□ 二四 □
玉花楼に戻ると、燕燕はすぐさま青青の着物を一揃え並べて見せた。
「これが水原様がくださったものです。」
淡い青に白い鳥の姿があしらってある、品の良い、それでいて目を引く。上等の品に違いない。手に取ると焚きこんだ香がふわりと薫った。
「選んだのも買ったのも、安の大旦那様だというお話ですが、水原様からの贈り物として玉花楼に届けていただいて。鴬お姉様は、安の大旦那様達がいらっしゃるときには、よくこれを着ておいでになりました。」
化粧道具と香とを部屋の奥から取り出して、小箱に収める。
そして、ぱっと顔を上げて、秋蘭を見上げた。
「これで一通りですわ。さぁ、まいりましょう。」
「え?」
朱朱の指示は、青青の服を一揃え借りてくること、だったはずだ。
「俺一人で運べるから、大丈夫だよ。」
しかし燕燕はきっぱりと首を横に振った。
「私もまいります。鴬お姉様の着付けをお手伝いするのは、私の仕事ですもの。」
借りていった着物の使い道を考えれば、確かに燕燕がいてくれた方が良いかもしれない。朱朱は右腕しか使えないし、白氏は身重。普段はまめまめしい蒼郎も、化粧の手伝いまでは巧くできないだろう。
――だけど……良いのかな。
せっかく玉花楼まで連れ戻した燕燕を再び町に連れて行くのは気が引けた。普段ならともかく今日は事情が事情なのだから。相手は山賊。どんな危険なことがあるかもしれない。ほとんど玉花楼から出たことのない世間知らずの燕燕には、あまりにも危ないように思われた。
――やっぱり断ろう。
口を開きかけた秋蘭の背後で、がたりと音がした。
「行っておいで。」
廊下から聞こえる声。
「旦那様!ありがとうございます!」
燕燕が深く頭を下げる。いつからそこにいたのだろう。郭の旦那が顔を覗かせた。
「良いんですか。その……。」
「この子は、私の娘みたいなもんだ。うちで生まれて、うちで育った。」
淡々とそれだけ呟いて、郭の旦那はふと微笑んだ。
「私の娘が、親友の娘を助けたいと望んだのなら、それを止める親はいないよ。」
丸い目をさらに丸く見開いて、燕燕が郭宝を見た。
「秋蘭。燕燕をよろしく頼む。」
郭宝の声に、燕燕はもう一度深く頭を下げた。
町の中は、比較的落ち着いていた。それでも、あちこちで、都からやってきた軍隊の話題が飛び交い続けている。山賊達が跋扈する山の方へと進軍を始めたとか、司令官はまだ興陽の町に留まっているとか、司令官はこの町の出身だとか、軍は当面このあたりに駐留して様子を見るつもりだとか、嘘と本当が入り交じった話が、人から人へと広がってゆく。
「燕燕は、俺が男だって気づいてた?」
燕燕と知られないように頭からすっぽりと衣を羽織った少女の手を引いて、秋蘭は興陽の町を早足に歩く。急ぎすぎないように、燕燕が転んだりしないように、精一杯気を遣いながら、それでも歩みは自然と速まる。燕燕も懸命についてきた。こくりと頷く少女に苦笑する。
「いつ、気づいた?」
「最初から、ですわ。」
少し息が上がっている。秋蘭は歩みをゆるめた。
「どうして?」
きちんと少女を演じている限り、今まで男だと見破られたことは数えるほどしかなかったのだ。蒼郎と、朱朱と、あと数名だけ。
燕燕は秋蘭の問いに軽く首をかしげた。
「どうして、でしょう?」
冬の陽射しは穏やかだが、雲が増えてきた。夕方、雪が降るかもしれない。今年一番の雪。
空を見上げた秋蘭に燕燕が教える。
「興陽の雪は積もりませんわ。」
「積もらない?」
「降っても溶けて消えるだけですの。」
つまりませんわ、と口の中で呟くのは、玉花楼から出ない少女の感慨だろう。旅暮らしをしていた秋蘭にとっては、積もらないでいてくれたらそれに越したことはない。
薬屋に戻ると、張録が出迎えた。
「おや。」
一緒に戻ってきた燕燕に目を細める。
「あの、玉花楼の旦那に許してもらって連れてきました。」
言い訳めいた口調で説明しようとした秋蘭を制するように、燕燕が口を開く。
「私、鴬お姉様の髪を結ったり、お化粧や着付けを手伝ったりできるんです。だから。」
