□ 三 □
疲れていたはずだが、緊張していたのだろう。秋蘭は翌朝、かなり早い時間に目が覚めた。蒼郎と同じ部屋を使えと言われ、案内された小部屋。しかし明るくなってから辺りを見回してもどこにも蒼郎の姿はなかった。店の方だろうか。かたことと誰かが働いている音がする。
――どうすれば良いのかな。
出て行って仕事を手伝えば良いのか、誰かに呼ばれるまで待っていた方が良いのか。
布団の上でしばらく座り込んで、秋蘭は蒼郎が戻ってこないか待ちながら、髪を整えた。いつもの癖で女の髪に結い上げる。鏡を見なくてもきちんと結えるほどに慣れてしまった自分。別に恥じるべきことでもないが、それを恥じない自分はおかしいのかもしれないと、ぼんやり考えた。
しばらく待ってみても蒼郎は帰ってこない。よくよく周囲を眺め回してみても、蒼郎が眠った布団など見あたらないし、昨夜秋蘭に布団を与えて、先に寝ていろといって出て行った蒼郎が、それ以降帰ってきたようには思われなかった。
――しょうがない。探しに行こう。
自分の主は朱朱。薬屋の張の旦那は、朱朱のことを「お嬢様」と呼んでいるようだったから、朱朱の方が薬屋よりも偉いのかもしれない。どういう関係か分からないけれども、とにかくここは朱朱に従うことにすれば良さそうだ。
音を立てないようにそっと戸を開き、廊下に出る。外は予想外に明るくなっていた。夏が近い。
薄闇の中で見た廊下は狭く感じられたが、朝改めて見回してみると、昨日感じたよりもずっと立派な建物であるように思われた。広いとは言えないにしても、それなりにしっかりとした造りの店構えである。
すぐ横の扉が朱朱の部屋であった。戸を叩こうかどうしようか、ためらっていると、いきなり目の前の戸がすっと開く。
「うわ。」
びっくりして後ずさる秋蘭に、戸を開いた本人も少し驚いたようで、一瞬、びくりと身じろぎをした。戸を開いたのは朱朱ではなく、蒼郎である。
「秋蘭か?」
部屋の奥から朱朱の声がする。眠そうな声。まだ寝起きなのだろう。
――なんでここから蒼郎が出てくるんだろう?
それが愚問であることくらい、秋蘭にも理解できた。男が、朝、女の部屋から出てきたのなら、他に理由はない。旅芸人暮らしをしていたときにも、よく目にした光景だ。
蒼郎が後ろ手に戸を閉める。
「眠れたか?」
「あ。うん。」
一瞬、動揺した様子が見えたものの、もう蒼郎は昨夜の無表情な男に戻っていた。すっかり身支度を調えている秋蘭を改めて頭の先から足の先まで眺める。昨日は薄闇の中で確認したお互いの姿。朝の光の中では少し風情が変わる。蒼郎は無表情であることは間違いなかったが、昨夜感じたほどには不気味ではないな、と秋蘭は思い直した。
「ならば来い。」
店の裏手には小さな明るい庭があった。小柄な女が洗濯物を干している。
「白氏。」
蒼郎の呼びかけに、女は振り返るなりぱっと笑みを浮かべた。
「おはよう。蒼郎。その子が女中さんね。」
空は気持ちよく晴れ渡っていた。庭は整えるというほどには手を入れてはいないようだが、小ぎれいに片づいている。新緑が目にまぶしい。
蒼郎は秋蘭を紹介してくれる気はないらしい。白氏に声を掛けただけであとは茫洋と立ちつくしている。不思議な間合いに耐えかねて、秋蘭は一歩前に歩み出、頭を下げた。
「秋蘭と言います。女中というか、男なんですけど、よろしくお願いします。」
秋蘭の奇妙な挨拶にきょとんとした白氏。少しふくよかな頬に、片えくぼがぐっと深まった。
「秋蘭ちゃん、男の子なの?そうは見えなかったわ。ごめんなさい。うちの人も間違えてたのね。うちの人が女中だなんて言ったのよ。」
「女中と言ったのは俺だ。」
「あらあら。蒼郎が言うなら、うちの人は信じちゃうわね。」
――張の旦那に負けないくらい、人の良い奥さんだな。
変に居心地の良い家だ、と秋蘭は思った。旅芸人の一座も居心地が悪い訳じゃなかったけど、こんなにも人の良い人ばっかりいる場所じゃなかった。
――怖いほどに居心地が良い。何か怖いくらいに。
そのとき、家の方から小さな女の子の声がした。
「お母さん!お湯、沸いたよ!」
「はいはい。ちょっと待っててね。」
白氏が声の方に元気な返事を返す。
「あの、何か手伝えることがありませんか?」
ぱたぱたと家に戻ろうとする白氏を、秋蘭が引き留める。
「えっと、その洗濯物、干しておきましょうか。」
白氏は振り返って、にこりと秋蘭に笑いかけた。
「やってもらえるの?じゃあ、お願いね。」
洗濯物は大した量はない。かごの中を覗き込んでいると、いつの間にか蒼郎の姿はなくなっていた。
――これは子供の服かな。
旅暮らしをしていたころ、小さい子の服を洗ったり干したりするのは、秋蘭たち若い者のつとめだった。こういう仕事は慣れている。家事が嫌いな仲間も結構いたけれど、秋蘭は嫌ではなかったし、むしろ好きだった。家族の匂いがする仕事だからかもしれない。
白氏はすぐに戻って来た。
「ありがとう。秋蘭ちゃん。」
「いえ。さっき呼んでたのは?」
