□ 二十 □
奇妙な噂が流れ始めたのは、冬の気配が濃厚になったころのことだった。
「蛍お姉様がそんなことなさるはずありませんわ!」
秋蘭の上着を部屋の隅に吊りながら、珍しく声を荒げて、燕燕が憤慨する。
まだ青青は宴席に出ているらしい。笛も琴もなく、一人青青の歌う柔らかな声が聞こえていた。
「変な噂だね。主がそんなことするはずがない。」
秋蘭としても首をかしげざるをえない。
「もちろんです。」
出所は判然としないが、昨夜、玉花楼に来た客が、まことしやかに吹聴して回っていたのだというその噂は、実は風来によって、すでに朱朱らの耳にも届けられていた。
――真闇の蛍が安の大旦那様を呪い殺そうとしている。
声を潜めて語られるその言葉は、やはり興陽の人々に驚きをもって迎えられたらしい。第一、この興陽の町に、安の大旦那様に殺意を抱く者がいるはずがない。多くの町人がそう口にした。それに何より、真闇の蛍が安の大旦那を殺める依頼を受けるとも思えない、と。真闇の蛍は恐ろしい力を持った妖術使いとして知られてはいる。だが、他郷の者達はどうあれ、興陽の人々は、真闇の蛍を恐れてはいなかった。むしろ、彼女は恐ろしい化け物達から人々を守ってくれる、そんな存在だった。
漠然と真闇の蛍の評判を聞く人々でさえ、その噂には半信半疑であったのである。まして、蛍の正体を知っている燕燕には、信じられる話ではない。
「気にしなくて平気だよ。燕燕。きっと誰かが誤解して流した噂だろうから。」
なだめても、燕燕は収まらない。妓女として宴席に侍っていたときには、そのような噂を聞かされても、否定するわけにはいかないのだろう。蛍の知り合いだとは決して名乗れないし、そうでなくても、妓女が宴の盛り上がりに水を差すことなどできはしない。
「誤解にしたってひどいですわ!」
秋蘭がその噂をさほど気にしていないようにでも思ったのだろうか、むくれた様子でぷいと視線をそらす燕燕。
苦笑しながら立ち上がって、薄く開いていた窓を閉ざす。夜風はもうすっかり冬である。走ってきたために暑がった秋蘭にあわせて、窓を開けてくれたはいいが、さすがの秋蘭にも夜風は寒かった。
階下の宴がぴたりと水を打ったように静まりかえる。
そして、ゆっくりと聞こえだす青青の柔らかな歌声。何度も聞き覚えのあるその曲に、秋蘭は目を伏せた。
「また、この曲だ。」
青青は、燕燕以外の妓女の伴奏は断るのだという。妓女達も客もみな心得ていて、青青の好きなようにさせておく。確かに青青ののびやかで奔放な節回しに合わせられる妓女は、そうそういるものでもなかった。
「この曲は、興陽では鴬お姉様以外、歌わないことになっているんですの。」
噂にいたく立腹していた自分自身に照れたように、少しはにかんだ口調で燕燕が口を開いた。
「なんで?」
「先代の興陽知事様が、この歌をお気に入りになって、天上の鴬以外、歌ってはならんとおっしゃいましたの。それ以降、誰も歌いませんわ。」
「へぇ。この歌、どんな内容なの?」
決して明るく楽しい歌ではないことは、離れたところで聞いていても分かる。だが、階下の歌声では歌詞までは聞き取れない。何度聞いたか忘れるほどに何度も聞いた旋律。そこに込められた想いを知りたいと秋蘭は思った。
「哀しい恋の歌ですわ。」
皇帝に愛されなかった後宮の宮女の作った詩なのだという。西方の砂漠地帯で異民族と戦う兵士達を思い、皇帝が宮女達に上着を縫って贈るように、と命じた。そのうちの一人が、上着の縫い目に詩を書いた紙をそっと忍ばせた。
「上着を贈られた兵士は、たまたまその紙に気づいて。」
辺境の守護者よ
寒く暗い砂漠 眠れぬ夜
私の縫ったこの衣を
受け取ってくださった優しき戦人よ
糸に託したのはやるせない想い
綿に込めたのは深い深い気持ち
今生の幸せはもう遠い幻
せめて来世 あなたに逢いたい
