□ 二 □


 さほど大きくもなく小さくもない、ごく普通のたたずまいの商家の木戸を、蒼郎がそっと叩く。難しい文字は知らないが、町の看板くらいは秋蘭でもなんとか読めた。蒼郎の持つ灯りをたよりに、店先に掛かる看板の文字を、闇の中、目をこらして見つめる。
 ……薬屋……かな?
 どんないかがわしい場所に連れて行かれるのかと思えば、通りに面した商家である。いささか拍子抜けさえしながら、秋蘭は辺りを見回した。相変わらず人の姿は見えない。これだけ夜が更ければ、家々から話し声も聞こえてこない。
「蒼郎だ。」
 扉の向こうに人の気配があったのだろう。蒼郎が低く名乗れば、控えめな音とともに木戸が開く。
「おかえり。」
 姿を見せたのは三十過ぎの大人しそうな男であった。彼は蒼郎の背後に所在なげに立っている秋蘭に目を留めて、おや、と呟いた。
「その子は?」
「主の女中だ。」
「玉花楼さんか誰かが紹介してくれたのかい?」
「いや。今、そこで拾った。」
「拾った……?」
 何を考えているのかさっぱり読ませない無表情な蒼郎と違い、その男は極めて常識的に見えた。深夜、町の中で子供を拾ってきたなどと言えば驚くのは当然だ。
 警邏にでも突き出されたらどうしよう……。
 男は手にした灯りを少し掲げるようにして、秋蘭をじっと見つめた。そして小さく苦笑する。
「怖がらなくて良い。入りなさい。」
 秋蘭がおそるおそる家の中に入ると、男はもう一度秋蘭の顔を凝視した。背後では蒼郎が木戸を閉ざす音。廊下にはむっとむせかえるような薬の匂いが立ちこめていた。薄い壁を隔てたすぐ隣が、売り物の薬を並べてある店先なのだろう。
「お嬢様のお世話はうちの家内にやらせれば良いと言っただろう?」
 軽くとがめるような男の小声に蒼郎は淡々と応じた。
「白氏は娘の世話がある。」
 それを聞いて男は肩をすくめ、しょうがないなと言った表情で秋蘭にほほえみかけた。薄暗い家の中でも、男の穏やかな笑みに悪意がないことだけはよく分かった。
 ――こういう人を「人が良い」って言うのかな。
「いつまでも廊下で話していても仕方がない。お嬢様が待っておられるから、早く行きなさい。」
 そう言って男は廊下の奥に灯りを向ける。
「私の名は張録。ここの薬屋を切り盛りしている。お嬢様がお前を雇うなら、この家はお前の家。遠慮なく過ごしなさい。」
 秋蘭の背をそっと押して、男は奥へ行くようにと促した。間口はそう広く見えない商家だったが、奥行きはかなりあるようだった。行って良いものか量りかねて蒼郎を振り返ると、蒼郎は黙って頷いた。
 廊下の途中には階段があった。張と名乗った男はそこで立ち止まり、小さく会釈をして二階へと上がっていく。
「張の旦那たちは二階に住んでいる。」
 そのまま奥に進むべきか張に従うべきか、階段の横で立ち止まった秋蘭を蒼郎が追い越した。
 ――張の旦那たちっていうのは、さっきの人と、奥さんと娘さんのことだよな。白氏っていうのが奥さんか。薬屋の夫婦が二階に住んでいて……じゃあ、蒼郎の主はどういう人なんだろう。お嬢様っていうのは主の娘なのかな。
 廊下の先にうっすらと灯りが漏れてくる扉があった。蒼郎がその扉の前で立ち止まる。秋蘭も急いで蒼郎に追いついた。ほんのりと香が匂った。
「主。」
 低く呼べば。
「遅い。」
 女性の声が応える。低く、少しかすれたような響きだが、明らかに若い女の声。
 ――女?
 予想外のことに、秋蘭は何度か瞬きをした。
 扉を開け、蒼郎が中を覗き込む。
「女中を拾ってきた。」
「女中?本当か?」
 女の低い声が軽く笑いを含む。
「蒼郎は何でも拾い物ですませるからな。」
 からかうような女の言葉に返事はせず蒼郎は秋蘭を部屋に押し込んだ。少し前のめりになりながら、秋蘭は女の部屋に二歩ほど踏み込む。闇に慣れた目には、部屋の小さな灯りさえもまぶしい。部屋の一番奥の椅子にいたくくつろいだ姿で座り、女が秋蘭を見上げている。
 ――若い人だ。
 女と呼ぶべきか、少女と呼ぶべきか。
 部屋の中は雑然としていた。膝の上には一冊の本。何の書物なのかは分からないが、開かれた頁にはびっしりと細かい文字が並んでいる。
「女中を拾ったんじゃないのか?」
 蒼郎が後ろ手に扉を閉めて、部屋に入る。のどの奥で笑うように、少女が蒼郎に尋ねた。
「男の女中では不都合か。」
 冗談を言っている様子もない。蒼郎はまっすぐに少女を見据え尋ね返す。
「不都合はないが……普通、女中は女だろう?」
 少女は右手で口元を押さえ、くつくつと笑った。
 ――この人も俺が男だって気づいている。
 その少女は秋蘭よりも三四歳年上に見えた。決して美人と呼べるほどの美人ではない。だが独特の気配があった。はつらつとした雰囲気と、「主」という呼ばれ方に違和感を覚えさせない貫禄とでも言えば良いのだろうか。
「名前は?」
 ぶしつけなほど少女を凝視していた秋蘭に視線を戻し、彼女が問いかける。
「……秋蘭。」
 偽りの名を名乗るなどという知恵は回らなかった。名乗ってしまってから、偽名の方が良かったのではないかと一瞬迷ったものの、今更どうしようもない。それに、秋蘭という名だって本当の名前ではないのだから、どうでも良いことのようにも思われた。
「秋蘭、か。きれいな名だな。」
 女みたいな名前であることも、女装していることも、その少女は全く気に懸ける様子はなかった。椅子の横に落ちている団扇を右手で拾い上げ軽く身を扇ぎながら、しばらく何かを思案していたが、
「ここで働く気はあるか?」
 ふと団扇を止めてまっすぐに秋蘭を見据えた。
 ――何を今更聞くのだろう?
