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□ 二一 □


 ――真闇の蛍が安の大旦那を呪い殺そうとしている。
 その物騒な噂の出所探しはなかなか手こずった。毎晩、風来は手ぶらで訪れて、さんざん恐縮しながら帰って行く。風来に探り出せない出所なら、そう易々と見つかるはずもない、と朱朱は慰めたが、風来は毎晩のように「明日こそは」と誓い何度も頭を下げた。
 そして八日目の晩。
「どうやら、陳という男が怪しいようで。」
 ようやくしっぽをつかんだらしく、寒さにいささか頬を赤く染めて、風来が張録の店に顔を見せた。
「杜の旦那が教えてくれやして。どうも材木問屋の連中から話が来ているようだって。」
 書肆の杜佳は、地味ながらも丁寧な仕事を続け、数ヶ月の間にずいぶんと昔の雰囲気を取り戻しつつあった。杜佳にしてみれば、恩人である真闇の蛍に妙な噂があっては気にならないはずもない。
「材木問屋なら、安の大旦那の商売敵、というわけか。」
 椅子にゆったりと腰掛けた朱朱が天井を見上げる。
「あれだけの大商いをしている安家ですから、同業者に恨まれることもあったかもしれやせん。」
 商売敵への嫌がらせであれば、そういう噂を流すのも、理解できないわけではない。
「だが、ずいぶんと迂遠なことをするものだな。」
 十分に暖められた部屋。朱朱は団扇で口元を覆った。確かに迂遠には違いない。気分はよくないだろうが、つまるところそれはただの噂にすぎないのだから。
「陳という男を探ってきますかい。」
 当然、それは自分の仕事だとばかりに、身を乗り出す風来に小さく微笑んで、朱朱は首をかしげた。
「私が直接話を聞きにいこう。」
 朱朱の部屋の隅で、二人のやりとりを聞いていた秋蘭はびっくりして、扉の傍らに立つ蒼郎を振り返った。蒼郎は無表情なまま、薄く口を開き、再び閉ざす。
「主がいらっしゃるんで?」
 面食らった体の風来。
「それは……あんまりおすすめできませんや。だいたい、陳って男は、材木問屋には違いませんが、安家なんかとは比べもんにならない小さな問屋ですし、素性も怪しいもんでして。」
「素性の怪しさなら、風来だって負けてはいないだろうに。」
 自分の言葉にころころと朱朱が笑う。
「まぁ、それは違いません。でも、どうもいけすかねぇヤツでしてね。わしのように、怪しい素性の人間が、辻占いみてぇな怪しい商売してるってんなら分かりやすが、なにぶん、材木問屋みたいなまっとうな商売をしているあたりが怪しさの極みと言いやすか、その……。」
 素性の怪しさなどという話になれば、風来は分が悪い。なにぶん、博徒だった男だ。だが、その風来が危惧しているくらいであるから、その陳という男もなかなかまともな商売人ではないのだろう。
「俺が代理で行くよ。真闇の蛍の使いだって名乗ればいいだろ?」
「ならば俺も付き合おう。」
 風来が探ってくるよりも、真闇の蛍の「侍女」である秋蘭が話をしに行く方が、朱朱に都合がよいにちがいなかった。蒼郎が付き添ってくれるなら、怖いこともない。
「わしが、ここで主をお守りしやすから。」
 それで我慢してくだせぇ。
 風来はそう訴えた。どうしても陳の元に行かせたくはない。そんな空気に、朱朱が折れる。
「分かった。二人に任せよう。」
 少し寂しそうに団扇を揺らしながら、頷いて朱朱は薄く笑んだ。
 そのとき、風来が調子はずれな声を上げる。
「いけねぇ!大事な用事を忘れてやした。」
 懐からごそごそと取り出したのは、手紙。封の雰囲気からして、青青の手紙ではない。
「陸善史からの手紙が来てやした。」