「娘の芳。張芳っていうの。あとで挨拶させるわね。」
――芳ちゃんか。
ふと春芳を思い出す。大丈夫かな。寂しくなって泣いたりしていないかな。
「秋蘭ちゃん、昼間は店を手伝ってくれるのね?」
「はい。あ、あの、男物の服ってありますか?」
男として働くのなら、このままの姿でいるわけにはいかない。白氏はにこにこと秋蘭の全身を眺めた。
「うちの人のに少し手を入れればきっと着られるわ。今度、秋蘭ちゃんのために新しいのをあつらえてあげるから、しばらくはそれで我慢してもらえる?」
「もちろんです。ありがとうございます。」
洗濯物は二人がかりで干すまでもなく、あっという間に片づいた。
「この町は初めて?」
ここに来た理由を誰も尋ねない。十四歳の少年が一人で夜の町にたたずんでいるなんて、どう考えてもおかしい。
――気にならないのかな。
――疑いもせずに知らない人を家に置いて良いのかな。
人の良い薬屋夫妻ならともかく、朱朱と蒼郎まで何も問わないのだ。薬屋の夫婦は蒼郎たちが選んだから信頼しているのかもしれないけれど。良いんだろうか。どこの誰とも知れないのに。
「初めてです。」
せめて聞かれたことは素直に答えよう。秋蘭はそう心に決めた。隠さなきゃいけないことなど何もない。むしろ全部聞いてくれたら、洗いざらい話せて楽になれるかもしれないと思うくらいだ。
――聞かれないなら……言わないけど。
なぜ自分から話そうとしないのかは、自分でも分からなかった。だが、せめて聞かれたことくらいは素直に答えたいと、そう願った。
「材木屋の仕事でも探していたの?」
探るような口調でもなく、ただ世間話でもするように訊ねる白氏に、秋蘭は首を振った。
興陽の南を流れる興江という川の上流は、有名な木材の産地である。上流では木を伐採する男たちがたくさん働いているという噂は聞いていた。だが、秋蘭はそこに行く気はなかった。
「あの川、山賊が出るんですよね。」
川伝いの道を行くと山に入るのだという。山の奥に伐採場があるわけだが、その手前に山賊の根城があって、伐採場から切り出してくる木々を川下に運ぶ船からも通行料を取る。もちろん、道伝いに行くとしても通行料を取られるだろう。いくら男であるといえ、山賊が跋扈する川沿いを一人上流に向かう気はない。危険すぎる。
がさり、と、庭の奥の茂みがいきなり揺れた。
「わ!」
山賊の話をしていた矢先である。びっくりして秋蘭は後ずさり、空になっていたかごをひっくり返した。
「お嬢様の犬よ。いらっしゃい。小梅。」
大きな真っ黒い犬がのそりと姿を見せる。その前にしゃがみ込んで、白氏は頭を撫でた。獰猛そうな外見をしているが、それは外見だけらしい。吠えることも唸ることもなく、犬は静かに秋蘭を見て、ばさりと一度だけシッポを振った。
「ほら。今日からうちの家族になる秋蘭ちゃんよ。」
おそるおそる秋蘭は白氏の横に膝をつく。犬はくんくんと小さく鼻をうごめかし、それから大人しく地面に伏せた。
「お嬢様の遊び相手に猫でも飼いましょうって話をしていたら、蒼郎がこの子を拾ってきたの。」
――なるほど。蒼郎は何でも拾い物ですませるからと、昨日、朱朱が言っていたのはそういうことか。
無表情な蒼郎だが、律儀そうに見えて実はそうでもないのかもしれない。どこか抜けている。朱朱が猫を欲しがったときには犬を拾い、女中を欲しがったときには秋蘭を拾ってきているのだから。少なくとも、とうてい拾い物が得意とは見えない。
「お嬢様は犬でも猫でも良かったみたい。蒼郎が拾ってきたものならそれで良いっておっしゃって、とても可愛がっておられるわ。」
お二人にとって、朱朱と蒼郎って何者なんですか。普通の薬屋ならば、こんな奇妙な居候はいないですよね。
そう訊ねれば良かったのかもしれない。だが、秋蘭はなぜかそれを聞くことができなかった。何も聞かずに家に置いてくれる人たちなのだから、見ず知らずの他人を疑いもせず家族と呼んでくれる人なのだから、こちらも訊ねてはいけない。そんな気がしていた。
しばらく黙って小梅を撫でていた白氏は、小梅に視線を向けたまま、ふと思い出したように口を開く。
「あのね。一つだけお願いがあるの。」
白氏の笑みは消えてはいなかった。だがどこか硬い表情で、白氏は呟くように言葉を紡ぐ。
「一つだけお願い。ここの家で山賊の話はしないこと。約束してもらえる?」
「山賊の話……ですか。」
それくらい何でもない。簡単なことだ。
「分かりました。気を付けます。」
深く頷いて秋蘭は約束した。ぱたり、と小梅がシッポを振る。
「理由、聞かないのね。」
微笑んで秋蘭に視線を向ける白氏。
「白氏も俺がここにいる理由を聞かないじゃないですか。だから……」
初夏の風が茂みを揺らす。小梅の鼻先がひくひくと動いた。
にこっと白氏が深く微笑む。頬の片えくぼが深くなる。
「さ、朝ご飯の支度よ。秋蘭ちゃん。」
「はい。」
当然のように手伝いを頼まれて、秋蘭は勢いよく立ち上がった。何が嬉しいのか分からない。だが、なぜか無性に嬉しい気持ちがこみ上げてきた。