□ 二三 □
昨夜は陸善史の突然の訪問で、大騒ぎであったため、陳広の家での首尾は報告できずじまいであったが、夜更かしをしたのだから、なかなか起きてこないかと思われた朱朱も、気が高ぶっているのか、いつもよりも早く居間に姿を見せた。
「陳の方はどうだった?」
お膳を整える小さな張芳を片手で手伝いながら、朱朱。
「変な話を聞かされたんだ。」
陸善史の登場のおかげで、昨夜の仕事は遠い過去のことのように、妙に現実感が薄れてしまった。それでも思い出せる限り詳しく話して聞かせると、朱朱は首をかしげてしばらく何かを思案している様子だったが、眉を寄せる。
「食事がすんだら、玉花楼に顔を出してもらえるか。」
もちろん、秋蘭もそのつもりである。青青が心配でもあったし、独楽を燕燕に見せてやりたい思いもあった。
店を開ける準備を始めた蒼郎達の向こう、通りの方でざわざわと人の声がする。朝にしては異様なほどににぎわっている通りの様子に、朱朱が顔を上げた。
「ちょっと見てくる。」
台所を手伝っていた秋蘭は、小さな張芳を連れて通りに顔を出す。あちこちの店から様子を見る人の姿が覗いている。
「どうしたの?」
張録にしがみつく張芳の横に立ち、秋蘭が尋ねれば、道行く見知らぬ男が興奮気味に応じた。
「山狩りが始まるんだと。」
「……山狩り?」
「皇帝陛下の軍隊が、興陽の郊外に集まっているらしい。明日にでも山狩りだ。山賊どもなどこれでおしまいだな。」
興奮と安堵で、男は早口にまくしたてる。その男だけではない。誰もが落ち着かない様子で噂しあっている。
――陸善史の率いていた軍隊が追いついたんだな。
小さな張芳を抱き上げた張録は、機嫌よく店の中に戻ってゆく。
「蒼郎、秋生、朝ごはんだよ。」
朝食を食べ終えたころには、通りでの大騒ぎも収まっていた。人々は表面的には平穏な生活に立ち返っている。朱朱が手紙を書き終えるまで商売を手伝うつもりで、秋蘭は店先に出た。
きっと、陸善史も朝一番に玉花楼に行くつもりだろう。
――皇帝の勅令で訪れた役人が、朝から妓楼に顔を出しても大丈夫なのかな。
そんなことも考えながら空を見上げる。灰色の雲が空の低いところに浮かんでいるが、穏やかな風が気持ち良い。
「秋蘭お姉さま!」
唐突な声に、秋蘭ははっとする。
体当たりするように飛び込んでくる小さな人影。頭からすっぽりと大きめの上着を羽織り、はぁはぁと荒い息を吐く。
「燕燕!ど、どうして。」
「お姉さま……お姉さま!」
懸命にすがり付いてくる燕燕の指。秋蘭は理由も分からぬまま、ぎゅっと抱きしめる。
「とにかく中へ。」
肩を抱くようにそっと店の奥へと連れてゆく。蒼郎が心得て、奥の部屋への扉を開く。椅子に座らせて水を与えると、燕燕は震える両手で危なっかしく受け取った。白氏が小さな張芳を二階に行かせる。
「どうした。燕燕。」
朱朱が燕燕の前にしゃがみこんで、見上げるように問いかける。燕燕はこの店のことは知らないはずなのだ。ほとんど玉花楼から出たことがないと言っていたのは、嘘ではあるまい。
「急いで秋蘭お姉さまにお会いしなくちゃいけないって……。」
そこまで言って、燕燕がむせる。秋蘭が背中をさすってやると、ようやく落ち着いた様子で、深く息を吐いた。
「あの、お薬のにおい、秋蘭お姉さまは、いつでも、お薬のにおいがして……玉花楼で、ときどき、張の薬屋って名前、聞いていて、それで、町の人に、張の薬屋はどこですか、って聞いて、それで……。」
