□ 十九 □


 夜も更けてきた。台所ではまだ白氏が立っている。
「秋蘭ちゃん、これ。」
 そろそろ出かけようかと通りをうかがう秋蘭に、鍋を抱えた白氏。
「久しぶりに鴬姫の好きなあつものを作ってみたのだけど、味見してくれる?」
 今夜、玉花楼に行くと聞いて、白氏がにわかに台所でごそごそと何かを作り始めたのは、そういう意味だったのか、と秋蘭はほほえましく思った。白氏にしてみれば、朱朱と同じくらい、青青だって大切な「お嬢さま」なのだろう。離れて住んでいる分、よけい、想いは深いのかもしれない。
「あ、これ、すごく美味しい。」
 初めて食べる味だった。薄味で、とても品のよい野菜のあつもの。
「玉花楼に届けるの?」
 そう尋ねれば、白氏は少女のように片えくぼを深めて、にこりと笑った。

 人気のない夜の街を、鍋ひとつ抱えてそっと歩く。こぼすわけにはいかないから、ゆっくりと行くしかないが、足取りは軽い。暗く、静かな道を音もなく過ぎれば、ひときわ灯りの目立つ通りに出る。
 何度めかは、もう、忘れてしまった。玉花楼の裏口を叩けば、すぐさま郭の旦那が顔を見せる。
「お待ちかねだよ。」
 そして秋蘭の姿を上から下までとっくり眺め、にやと笑った。
「やはりその姿の方が落ち着くね。」
 昼間の男の姿より、女の姿の方が落ち着くと言われては、褒められているのかからかわれているのか、分からない。だが、秋蘭も小さく笑って頷いた。
 ――「秋蘭」を演じるのは嫌じゃない。
 台所にいた女中に鍋を渡す。かまどの火がまだ残っていたらしい。女中は、今すぐ温めてお運びしますよと、いやな顔ひとつせず請合った。階段を駆け上がると、開け放された青青の部屋を覗き込む。
「上がって。」
 今日の青青は化粧もしていない。そういえば、玉花楼では宴の物音もしない。通りを隔てた向かいの店からは明るい楽の音が聞こえてきたけれど、玉花楼はもう店じまいの気配さえあった。
「今夜は私はお休み。燕燕はさっきまで出てたけど、客も帰ったみたいね。」
 秋蘭の問いに先回りするように、青青はそう告げて、部屋の隅の文箱から手紙を取り出した。
「朱朱は元気にしている?」
「うん。すごく元気だ。」
「そう。よかった。何度も行ったり来たりさせてごめんね。これ、朱朱に渡して。」
 女中が温めたあつものを部屋に運んでくる。その香りに、青青はぱっと表情を輝かせた。
「白氏が作ってくれたの?」
 答えるまでもない。おっとりとした女中の給仕を待ちきれないように、青青はさじに手を伸ばした。
 女中が下がると、青青はしばらく黙々とあつものを口に運んでいたが、椀が半ば空いたころ、ようやく一息ついて、さじを置いた。
「朱朱、とても喜んでた?善史の手紙見て。」
「善史の手紙?」
 開け放した窓から、かすかな歌声が聞こえる。
「聞いていない?」
「うん。善史って人は知らない。」
 そういえば、何度か名前は聞いた記憶があった。陸善史、という人だ。風来さんは大先生とか呼んでいたっけ。
 おぼろげな記憶をたどる秋蘭に、青青はあつものをそっとひとさじ口にする。そしてゆっくり味わって、こくりと飲み込んだ。
「善史ってのは……父上の共犯者だと言えばいいかしら。」
 そう言って、青青はいたずらめかして笑った。
「父上はね、詩を作ったり、本を読んだりするほかは、からきし駄目な人だったの。聞いている?」
 そういえば、張録もそんなことを言っていた。秋蘭は頷いていいものか、一瞬戸惑ったものの、軽く頷いてみせた。
「屋敷の大掃除のときなんかも、母上が袖を捲り上げて指揮を執っている横で、父上ときたら全然役に立たなくて、本を持ってうろうろしているだけだったの。気が付くと、どこかに行っちゃっているのね。そんなとき、いつも、父上と一緒に行方不明になるのが陸善史だった。善史はもともと近所の農家の末っ子だったんだけど、本に興味を持ったものだから、父上大喜びでね。」
 彼女らの父、趙章は、手始めに文字を教えた。そして四書五経を学ばせ、詩の作り方、文の書き方、自分の知っている全ての知識を惜しむことなく、全て伝えた。それを陸善史は恐るべき吸収力で覚えたのだという。
「科挙を受けさせるんだって、父上は大はしゃぎで。」
 当時のことを思い出したのだろう。くすくすと小さく声さえ立てて、青青が笑う。
「地方試験はすぐに通過してね。それで、都の試験に送り込んだの。白砂村みたいな小さな農村から、科挙の合格者が出るだなんて、地方試験でも滅多にないことだから、みんなも大はしゃぎだったな。善史が出発する前には、何日も何日も続けて宴会してたくらい。」
 白砂村の夢を一身に背負って、都に旅立った陸善史といえども、さすがにすぐに都の試験に合格できるわけはなかった。都で貧しいながらも学問を続け、三年に一度の科挙に再度挑もうとした。趙家が山賊に襲われたのは、そのころのことだ。
「すぐ村に帰ってくるって言った善史に、帰ってくるなって言ってくれたのは、風来だったみたい。父上が生きていたら、絶対帰ってくるなって言っただろうからって。」
 そして、陸善史は試験に合格する。
「善史は都の様子を教えてくれるの。進士さまだからね。皇帝陛下にだってお目通りできるんだよ。」
 ――皇帝陛下にお目通り……?
 秋蘭の中で、何かの歯車がかみ合いそうな気がした。
 ふぅっと、息をはいて、青青はあつものの最後の一口を飲み込んだ。
「美味しかった!」
 秋蘭は自分の前に置かれた椀を黙って青青に押し付けた。まだ口をつけていない。その幸せそうな食べっぷりを見ていては、青青の取り分を横取りする気にはならなかった。
「いいの?」
「いいよ。」
 きっと白氏だってその方が喜ぶ。
「その陸善史って人の手紙、どんなことが書いてあるの?」
 さじを手に、青青がまっすぐ秋蘭を見やった。
「だから、都のこと、とか。」
 そして少しためらった様子を見せたが、頷いた。
「いいや。朱朱が言ってなくても、隠すことはないよね。」
 こつり、とさじを卓に置く。
「父上は、趙の姓を名乗っているとはいえ、本当は皇帝一族っていうほどの立場ではないの。今の皇帝陛下とはずいぶんと血縁関係も薄いし、祖父は皇帝だった曽祖父の隠し子みたいなものだったから、皇位の継承権もなかったくらい。でもね、善史はそうは考えてないの。善史は……陛下と私達が親戚だから、陛下はきっと私達を助けてくださるって、そう思っているのよ。」
 何かまぶしいものでも見るように、青青は目を細め、すぐに椀に視線を移した。
「陛下は芸術家でいらっしゃる。李師師という妓女を寵愛して、音楽にも文学にも美術にも造詣が深い。それを知って、善史は父上の詩集を陛下にお見せしたのね。」
 くるりとさじで椀の中をかき回す。
「陛下はもちろん父上のことなど、存在もご存じなかったけど、詩を読んで興味を持ってくださったの。それだけで……私も朱朱も感動したわ。」
 そういえば、朱朱は、昼間、一刻も早く青青にこの手紙を見せてやりたいと言っていた。
「善史はね、陛下にお願いして、山賊を討つ兵を出していただくんだって言っているの。父上の敵を討つために。もちろん……そんなことができたら、良いのだけれど。」
 青青が顔を上げた。
「でも、それは高望みだと思う。」
 にこりと微笑む。
「敵討ちは自分でやるわ。それが、私の選んだ運命だもの。それに……それこそが、朱朱の腕を奪った、あいつらに相応しい運命。」
 ――え?
 言葉の意味を理解しかねて薄く口を開きかけた秋蘭から、青青はすっと視線をそらせた。
「燕燕を呼ぶね。きっとあの子、拗ねているわ。秋蘭が来るのを楽しみにしていたから。」
 廊下に出て手を打つと、顔を出した女中に燕燕を呼ぶよう伝える。
「燕燕と仲良くね。私はもう寝るわ。」
 窓越しに聞こえていた隣家の楽の音はいつの間にか途絶えている。

