□ 二二 □


 身支度を調えると、秋蘭と蒼郎は張録の家を出た。身を切るような夜の風に、白氏が作ってくれた綿入れの上着の襟元をぎゅっと合わせる。
「ここか。」
 風来の説明通りたどり着いた小さな店。確かに安家などとは比較にならない、小商いの店に違いなかった。戸を叩けば、深夜であるにも関わらず、男がすぐに返答した。
「誰だ?」
「真闇の蛍の使いです。」
 蒼郎の淡々とした声に、扉の向こうで男が息を呑んだのが分かった。
「用件はお分かりのはずですが。」
 脅しているわけではないが、低く朗々と響く蒼郎の言葉には抵抗しがたい何かがある。
「分かった。」
 扉がぎしりと軽い音を立てて開いた。薄暗い家の中に導かれるままに上がる。男はずいぶんと背が低く、だが腕も肩もやけにがっしりとしていた。
「陳広。」
 打ち合わせ通り、秋蘭が男の背に呼びかければ、男はびくりと振り返る。
「あんたが真闇の蛍姫で?」
「いや、私は真闇の蛍の侍女にすぎぬ。」
 芝居は好きだった。朱朱が書いた脚本通りに話を進めるくらい、何てことはない。
 男は薄暗い店の中央で、立ったまま話の続きを促した。
「何の用だ?」
 侍女と聞いて多少は余裕が出てきたものか、男の声色が少し落ち着いた。
「真闇の蛍の名を騙る不届き者を成敗しに来た。」
 有無を言わせぬ口調で、でも、どこか気品を持って。朱朱の雰囲気を思い出しながら秋蘭は言葉を続ける。
「言い残すことはおありか。」
 決定事項のように通告する秋蘭に、男は慌てた様子で口を開く。
「待ってくれ。俺は別に真闇の蛍の名を騙ったわけじゃねぇ。」
 秋蘭は答えない。ただ黙って陳広を見据える。
「勝手に名前を借りたのは悪かった。だけど、安潜の野郎を懲らしめるのに、他に方法が思いつかなかったんだ。」
 安の大旦那様、と興陽中の人が慕う男を、陳広は安潜と呼び捨てにした。
「ここ五年くらい、興陽の軍の山狩りがねぇおかげで、山賊どもは野放しになっている。なんでお上の山狩りがねぇのか、分かるか?」
 問いかけられても返事をしない秋蘭に諦めた様子で、男は自ら答えを口にした。
「知事殿に賄賂を送って、山狩りを止めているヤツがいるんだ。俺は最初、山賊どもが知事とつながってると思ってた。それならしょうがねぇ。どうしようもねぇ。でも、そうじゃなかった。あんたも知っているだろう?安家の船はここ五年、一度も山賊どもに襲われてねぇ。」
 最近山狩りがないという話は、秋蘭も知っている。だが、安家の話は初耳だった。
「山賊を伐ってもらおうにも、興陽の知事はその気はねぇ。安家以外の材木屋は、野放しの山賊相手じゃ商売にならねぇ。身がもたねぇ。材木買うやつらだって、山賊に襲われるかもしれないところよりも、絶対安全な大店を信頼するのは道理だ。このままじゃ、俺らにはどうしようもねぇことになる。」
 男の言い分は分かった。
 山賊と安家が手を結んでいる、と言うのだ。
 だが、知事まで巻き込んでいる以上、一介の材木問屋ではどうしようもない。ならば、権力とも山賊とも結びつかない真闇の蛍の名前を借りるしかない。そういう話だったのだろう。
 本当に呪い殺すかどうかではなく、呪い殺そうとしているという噂があれば十分だったのだ。後ろ暗いところがある者は、その噂を聞けば震え上がるに違いない。
「それならば、なぜ、真闇の蛍に直接告げない?」
 蒼郎が問う。
「勝手に名を騙っては、怒りに触れることくらい、分かっていたはずだ。」
 陳広はじっと蒼郎を見上げ、それから小さくにやりと笑った。
「一つは……舐めてた。俺が噂の出所だと突き止められるとは思わなかった。それに……真闇の蛍まで安潜とつるんでいたら、どうしようもねぇからな。」
 真闇の蛍と安潜が仲間だったら、陳広はおそらくひどい目を見たに違いない。知事も、山賊も、安家もつながっている。真闇の蛍は安全だ、と確信する謂われなど、確かにどこにもなかった。
「証拠は?」
 唐突な秋蘭の問いに、陳広は一瞬ためらった。
「山賊と安家がつながっているという証拠か?」
「そうだ。」
「安家に出入りしている水原という男がいるだろう?」
 低くとつとつと応じる。
「あの男は、材木運搬の指揮もしている。確かにな。だが、水原は山賊だ。しかも、頭だ。木材運ぶ船を襲って、通行税なんてふざけた名目で上前跳ねるってのを思いついたのもヤツだって噂だがな。頭になってから、あの男はもっと良い手を思いついた。いっそ、木材運搬の仕事を全部、安家から下請けしちまおうっていうな。安家と山賊でこの辺の材木商いを独占しちまえば、上前跳ねるよりずっと効率がいいだろうし、値段だって釣り上げ放題って寸法だろうよ。」
 ――水原さんが山賊?