 秋蘭は小さく瞬きをする。
「主がこのように得体の知れない女だとは聞いていなかったのだろう?もし、このような奇妙な場所で働くのが嫌なら、早く出て行った方が良い。」
 扉に寄りかかって腕を組む蒼郎は身じろぎ一つしない。香がふわりと薫る。
「……俺、行くところがないから。」
「そうか。」
 少女が小さく笑った。その笑みは憐憫ではなく、安堵の笑みに見えた。
「ならばここに居れば良い。私の名は朱朱。」
「主!」
 蒼郎が低く遮った。
「お前が信頼して連れてきた者なら、名を隠す必要はあるまい。」
「しかし。」
 反論しかけて、蒼郎は再び沈黙する。
 ――この人たち、いったい、何なんだろう?
 蒼郎と朱朱を見比べて、急に秋蘭は不安に駆られた。変なところに迷い込んでしまったのかもしれない。だがその不安は後悔にはつながらなかった。ここに紛れ込んでしまったこと自体は当然のさだめであるかのように思えた。
「秋蘭。昼間は薬屋を手伝ってほしい。そうだな、薬屋で働くときは男のなりをした方が便利だろう。明日、白氏にあつらえてもらえ。」
 また団扇を使いながら、朱朱がゆっくりと思案し始める。
「夜にも仕事があることがある。そのときは……そうだな。女装している方が良い。」
「夜にも……?」
「ああ。夜はいかがわしい商売をすることがある。」
「いかがわしい商売?」
 少女はぴたりと団扇を止め、口元を覆うようにして笑った。
「真闇の蛍という名を知っているか?」
「……え?」
 知らないはずがない。
 ――この人が妖術使い「真闇の蛍」……?
 薬屋の建物を見てから先、すっかり頭から抜け落ちていた女妖術使い。有名なその人が目の前にいる。
 そう聞かされて、秋蘭の体は凍り付いたように動かなくなった。恐怖というよりも驚愕が先に立った。女の妖術使いと聞いていても、こんな少女だとは思いも寄らなかったのだ。とんでもない強力な妖術を使う、恐ろしげな女だと聞いていた。真闇の蛍。その名はさまざまな噂とともに余所の町にまで届いている。
 ――真闇の蛍なら、道理で本当の名前を名乗っちゃまずいわけだ。
 妖術使いは自分の本名を明らかにすることはない。名前を人に知られれば、術を破られたり返されたりするのだという。それを秋蘭には教えてくれた、ということだろうか。
 動かなくなった秋蘭に、朱朱が団扇に隠れるように声を上げて笑い出す。
「怯えなくても良い。どんな噂を聞いたか知らないが、全て嘘なのだから。」
「嘘?」
「私は妖術など使えない。妖術使いのまねごとをしているだけだ。」
 いたずらっぽく秋蘭を見上げる朱朱。
「な、なんでそんなことを?」
「一日中家の中にいるのでは退屈だからな。」
 朱朱は目を伏せてそれだけ呟くと、また目を上げてころころと笑った。膝の上の本がはらりと落ちかける。朱朱は団扇を持った右手でそれを押さえた。そして本と団扇とを一緒に椅子の端に置く。
 ――あれ?
 その動きに何か違和感を覚えて、秋蘭は首をかしげる。何か変だ。
 秋蘭の視線に朱朱がふと穏やかに視線を返す。
「ああ。左腕がないんだ。」
 少女は立ち上がって、肩掛けを脱ぐとくるりと回って見せた。空っぽの左の袖が揺れる。
 ――そうか。何もかも右手でやっていたから、どこか変に見えたんだ。
「あの……ごめんなさい。」
 気づいてはいけないことに気づいてしまったような気がして、秋蘭は慌てて目をそらす。
「何も謝ることはない。この左腕は私の誇りだからな。」
 勢いよく椅子に腰掛けて、朱朱は秋蘭を見上げる。黙って壁際に立ちつくしていた蒼郎がゆっくりと朱朱の元に移動し、無表情のまま肩掛けをふわりと羽織らせる。
 少女はしばらく黙って秋蘭を見上げていたが、付け加えるように小さく笑った。
「それに……全部、運命だから。」
 春の夜は静かに冷える。二階から誰かのくしゃみの声が聞こえてきた。




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