薬屋の店員として、男の身なりで立っていた秋蘭である。昨日、玉花楼の女中は男の身なりの秋蘭を彼だと気づかなかった。
――よく気づいたな。
何があったのか分からないが、自分を頼って、初めての町を必死で走ってきた燕燕が無性にいとおしかった。燕燕の膝を、励ますように朱朱が軽く叩く。
「よく無事にたどりついたね。」
「はい。町の人が親切で……それで、あの……。」
「ああ。ゆっくり話してごらん。」
「郭の旦那様は、蛍お姉さまに伝えてはいけないっておっしゃってて、旦那様が何とかするからって……でも、私……。」
「ああ。」
「鴬お姉さまの姿が今朝から見えなくて、それで、私……。」
そこまで訴えると、燕燕の目からぽろりと涙が流れ落ちた。今まで我慢していたのだろう。細かく肩を震わせて泣き崩れる。
「青青が……いないの?」
声もなくしゃくりあげながら、燕燕が懸命にこくりと頷く。
「どこへ行ったか分かる?」
首を振る燕燕。秋蘭はたまらなくなって、燕燕の髪をそっと撫でた。
「昨夜、何もなかった?」
燕燕は黙って首を振る。しかし、すぐにはっとした様子で顔を上げた。
「昨日の夜はお客様があって……部屋に戻ったら、女中が手紙を持ってきて……水原様からの手紙で……。」
「水原の手紙?」
「はい。でも……鴬お姉さまは……たいした用じゃないっておっしゃってて……。」
――水原……!
蒼郎が一瞬眉を寄せた。
朱朱が立ち上がり、右腕でそっと燕燕を抱きしめた。
「教えに来てくれてありがとう。燕燕。」
「私……。」
蒼白な表情ではあるが、朱朱は穏やかな笑みを浮かべて燕燕の顔を覗き込む。しばらく朱朱を見上げていた燕燕は、くしゃりと顔をゆがめ、それからわあわあと声を上げて泣き出した。
郭の旦那とともに陸善史が姿を見せたのは、燕燕が泣き出してすぐのことだった。町の人々から皇帝の軍隊が近くまで来ているという噂を聞き、陸善史のことだ、と郭宝はすぐにぴんと来たのだという。皇帝の勅使が泊まるほどの格式の宿はそうたくさんあるものではない。二人は落ち合うとすぐに蒼郎達に相談するほかあるまいと、こちらに向かった。
「燕燕!」
玉花楼からも出たことのないような箱入りの妓女が、そこにいることに、郭の旦那はことのほか驚いた様子であったが、陸善史はまっすぐに朱朱に向き直る。
「青青お嬢様のお姿が見えないと。」
「ああ。……ヤツらだ。」
搾り出すような朱朱の声。ヤツら、と言ったら他にはいないだろう。
――水原が……山賊が青青を手紙で誘い出して、かどわかした。
「昨夜、青青に手紙を書いて寄越した男がいる。水原という男だ。それがどうもヤツらの一味らしい」
「青青お嬢様はご存知だったのですか。」
「いや、私も今朝になって知った。」
秋蘭ははっとする。心臓を鷲づかみにされたような痛みが胸を痺れさせる。
――昨夜のうちに伝えておけば良かった。そうしたら青青は攫われたりしなかっただろうに。
「違う。秋蘭。」
俯いた秋蘭に気づいて、朱朱が声を上げた。
「昨夜のうちに、聞いていたとしても、伝えることなどできなかったはずだ。お前や蒼郎のせいじゃない。」
「でも。」
燕燕を宥めすかしていた郭の旦那が顔を上げる。
「申し訳ないのは私だよ。青青が出て行くことに気づかなかったのだから。」
張録がかまどに薪を投げ込んで、振り返った。
「反省会は後にいたしましょう。とにかく今はお嬢様の行方を捜さなくてはいけないのでは?」