 一瞬、秋蘭には理解が追いつかなかった。数回瞬きをして、ふと思い出す。猛禽類のような光を宿した水原の目。あれは確かに修羅場を何度もくぐった人間の目だった。
「水原が山賊の頭に上り詰めたのが五年ほど前。安家の船が襲われなくなったのも、山狩りしなくなったのも、五年前だ。これで全部つじつまが合う。他に何の証拠がいる?」
 ――これでつじつまは合う。だけど……。
「どうしてそれを知っている?」
 秋蘭が問うよりも前に、蒼郎が尋ねた。男はおどけたように笑う。
「山から材木運び出すのなんざ、堅気の仕事じゃねぇ。俺の手下には山賊とつながってるヤツらがたくさんいる。」
 俺の手下には、と言ったが、おそらくは陳広自身、山賊とつながりがあるに違いない。そうでなければ、頭が誰だとか、いつ頭になっただとか、通行税を思いついたのが誰だとか、そんな山賊内部の情報はつかみ得ないだろう。
「間違いのない話か。」
「不安なら、山賊あがりのヤツを探して確認すれば良い。」
 陳広は真顔で言い切った。
「安潜は家族を山賊に殺されたって話だが、それだって怪しいもんだと俺は思ってる。あいつが手引きして、山賊どもを家に引き入れて、殺させたんじゃねぇのかってな。安家には他にも息子がいた。安潜のオヤジは、弟の方を可愛がっていたそうじゃねぇか。安潜が人徳者だなんて、俺は認めねぇ。」
 吐き捨てるように言って、陳広は苦しそうに笑った。
 ――とりあえず朱朱に相談してみなきゃ。
 今朝、安の大旦那が弟をどんなに可愛がっていたか、聞いたばかりの秋蘭には、その話はにわかには信じがたかった。ちらりと視線を送れば、蒼郎が軽く頷いた。
「事情は分かった。真闇の蛍に伝えよう。」
 首をすくめる陳広。
「本当に呪い殺してくれてもかまいませんぜ?そうしたら、お礼はさせていただきやすから。」

 雲一つない夜空。外は冷え切っていた。
「安の大旦那様が山賊とつるんでいる、なんて。」
 人知れず多くの困っている人に手をさしのべている慈善家。
 山賊と手を結んで、知事に賄賂を贈って、大儲けしている悪人。
 同じ人の噂だとは思えなかった。
 そして水原のこと。
「水原という男。」
「ん?」
「玉花楼に顔を出していると聞いたが。」
 蒼郎の言葉に、はっとする。
「来てる。安の大旦那と一緒によく来てるんだ。で、必ず天上の鴬を指名する。」
 ――ただ、青青に惚れているだけなら、まだ良い。
 ――そうでなかったら?