 都から風来の手元まで、どのように手紙が届くのか、秋蘭は知らない。だが、流れ者には流れ者の結びつきというものがあることくらいは、旅暮らしの長い秋蘭には容易に理解できた。博徒であった風来のこと、きっとその手のつながりを今でも維持しているのだろう。
 恭しく風来が差し出す陸からの手紙を、朱朱は受け取るなりその場で開封した。待ちかねた手紙である。団扇を膝に置く間も惜しんで、一通り目を通す。
「……風来。今日は、何日だ?」
「今日、ですか。十一月の十日でございやすが。」
 薄闇の中、朱朱の指先が真っ白く浮かび上がる。紙よりも白い。
「そう、か。」
 声が震えている。
 朱朱の様子に、風来が声を低めた。
「どうなさいやした。陸の大先生の身に何か……。」
「いや……。」
 ふぅっと深く息を吐いて、朱朱は目を閉じた。
「陛下が善史に命令を下された。我が一族の仇、興陽の賊を討て、と。」
 低くかすれた朱朱の声に、秋蘭は二度ほど瞬きをする。
「精鋭の兵を数百人付けてくださるそうだ。十三日ごろには興陽に到着する、とある。」
 指先が震えている。
「……蒼郎。読んでみてくれ。私は夢を見ているのだろうか。」
 するりと肩から落ちる肩掛けを羽織り直させてやりながら、蒼郎は手紙をそっと受け取って目を通す。
「間違いない。主。」
 ここ数年、興陽の知事もお手上げと諦めたものか、山狩りらしい山狩りは行われていないという。山賊達は好き放題に跳梁跋扈し、収まることを知らない。そうであるなら、この町の人全員にとっても、これは良い知らせに違いなかった。
 ――きっと杜の旦那も喜ぶだろうな。もちろん青青も。それに……安の大旦那って人も。
 秋蘭は大きく深呼吸をした。

 翌朝早く、秋蘭は朝ご飯を食べるより前に、張録の許可をもらって、薬屋を飛び出した。青青はすごく喜ぶに違いない。青青が頑張らなくても、皇帝陛下がちゃんと敵を討ってくれることになったんだから。
「青青はそんなに早くは起きていないぞ。」
 そう笑いながらも、いつもよりはるかに早く起きてきた朱朱は、秋蘭を見送って店の方まで出てきた。
 ――もうすぐ、朱朱も隠れていなくて良くなるんだ。
 それも秋蘭にとっては嬉しかった。
 皇帝陛下の一族だとか、そんなことはどうでもよいのだ。朱朱が一人の人として、普通に生活できるようになるのが何より嬉しい。
 玉花楼は夜の商売である。早朝の店は戸をきっちりと閉ざして、森閑としている。二三度扉を叩けば、顔なじみの女中が眠そうな顔で薄く戸を開けた。
「これ、天上の鴬に渡してください。」
 秋蘭にとっては顔なじみでも、その女中にしてみれば、少年の姿の秋蘭は初対面である。見知らぬ人を見る目で怪訝そうに瞬きする女に、秋蘭は慌てて言い足した。
「俺、張録の薬屋の。」
「ああ、張録の旦那のとこの。」
 それで女は納得したらしい。青青が起きたら必ず渡す、と約束してくれた。
 本当は今たたき起こしてでも渡してほしかったが、そうも頼めない。それに、良い知らせなのだから、焦ることはないのだ。秋蘭は澄み切った冬空の下、店への道を全力で走る。冷たい朝の空気が頬に心地よかった。
「おや、秋生さん。早いですね。」
 店を開ける準備をしていた梁の若旦那が、穏やかな笑みを向ける。真夏でもなま白かった肌は、冬になればますます白く見えた。客商売で毎日日の当たるところに出ている人なのに、それを感じさせない。
「おはようございます!」
 そのつもりがなくとも、声が弾む。
「お若い人は元気なものだ。」
 店の奥に腰を下ろし、手あぶりの火に手をかざしていた老人が、ひょこりと人の良さそうな顔をのぞかせて笑った。
「張の薬屋の秋生さんですよ。いつも薬を届けてくださる。」
「ああ。」