その言葉に全員が顔を見合わせた。
――確かにそうだ。今はそれが先。
「兵士達はいつでも山賊を討てるように待機させます。ですが、まずは青青お嬢様のご無事を確認しなくては。」
青青を人質に取られてはどうしようもない。陸善史の言葉に、蒼郎が頷く。
「私は玉花楼に戻るよ。もしかしたらヤツらから連絡が来るかもしれないからね。」
少し落ち着いたのだろうか。郭宝はゆっくり立ち上がると、燕燕を促した。
「さぁ、帰ろう。燕燕。」
燕燕は駄々っ子のように首を横に振る。
「いやです。ここに残って鴬お姉さまを助けるお手伝いをします!」
困り果てた様子で燕燕の頭を撫でる郭宝。俯いて何かを考え込んでいた朱朱が、ふと目を上げた。
「秋蘭。燕燕と一緒に玉花楼に行ってくれ。」
「え?」
「燕燕。すまないが、青青の着物の中で水原が一番気に入っていたものを教えてもらえないか。秋蘭にそれを持たせてくれ。あと、香と化粧道具もだ。」
泣きはらした目で、燕燕は朱朱を見つめた。そして頷く。
「はい。すぐにご用意いたします。」
――水原。
秋蘭はゆっくりとその名前を声に出さず唱えた。
山賊の頭だという男の名。
天上の鴬をひいきにする客で。
安の大旦那が跡継ぎにと考えている材木運送屋。
――天上の鴬って、どんな人?
ふと脳裏に、水原の朗らかな声がよぎる。
――本当に……。
重なるようによぎる、梁の大旦那の声。
「ねぇ、主。」
秋蘭は全身がぞくりと震えるのを感じた。
「どうした?」
振り返る朱朱。
――右側にさんずい、左に原で、安源坊ちゃん。
秋蘭は大きく息を吐く。
「水原って人……安の大旦那の弟の……安源って人じゃない?」
山賊の砦で朱朱が見かけた少年。
砦から逃げ出した三人を助けるように、たいまつを持って青青の手を引いて山を下った少年。
蒼郎と同じくらいの年頃の少年。
安の大旦那が可愛がっていた弟。
朱朱達と同じように、安源も生きたまま山に連れて行かれたのだ。そして彼は山賊として生き抜いた。生き抜いて、彼らを束ねる頭にまで上り詰めた。
おそらく彼は、山賊の頭となったあと、安の大旦那にようやく自分の無事を知らせたのだろう。安潜は喜んだに違いない。どんな場所で、何をしていようとも、唯一生き残った家族だ。嬉しくないはずがない。兄に招かれて、安源はお忍びで興陽の町に下りてくるようになった。きっと彼は青青があのときの少女だと気づいたのだ。だからこそ近づいた。青青の正体を確認するために。
こう考えれば全ての符丁が合う。
「まさか。」
小さく呟く朱朱。
「きっと水原は鴬姫が趙家の娘だと知っている。それに、山狩りのために軍隊がこっちに向かっていることにも気づいたんだよ。だから、鴬姫を捕まえて……それで……。」
郭宝が低く呻いた。
「水原さんが鴬姫を囲い者にした、と言い出せば、みな、納得するだろう。そうすればいつまででも人質として手元に置いておける。」
短く息を呑むような悲鳴を上げて、燕燕が秋蘭の袖を掴む。
「大丈夫。燕燕。絶対大丈夫だから。」
ぐすり、と鼻をすすりあげて、燕燕が頷いた。
「はい。秋蘭お姉さま……。」
「お姉さま、じゃなくてごめんな。」
この期に及んで「姉」と呼ぶ燕燕に、ふと場違いな笑みがこぼれる。
「それにしても、この姿でよく俺だと分かったね。」
「だって……秋蘭お姉さまのにおいがしましたの。私、鼻がいいんです。」
そして燕燕は泣きそうな目のまま小さく微笑んだ。