「山賊達が、まだ、趙家の生き残りを狙っているかもしれないの?」
 風が頬を打つように吹く。
「それはないと思うが……あのとき、逃げようとした俺達を奴らは追わなかった。」
 あのとき、というのは、山賊に囚われ、山の中に連れて行かれたときのことに違いない。青青も蒼郎も、同じ記憶を抱いている。目の前で、朱朱の腕を斬られたという記憶。朱朱が覚えていないその痛みを抱いて、彼らはここにいる。
「せっかく捕らえたのに逃げ出すのを見かけても追わなかった、ってこと?」
「主の出血がひどかった。山賊どもは砦でよそ者が死ぬのを嫌がるという。だからだろうな。夜、主を担いで逃げようとした俺達に気づいても、奴らは見逃した。」
 ――朱朱が死ぬと思ってたんだ。
 今更ながら、秋蘭はぞくりと背筋の寒くなるのを感じる。
「山賊達が『ほっとけ、どうせ死ぬんだ』と言っているのが聞こえた。真っ暗な山道だ。しかも初めての道。確かに生きては帰れないかもしれない、と俺も思った。だが、そのとき、俺と同じくらいの年頃の男が、たいまつを持って追いかけてきた。」
「そのときの蒼郎と同じって……子供だったってこと?」
「そうだ。その男は青青お嬢様の手を引いて、途中まで一緒に山を下りた。」
「え?」
「まだほんの子供だった。同情したのだろう。」
 そいつのおかげで助かったようなものだ。
 普段は寡黙な蒼郎がずいぶんと饒舌にしゃべる。安家と山賊のつながりなどという、予想もしなかった事態に、蒼郎も動揺しているのかもしれない。
「いずれ、玉花楼には伝えねばならないな。」
「そうだね。」
 安の大旦那や水原が、陳広の言うとおりの悪人であるのかは、分からない。だが、このまま放置しておくこともできなかった。

 張録の薬屋に戻ると、人の気配があった。
「風来さんかな。」
 朱朱の部屋に灯りが灯っている。
「あれ?」
 聞き覚えのない人の声がする。振り向けば、蒼郎が耳を澄ませているのが分かった。
「陸善史だ。」
 低く告げられた名前。
「え?」
 手紙によれば、陸善史が興陽に到着するのは、明後日のことだったはず。おそるおそる覗き込めば、部屋の中には役人らしい服装の見慣れぬ白髪まじり男がいた。そして、戸口の脇には、張録も控えている。
「葉久!いや、蒼郎、だったな。」
 白髪まじりではあるが、声は若い。四十になるかならないかという風情である。
「早かったな。」
「ああ。一日でも早く、お嬢様方にお会いしたくてな。部隊を置いて、先に来てしまった。」
 蒼郎が通り名であることは、なんとなく知っていた。おそらく、興陽に逃げて来てから使うようになった名前なのだろう。だから、陸善史にはなじみが薄いのだ。この男は、趙家が山賊に襲われてから先、ずっと都で一人で戦っていたのだから。
 振り向いた陸善史の目は真っ赤だった。膝には手巾が置かれている。隣に座る風来も、 戸口の張録も、なんとも言えない表情を見せている。今にも泣きそうな、それでいて嬉しくてしかたがない、そんな表情である。
「善史。この子が私の『侍女』の秋蘭だ。」
 朱朱の声がいつも以上にかすれている。
「おや、お美しい。確かにこれでは女の子に見えますな。」
 律儀にそう応じて、陸善史はまっすぐな視線を秋蘭に向けた。
「初めまして。私は陸善史と申します。現在、翰林院の……」
「都のお役人様だ。秋蘭。」
 小難しい肩書きに面食らっていた秋蘭に、にやりと風来が助け舟を出す。憮然とした表情で目をやる善史を、風来はからかうように見やった。
 ――きっと白沙村にいたときから、こんな感じだったんだろうな。
 険悪なわけではない。まじめくさった陸善史と、すれっからした風来のやり取りは、むしろ、微笑ましいものにさえ見えた。
「抜き打ちで山狩りを行うことになりますゆえ、知事にすらこのたびの作戦は伝えてはおりません。明日の午前中に兵士達も到着いたします。明後日には山賊達を縛り上げることになるでしょう。」
 自信に満ちた陸善史の言葉に、朱朱がうなずく。
「皇帝陛下から、お嬢様方に、今まで気づいてやれなくて本当にすまなかった、とのお言葉を賜りました。李師師からもお嬢様方によろしく、と。」
 朱朱の目に大粒の涙が浮かんだ。
「李師師っていうのは皇帝陛下のお気に入りの妓女だそうだ。趙家の奥様と、李師師の師匠が若い頃、親しかったらしい。」
 小声で張録が説明する。
 李師師の名は、以前、聞いたことがある気がした。朱朱達の母親が都の妓女だったことは聞いている。なるほど、そういう伝があれば、きっと、李師師という人が、皇帝陛下にお願いする口ぞえくらいしてくれたに違いない。
「今から青青お嬢様にご挨拶に行くのは遅いですな。」
 独り言のように呟いた陸善史に、朱朱が声を立てて笑った。
「焦らずとも、明日の朝行けば良い。」
 皇帝からの勅令を受けた身としては、さすがに一介の薬屋に泊まるわけにもいかない。腹心の部下に宿を取らせて、そこで待たせているという。陸善史は何度も朱朱に頭を下げて、名残惜しそうに薬屋を後にした。
 夜はすっかり更けて、興陽の街はしんと静まり返っている。



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