兵士は上官に、上官は皇帝にそれを報告した。皇帝の寵愛を得られなかったとはいえ、宮女は皇帝の妻である。他の男に恋文同然の詩を書き送って許されるはずはない。
「ですが、皇帝陛下は不憫に思し召して、詩を書いた宮女を捜し出して、その兵士と添い遂げることをお許しになったそうです。もちろん、大昔のお話ですから、本当のことか、分かりませんけど。」
それが幸せな結末であったかどうかも、分かりませんけども。
燕燕は小さくそう付け加えて、くすりと品良く微笑んだ。
かごの鳥であることは、宮女も妓女も同じことかもしれない。今、目の前にある絶望的な未来を受け止める覚悟を抱きつつも、どこかにあるかもしれない見たこともない温かい未来を夢見たくなるのは、当たり前のこと。
「水原様もこの歌がお好きなのです。よく鴬お姉様に歌わせておられますわ。」
――水原、か。
安の大旦那が気に入っているという、材木運搬屋の頭領の名が唐突に出てきたことに、秋蘭は少し面食らった。
「まだよく来ているんだ?」
数度、店に来たことは知っていた。だが、それ以降、玉花楼で出くわすことがなかったために、秋蘭は勝手に、水原はもう来なくなったものだと思いこんでいた。
「よくいらっしゃいますわ。鴬お姉様だけをご指名になって、他の妓女は誰でも良いとおっしゃますのよ。」
そして急に声を潜めた。
「郭の旦那様は、水原様を鴬お姉様の旦那にしても良いとお考えみたい。」
――旦那にする……?
一瞬、その言葉の意味を飲み込みかねた秋蘭だったが、燕燕が頬をうっすらと赤く染めているのを見て、理解した。ここは春をひさぐのが目的の店ではない。だが、もちろん、そういう商売もやらないわけではなかった。良い家の客と懇意になって、いつかその家の抱えの妓女となる。あるいは、運が良ければ、その家の嫁としてもらわれてゆく場合だって、ないわけではない。それも妓女たちの一つの幸せな結末である。玉花楼の主、郭の旦那は、青青の父と親しかったというからには、悪いようにはするまい。燕燕の言葉通りであるのなら、もしかしたら、水原の妻となるのが青青の幸せだと考えているのかもしれなかった。
「安の大旦那様が水原様を養子にとって家を継がせるおつもりなのは、確からしいですもの。きっと、お二人はお似合いですわ。」
秋蘭の脳裏にちらりと小間物屋の梁の若旦那が浮かんだ。色白でふっくらとした若旦那と、日に焼けて精悍な水原と。水原とは一度だけ、夜道で言葉を交わしたことがあるが、確かに嫌な感じのする男ではなかった。
最近、安の大旦那が取引相手に水原を引き合わせているという話は聞いていた。興陽の人々が、水原が養子になって安家を継ぐのだろうなと、考えるようになっていたのは間違いないし、秋蘭自身も漠然とそう感じていた。
「天上の鴬はどうなの?」
「お姉様は水原様がいらっしゃるとなぜか緊張なさるんですの。でもそれは別に好きだからとかでは……。」
途中で言葉を切って、燕燕は力無く笑った。
「そっか。」
きっと燕燕の胸にも梁の若旦那の姿が浮かんだのだろう。秋蘭はそれ以上尋ねたいとは思わなかった。明らかに自分をひいきしてくれている客に対して、身構えることがあるのは当然かもしれない。特にその想いを受け止めることができないのなら、なおさらだ。
二人はしばらく沈黙した。
――そういう商売だから、仕方がないのだろうけども……。
秋蘭にはそれでもやはり青青が不憫だった。
気が付くと階下がざわついている。宴がお開きになったらしい。人々が立ち去る気配が二階にまで伝わってくる。その喧騒をかき消すように、軽やかな足音が響いた。
「あの男!」
部屋に飛び込んでくるなり吐き捨てたのは青青。
妓女は客の見送りまでするものである。いささか型破りなところがあるように見える青青でも、普段は機嫌良く客を見送っている。だが、今宵、客がまだ玄関にいるにもかかわらず、部屋に戻ってきてしまった青青の剣幕は尋常ではなかった。
