ぶ。普段なら、店の方にはまったく出てこない朱朱が、扉の影から手招きをしていた。
「忙しいか?」
「お使い行くところ。」
 声を潜め、朱朱とともに薄暗い廊下に移動する。ここなら、通りからだけじゃなく、店の中からも朱朱の姿を見られることはない。
「なら、ついでに玉花楼にも寄って、この手紙を置いてきてくれ。」
「分かった。いいよ。」
 ついでと呼ぶにしては、玉花楼は遠回りな場所に当たる。だが、朱朱自身では出かけられないのだから。秋蘭は深くうなずいた。そして、はたと気づく。
「だけど……このかっこのまま行くんだけど。いいの?」
 薬屋の使いで出かけるのなら、秋蘭は当然少年の姿で町に出るのだ。秋生という名の、張の薬屋の店員である。決して、秋蘭という名の少女ではない。
「玉花楼のおじさんは気にしないだろうが……。」
 少し笑みを浮かべてそう応じてから、朱朱は小さく付け加えた。
「燕燕は驚くかもしれないな。」
「そうだね。」
 燕燕は秋蘭のことを女だと思っている。もちろん、男だと知られて困ることはない。
 ――だけど……男だと知られたら警戒されるかな。
 それはなんだか面白くなかった。旅芸人の仲間達だったら、男だろうが女だろうが関係ないけれど、きっと上品な妓楼では話が違うだろう。
 思案している秋蘭に、朱朱が小首を傾げた。
「手紙を置いてくるだけなら、燕燕に顔を見られずにすむんじゃないか?」
「あ。そうか。」
 玉花楼の中にまで上がりこまなければいい話には違いない。朱朱の言葉に秋蘭はなぜだかちょっとうろたえた。
「もちろん、上がらせてもらって、ゆっくりしてきてもいいぞ。」
 くすくす笑う朱朱。妙に居心地が悪くて、秋蘭は話題をそらした。
「手紙置いてくるだけだと、返事どうするんだよ。」
 襟元から覗く白い紙は、幾重にも折りたたまれていて、普段の手紙よりもずっと分厚く見えた。あるいは、中に何かを包みこんでいるのかもしれない。
「そうだな。返事を取りにいってもらうとなると、二度足になるか。」
 朱朱自身が取りに行かれるのなら、そう悩みはしないのだろう。二度行くにしろ、一度ですませるにしろ、自分の足である。だが、人に頼むとなると、やはり二度行ってくれとは言い難いに違いない。
 ――皇帝の一族なのにな。
 朱朱が皇帝の一族だと知ったとき、遠い存在になった気分がまったくなかったのは、たぶん朱朱のこういう気遣いのせいだろうな、と秋蘭は思う。旅の途中、もっとずっと横柄な人にはたくさん会ってきた。朱朱が横柄に振舞う人だったら、確かに距離を置く気になったかもしれない。だけど、朱朱は違う。
「いいよ。夜にもう一度取りに行くから。」
「すまない。」
 朱朱は出かけられない。もちろん、出かけられるのだけれども、出かけたら危ない。正体が知られたら、誰が何をしてくるか分からない。だったら、安全な場所にいてほしい。だったらお使いくらい、二度でも三度でも行く。
「一刻も早く青青に読ませてやりたいんだ。」
 そうはにかんだように微笑んで、朱朱は懐から手紙を取り出した。
「玉花楼の旦那に渡せばいいんだね。」
 予想通り、中にはもう一通手紙が包み込まれているようである。丁寧に受け取ると、手ぬぐいで包み、秋蘭は自分の懐にぐっと突っ込んだ。

 ――一刻も早く、か。
 秋蘭は梁家へのお使いを後回しにして、玉花楼に急いだ。梁の旦那の薬は、今日明日に切れることはないはずだし、日が暮れるまでに時間はまだたっぷりあった。梁家は後回しで問題ない。
 すっかり秋めいてきた空に、薄く刷かれた雲。
 ――こんな日には、笛の音が空に吸い込まれてしまうんだよな。
 空が高いこんな日には、空気のような澄んだ音色になってしまう。もちろん、それはそれで気持ちが良いものだけれども。座長の語る歴史講談の横で、盛り上げるために吹く笛は、やはり威勢がよく、華やかなものがよい。だから、澄みすぎる音色は、座長のかんしゃくの種だった。