「秋蘭お姉さま!」
 会釈をして入ってきた燕燕は、上品に椅子に腰を下ろす。
「お昼、いらしたとき、私、気づきましたのよ。」
 誇らしげに瞳をくるりとめぐらす。
「私のにおいがした?」
 からかうような秋蘭の声に、きょとんとする燕燕。
「どうしてお分かりになりました?」
「私は鼻はそれほど良くないけれど、耳が良いから。」
 一瞬、黙ってから、燕燕はぷぅっと頬を膨らませる。
「意地が悪いですわ。私の声が聞こえていたなら、戻ってきてくださればよかったのに。」
「ごめん。ごめん。急いでいたから。」
 燕燕は幼かった。最初に会ったときには、大人びた品の良い妓女だと思った。だが、それは彼女の妓女としての誇りがそう見せていたのであって、現実の彼女は普通の少女にすぎない。薄緑の衣の袖をぎゅっと握って拗ねてみせる燕燕は、秋蘭が知っている多くの少女達となんら変わるところがない。
「あ、今日の夕方、突然、梁の旦那がいらしたんですよ。」
 さっきまで拗ねていたのが嘘のように、くるりと表情を変えて、燕燕が袖の中を探る。
「お姉さまとお揃いが良いなって思って、二つ買いましたの。」
 それは昼間、梁の店で見た小箱。同じ柄のものを手のひらに二つ並べ、そのうちの一つ差し出す。
「くれるの?」
「はい。きれいでしょう?」
「きれい、だね。」
 ――お揃いだなんて、本当に女の子同士みたいだな。
 もちろん、燕燕から見れば、女の子同士に他ならない。秋蘭はどこかくすぐったい想いを抱きつつ、ありがたくその小箱を受け取った。
「今日は旦那がいらっしゃる日じゃなかったんですけれども。夕立の音を聞いていたら、急に玉花楼の様子が気になりましてね、とかおっしゃって。」
 くすり、と燕燕が袖で口元を覆う。
「鴬お姉さま、嬉しそうでしたわ。」
 ――夕立の音、か。
 秋蘭は目を伏せた。水原が玉花楼に出入りしているという話を、自ら口にした後の梁の若旦那の表情を思い出す。
 ――若旦那も、青青のこと、好きなのかな。
 手の中で、小箱がくるりと回る。さわり心地のよい、品の良い木箱であった。



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