追い返されては大変、と懸命に言葉を並べる燕燕を、張録は店の奥に招き入れる。
「うちの家内だけじゃ、お嬢様のお召し替えは無理だろうからね。助かるよ。」
きっと彼らは予想していたのだろう。燕燕が戻ってくることも、これから始まることも。
燕燕は朱朱の部屋に案内され、そのまま、戸が閉ざされた。扉の向こうからは、朱朱と燕燕、白氏と小さな張芳の張り切った声が聞こえてくる。
「風来さんは?」
表面上は薬屋として、普通の商いを続けている。店先に立つ蒼郎にそっと尋ねれば、蒼郎がちらりと視線を通りの向こうに向けた。
「安家に水原がいるかどうか、探りに行っている。」
「そっか。」
水原が青青を連れ去ったのだとしたら、連れ去った先は、山賊達の砦か、安家の屋敷のいずれかだろう。となれば、水原のいるところに青青がいる可能性が高い、ということかもしれない。
灰色の雲が空を覆っている。昼間だというのに、気温がぐんと下がってきた。
「ごめんください。」
客の気配に振り返る。
「梁の若旦那!」
秋蘭の声を聞きつけて、店の奥から張録が顔を出す。
「どうなさいました。旦那様のご加減が?」
「いえ、父は元気にしております。」
そう応じる梁雲の声には、いつもの朗らかさはかけらもなく、滑稽なほどに緊張してこわばっていた。
「おじゃましてよろしいですか。」
買い物客であれば、店の奥に入ることはない。店先で話せない話がある、ということだろう。張録は頷いて、奥へと導き入れた。
「玉花楼さんに、何があったんです。」
勧められた椅子に腰を下ろすと同時に問う梁雲に、張録は眉を寄せた。
「どういう、意味です?」
秋蘭は店番を続けながら、奥の会話に耳を澄ます。隣に立って帳簿を繰る蒼郎も、聞き耳を立てている。
「玉花楼さんに商いに行ったんです。そうしたら本日休業という看板が掛かっている。そんなこと、滅多にございません。とはいえ、鴬姫から頼まれていた品物をお持ちしましたので、上げていただこうと思いましたが、鴬姫も燕燕さんも今日はお目にかかれないと。」
饒舌なのはいつものことである。だが、今日の梁雲は気迫が違った。張録は黙って聞いている。
「こちらが玉花楼さんと特別な関係であることくらいは、私にだって分かります。今日、玉花楼さんに何かあったことも。」
店の奥を秋蘭がちらりと振り返る。梁雲の真剣な目が、まっすぐに張録を見据えていた。
「教えてください。鴬姫に何があったんですか。」
蒼郎がぱたりと帳簿を閉じて、店の奥へと向かった。話に加わるためであろう。張録は表面上は「真闇の蛍」とは関わりがない。もし、薬屋である張録に不都合なことがあれば、それを肩代わりするのが蒼郎の役割である。秋蘭は一人店番として店頭に立ちながら、背後の会話に懸命に耳を澄ます。
「それを聞いて、どうするんですか。」
ようやく張録が慎重に口を開く。憮然とした表情で、梁雲が応じた。
「鴬姫は軍隊に徴用されたのではないのですか。」
聞いたことのないような低い声。
秋蘭はぞくっとした。
――徴用、か。
旅芸人の一座には、たまたま行き会った兵士達に無理矢理連れて行かれて、そのまま帰ってこなくなった少女がいた。気に入られて、軍属の歌姫として従軍させられたのだと言う。
もちろん、陸善史の軍隊がそんなことをするはずがないが、そうでなければ、これはありえない話ではない。青青は有名な芸妓だから、指名されて連れて行かれることもないわけではないだろう。
答えない張録に焦れたように、梁雲が声を荒らげた。
「どなたも助けにいらっしゃらないのなら、私が出向きますよ。鴬姫は戦場で歌うような方ではない。あの方はそんなことを望んでおられるはずがない。山賊のいるような場所に、あの方を連れて行かせる訳にはいかない。私が連れ戻しにまいります。」
皇帝の軍に意見しに行くなんて、狂気の沙汰である。徴用などされたなら、泣き寝入りするほかない。それくらい、子供だって知っていること。
ちらり、と空から白いものが降ってきた。
――雪だ。
肌にしんしんと冷えが浸みてくる。
「若旦那!」
店の奥から青青の声が響いた。
――青青?