 老人が軽く会釈をした。慌てて秋蘭も会釈を返す。
「秋生さん、うちの父です。おかげさまで、最近はずいぶん起きていられるようになりましてね。」
 若旦那に紹介されるまでもない。夏ごろに苦しそうな咳を聞いたきりだった老人が、いつの間にか、起きていられるようになったと言われれば、薬を届けていただけの秋蘭であってもわがことのように嬉しかった。まして、自分の父ならさぞや嬉しいことだろう。
「よかったですね。」
 心からの秋蘭の言葉に、老人がはっはっと小さく声を立てて笑った。そして手招きをする。
「ろくなお礼もできんが、よかったらこれを。」
 薬代は梁家が払っているのだから、お礼などしてもらうゆえんはない。だが、老人にしてみれば、薬屋のおかげというような思いもあるのだろう。遠慮がちに店の奥に踏み込めば、手のひらに小さな独楽を乗せられる。
「かわいかろ。」
 おもちゃの独楽である。旅芸人の一座には曲芸のように器用に独楽を回す者がいた。秋蘭も少しだけそれを真似てやらせてもらったことがある。
「父さん。秋生さんは子供じゃないんですから。」
 呆れたようにいさめる若旦那に、秋生はにこりと笑った。
「いえ、ありがとうございます。」
 もちろん、独楽くらい、張録のくれる金で買えないわけではない。でも、この独楽は自分で買う独楽よりずっと嬉しい。
「これも安の大旦那様ですよ。」
 梁の若旦那が苦笑しながら説明する。
「夏は団扇。秋は小箱。冬になったら独楽を扱い始めましてね。」
 なるほど、独楽を彩る鮮やかな色彩は、団扇や小箱とどこか似ていた。
「材木の端を使って作れるものを、次から次へとよくもいろいろとお考えになるものですよ。寡婦達もおかげで食うに困りません。」
 老人が笑う。
「独楽はな、安家の坊ちゃん達が好きで、よくうちの店に買いにいらしたもんだったよ。爺やさんと一緒に、小さな弟君の手を引いてな。今の大旦那様がまだお小さいころの話だ。」
「独楽を仕入れてから先、この話ばかりなんですよ。」
 秋蘭にそう言いつける若旦那も、決して嫌そうな口調ではない。父親が店先で思い出話をできるほど回復したことを、喜んでいるのがよく分かった。
「大旦那様も独楽を見ると思い出すだろうよ。弟君を本当に可愛がっておられたからな。」
 ――山賊に襲われたんだ。その可愛がっていた弟さんも。
 今日はいい天気になりそうだった。空が淡い青に染まる。
 ――でも、都から、皇帝陛下の兵士達が来る。山賊をみんなやっつけるために!
 手あぶりの火がぱちりと爆ぜた。
 店の固い床の上で、かつり、と勢いよく独楽を回してみる。
「おやおや。」
 目を細める老人。赤と青の鮮やかな独楽が、まっすぐに回転する。
「安源坊ちゃんも店先でよく回して見せてくださったもんだった。やんちゃで器用なお子でな。」
「安源坊ちゃん?大旦那様の弟さんの名前ですか。」
「そう。右側にさんずい、左に原で、安源坊ちゃん。」
 老人がふと寂しげに微笑む。
「本当に……。」
 そこまで言って老人は口を閉ざす。あまりにもいろいろな思いが交錯してしまって、老人自身、それ以上なんと言って良いものか分からないにちがいない。
 秋蘭は手の中で独楽をくるりと回した。赤と青のきれいな独楽。
 ――燕燕は独楽を回したことがあるだろうか。
 小さいころから、玉花楼の外にほとんど出たことがない燕燕。独楽遊びなどしたことがないかもしれない。
 ――あとで持っていってやろう。
 そう思うと、浮き立った心がますます弾んだ。秋蘭は梁家の二人に礼を言うと、冬空の下、再び駆け出した。



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