 ――笛、持ってくればよかったな。どこか人気のないところで、吹いたら……気持ちいいだろうな。
 久しぶりに笛のことを思い出した気がした。以前は、毎朝、毎晩、眺めていた大切な笛だったのに、最近では思い出すことさえ少ない気がする。
「いい風。」
 声に出して呟いてみる。胸を満たす風はかすかに秋のにおいがした。
 昼間の玉花楼は森閑としている。前の通りを行きかう人影もない。
「ごめんください。」
 そっと扉を開けば、入ってすぐの帳場で帳面を捲っていた旦那が顔を上げた。
「おや?」
 しばらく秋蘭の顔を凝視し、にやりと笑い、立ち上がる。
「ああ。朱朱ちゃんとこの女中さんか。」
 照れくさくないと言ったら嘘になるが、まるで共犯者のようににやりと笑われてしまえば、逆に開き直れるものかもしれない。秋蘭もにっと笑って、手紙を懐から取り出した。
「これ。」
「青青ちゃんに、だね。」
「主が、一刻も早く見せたいって。夜、返事を取りに来ます。」
「分かった。伝えておくよ。」
 声を潜めてのやり取りの後、秋蘭はすぐさま身を翻して店を出た。後ろ手にさっと扉を閉ざし、周囲を見回したが、やはり通りには人の気配などない。この界隈は、夕方から活気付くのだ。
 そのとき、店の中から聞き覚えのある声がした。
「旦那様、今、秋蘭お姉さまがいらしていませんでしたか?」
 ――燕燕の声だ。
「なんでそう思うんだい?」
「だって、秋蘭お姉さまのにおいがしますもの。」
「におい?」
「秋蘭お姉さまはお薬の良いにおいがしますの。」
 秋蘭はあわてて袖のにおいをかいだ。だが、どうも分からない。薬に囲まれているうちに、鼻が鈍くなってしまったのかもしれない。
「そうかね。わしには分からないが……薬のにおいねぇ。」
 のどの奥でくっくっと玉花楼の旦那は笑った。
「お前さんの鼻には敵わないね。確かに来ていたよ。また今夜来るそうだ。」
「本当ですか!」
 燕燕が声を弾ませる。玉花楼の塀に寄りかかって、秋蘭はふと笑みがこぼれるのを禁じえなかった。
 ――きっと来よう。なるべく早く。
 梁の小間物屋までは遠回りとはいえ、そう距離はない。
「おや、秋生さん、今日はずいぶんと楽しそうですね。何かいいことでもありましたか。」
 いつも通り機嫌よく出迎えた梁の若旦那が、少し驚いたように尋ねる。
「え?そうですか?」
 別に何があったわけではない。秋蘭は薬の包みを若旦那に渡し、言いつけ通りに代金を受け取る。若旦那はそれ以上、何も問わなかった。
「そういえば。」
 梁の若旦那はおしゃべりな人である。おしゃべりな人は、往々にして多くの情報を知っているものだ。秋蘭は以前から気になっていたことを、ふと尋ねてみる気になった。
「真闇の蛍って……どういう人なんですか?」
 どういう人かは、秋蘭がよく知っている。だが、情報通である梁の若旦那にとって、どういう人なのか、町の人々にとってどういう人なのかが知りたかった。
「優しい方だ、と聞いておりますよ。優しいけれども……恐ろしい力を持った方だと。先日は、凶悪な狐の化け物を一瞬で消し去ったのだとか。」
「狐の、化け物、ですか。」
 ――李氏の話だ。
 大筋では、そういうこともあったのは確かだ。だが、話が大きくなっている。しかも、恐ろしい話になっている。
 ――だけど、その方がお話として面白いよな。
 秋蘭は座長の講談をいつでもすぐそばで聞いていた。だから、どんな話をみなが喜ぶか、よく分かっている。現実に起こった事件より、凶悪な狐の化け物を消し去った方が、盛り上がるに決まっている。
「真闇の蛍様に、何か依頼でもなさるおつもりですか?」
 愉快そうに若旦那が秋蘭の顔を覗き込む。
「恋の病まで治してくださるかどうかは、私も存じませんが。」
「そ、そんなんじゃないです!」
 秋蘭は慌てて首を振った。
 ――恋だなんて、いったい、誰が誰と!