びっくりして振り返れば、そこには青青の姿があった。いや、青青の着物を着込み、青青のように化粧をした朱朱の姿があった。通りからは見えないように柱の陰に立っているが、覗き込んだ秋蘭にはどう見ても青青のようにしか見えない。やはり双子は双子。同じように身ごしらえをすれば、おのずと似るものだ。しゃべり方も、青青を意識したのだろう、普段よりもずっと人懐っこい。
だが、梁雲はしばらく黙って朱朱を見据えた後、低く問うた。
「あなたは、どなたです?」
そこにいるのは、どう見ても、青青だった。
「やはり、分かりますか。」
小さな笑みを喉の奥に隠すように、朱朱。
「初めまして。鴬の双子の姉、朱朱と申します。」
声音だけは普段の朱朱に戻って、梁雲に頭を下げる。
「妹は軍に連れて行かれたのではありません。」
「ならばいったい……。」
「ご心配には及びません。必ず連れ戻します。」
梁雲が静かに立ち上がった。
「私にできることはありませんか。」
彼が本気であることは明白であった。皇帝の軍隊から鴬姫を取り返しに行くと宣言した男である。
鴬姫のためなら、命など惜しくない。
そう宣言した男である。
ただのお得意さんの芸妓というだけなら、こんな言葉は口にするはずもない。
蒼郎が目を伏せた。
囚われたのが朱朱であれば、蒼郎も同じ言葉を口にしたのだろうか。
「そのお気持ちだけで十分です。妹はさぞや喜ぶでしょう。」
いつの間にか雪が本降りになってきた。地に落ちては、すっと消える雪。
秋蘭は店頭の売り物を急いで奥に運び込むと、奥に声を掛けた。
「若旦那!雪降り出しましたけど、店、大丈夫ですか。」
はっとした様子で外に目をやる梁雲。通りはすっかり人影もなくなっている。
「俺、店の片づけに行きましょうか?」
そこへ、全身の雪を払いながら、風来が飛び込んでくる。
「や、若旦那。ここにおられましたかい。」
全く人通りのない町。こうなれば、もう、人目を気にすることもない。風来は蒼郎に手渡された手ぬぐいで、肩をぬぐいつつ、店の奥の朱朱に目を見開いた。
「主。そいつはまた。」
「見違えたか。」
「へい。」
照れくさそうに頭をかいてから、風来は梁雲に向き直る。
「さっき店の前、通りがかりましたとき、雪が降り出したもんで、旦那と一緒に店、閉じてきちまいましたが、大丈夫でやしたかね。」
「あ、ありがとうございます。結構です。」
風来は得体の知れない占い師である。梁雲とも面識があるし、玉花楼に出入りしていることも、真闇の蛍とつながりがあるのも知っていた。だが、そんな辻占いの男が、どうして張録の薬屋に家族のように入り込んでくるのか。分かりかねた様子で、梁雲はつくづくと風来を見据えた。そして、何かを飲み込んだ様子で朱朱に目をやる。
「あなたが、真闇の蛍、というわけですか。」
朱朱の肩の力がふわりと抜ける。
――梁の若旦那は何も知らないような顔をして、本当に何でもお見通しなんだな。
――だから、青青はあこがれたんだろうか。何も知らない顔をして、全部受け止めてくれるこの人に。
朱朱は穏やかな笑みを浮かべた。その笑みは肯定である。梁雲は黙って瞑目した。
「首尾はどうだった。」
「へい。少なくとも安の大旦那と水原は、安家にいるようで。この雪なら、よもや山に戻ろうとはしないでしょう。しかも、興陽のあたりには陸先生の軍隊が目を光らせている。出ていけやしやせんぜ。」
積もるような雪ではない。だが、しんしんと大地を冷やす。
「遅くなりました。」
噂をすれば何とやら。陸善史が傘の雪を落としながら奥を覗いた。
「ご指示通り、全て手配がすんでおります。」
朱朱に頭を下げる。
「では行くか。」
低く呟く朱朱の声。
雪は降り続いている。
まだ夕刻と呼ぶには早い時間であるのに、外はすっかり薄暗くなっていた。