「今、手ぬぐいをお持ちしますね。」
何かを心得た様子で、燕燕がすぐに席を立つ。
左肩を抱くように座り込んだ青青は、酒のせいだろう、頬を上気させてぐっと目をつぶった。
「あの男……!」
何かされたのだろうか。秋蘭は狼狽えて言葉に迷う。
「……秋蘭か。」
ようやくその存在に気づいたらしい青青が、少し驚いたように声を上げた。
「そ、その、どうしたの?」
「左手に触られた。一回じゃなくて何回も!」
「左手?」
「この手は朱朱のもの……汚い手で朱朱に触れるヤツは許さない……!」
俯いた青青がうっすらと涙ぐむ。
「どういう、こと?」
聞いて良いのかためらいながらも尋ねた秋蘭に、青青は少し充血した目を向けた。
「あのとき、斬られるのは私のはずだったのよ。」
唐突な言葉に瞬きをする。
あのとき、とは、双子が山賊の砦にさらわれたときのことだろう。そう思い当たって、小さく頷いた秋蘭から、青青が目をそらす。
「泣きじゃくる私を脅して黙らせるために、山賊の頭が刀を抜いた。私は怯えてもっとひどく泣いた。斬り殺すぞ、というその男の言葉に、朱朱が私の前に手を広げて立ちふさがって、そのまま振り下ろされた刀で……斬られたの。」
もしかしたら山賊は斬るつもりではなかったのかもしれない。脅すだけのつもりだったのかもしれない。ただ朱朱の予期せぬ動きに、引くに引けなくなって振り下ろした刀だったのかもしれない。
だが、いずれ、朱朱は山賊の砦での記憶と自らの腕を失った。そして、青青は全てを覚えている。自分のせいで腕を失うことになった朱朱の一部始終を全て。朱朱が失った左腕の代わりに、青青はきっと自分の左腕を差し出したかったに違いない。
「朱朱はあの日のことをほとんど覚えていない。だけど、私はよく覚えているから。」
呟くように青青は窓の外に視線をやる。
青青にとって左腕は他の人に踏み込ませない、繊細な領域なのだ。だから、誰かが触れることなど許すことはできない。そして、もちろん、朱朱の左腕を奪った者達を許すこともできない。
「あいつらに、朱朱と同じくらい辛い思いをさせてやるの。絶対に。」
慎ましい足音とともに、燕燕が戻ってくる。熱い湯に浸したらしく、うっすらと湯気の見える手ぬぐいを手渡せば、青青は、大切な宝物を扱うように左手を丹念にぬぐった。
「朱朱は蒼郎と幸せに暮らせば良いんだ。もう、妖術使いごっこなんか、止めて、二人でずっと幸せに暮らせば良い。」
独り言のように呟く青青。何も聞こえないかのように、燕燕がにこりと微笑んで、三人分、白湯を注いだ茶碗を卓上に置いた。
「冷えてまいりましたわ。」
穏やかな声で燕燕がそっと椅子を引いて腰を下ろすと、青青が手ぬぐいを卓に置き、ふぅっと息を吐く。
「朱朱は元気?」
一瞬の間をおいてからいつもの口調に戻った青青に、秋蘭は慌てて頷いた。
「うん。だけど、変な噂が流れていて。」
「ああ、あの噂ね。私も聞いたわ。」
安の大旦那を呪ってくれなどという依頼は、当然、来ていない。もちろん、あれだけ大きな商いをしているのだから、全く敵がいないはずはないが、それにしても奇妙な噂であった。
――誰が何のために流している噂なのか。
風来はしきりに首をひねりながら、昨夜、張録の薬屋で朱朱と今後のことを話し合っていた。
「今日の手紙も、その噂のことみたい。」
懐から取り出した手紙に、青青が右腕を差し出した。
「気にすることはないと思うけども……。」
燕燕の手前か、そう応じる青青も不安の色は隠し得ない。火のないところに煙は立たないもの。安家に怨みを抱く者の流した噂か、真闇の蛍に含むところのある者の流した噂か、さもなければ。
――趙家の生き残りに何か思うところがある者がいる、のか。
窓の外の寒気に、秋蘭はぶるりと身を震わせた。
「本当に冷えてきたね。」
青青が窓越しに空を見上げる。冬の夜空は冷たく晴れ渡っていた。