 ――だって朱朱には蒼郎がいるじゃないか。
 頬が火照るのが分かった。
「すみません。からかったりして。」
 にこにこと梁の若旦那が言葉を続ける。
「お若い方が妖術使いのお世話になる用件など、ほかに思いつかなかったものですから。」
 そしてふと空を見上げる。
「おや。一雨来そうですね。」
 さっきまでの晴天が嘘のように、一瞬にして空が黒い雲に覆われた。夕方のようにうす闇が辺り一面を包みこむ。間髪を入れずにざぁっと激しい雨音が耳を打った。
「お上がりなさい。そこにいては風邪をひいてしまいますよ。」
 店先の品を奥に片付けるのを手伝って、秋蘭は梁の店に上がりこんだ。
「お邪魔します。」
「ご遠慮なくくつろいでいてください。何もないですがね。」
 こぎれいに片付けられた店の中をきょろきょろと見回していると、椀いっぱいの水が差し出される。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
 外はすっかり暗く、一寸先も見えないような、豪雨である。
「こういう雨はすぐ上がるものですよ。」
 独り言のように梁の若旦那が呟いた。雨のにおいに満ちた空気は、やわらかく優しい。店の奥に団扇が数本、置いてあることに気づく。
「団扇、もう売らないんですか?」
「秋ですからね。」
 それもそうか、と秋蘭は納得した。そのわりには、朱朱は相変わらず団扇を持って歩いているけれど。秋だもんな。
「これを見てくださいな。香や紅を収めるための箱なんですが。」
 先ほどまで店先に並んでいた小さな木箱を秋蘭に手渡す。手のひらの中にすっぽりと納まる小さな箱である。蓋には、鮮やかな顔料で絵が施されている。鳥、花、草、木、どれもどこかで見覚えのあるような、と首をかしげた秋蘭に、種明かしをするように若旦那が教えた。
「団扇に絵付けをしていた人達ですよ。」
 ――ああ、そうか。楊氏達が描いたのか。
 秋になろうとも、彼らは生活していかなくてはならない。そのためには、団扇以外にも食い扶持を稼げる仕事がなくては困るのだ。
「安の大旦那様らしいお気遣いですね。」
 なるほど、これも安の大旦那という人が斡旋している仕事なのか。確かに、寡婦達が生きていくために、自分で売り込んでこのような仕事を見つけるのは難しいにちがいない。面倒を見てくれる人がいて、さぞかし助かっていることだろうな。
 ――あの楊家の子供達も。
 そっと木箱を元あった場所に返す。雨は相変わらず降り続けているが、空の向こうはうっすらと明るくなってきた。梁の若旦那の言うとおり、通り雨だったらしい。
「水原って人、知っていますか?」
「水原さん、ですか?」
 唐突な秋蘭の問いに、若旦那は二三度瞬きをした。そして、ああ、と膝を打つ。
「材木屋の頭領ですね。安の大旦那がごひいきになさっているという。」
 降り出したときと同じくらい唐突に雨が上がった。
「ですが、お名前しか存じませんよ。材木の運び屋の方達は、滅多に町には来ないですからね。その水原さんがどうかしましたか。」
「いえ、ちょっと名前を聞いたので、どんな人かなって。」
 早口でごまかした秋蘭に、若旦那はふと思い出したように付け加えた。
「そういえば……玉花楼さんにいらしたという噂を聞きましたね。」
 空がさらりと明るくなる。
「張の旦那によろしくお伝えくださいな。」
 店先に商品を並べなおしながら、梁の若旦那が話を打ち切るようにそう告げた。
 きれいな風が通りを駆け抜けていった。



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