□ 二五 □


 雪の降り止まぬ午後。
 積もらないとは言いながら、隣家の屋根をうっすらと白く染める程度には、本格的な雪となった。
「都合が良いな。」
 普段なら使わないような艶やかなかんざしを挿しながら、朱朱が中庭の空を見上げる。命じられて、秋蘭も女物の着物に着替え、身支度を整える。燕燕が化粧を手伝ってくれるのが、とてもくすぐったい。
「どうせ仮面を付けるんだから。」
 そう言って笑う朱朱に、燕燕も泣きはらした目でにこりと微笑む。
「それでもきちんとなさった方が良いですわ。秋蘭お姉さまはお綺麗なんですから。」
 あわせの上着の懐に秋蘭はそっと笛を忍ばせた。屋敷から持ち出すのは初めてのことである。晩春の夜、蒼郎に拾われたあのときから、ずっと部屋にしまいこんであった、大切な、お守り代わりの笛。
 屋敷を出るときに、ひと悶着あった。燕燕が一緒に行くと言い張ったのである。だが、梁雲が、自分も残るのだから、と説得してくれたおかげでその場は一段落した。
 安家に向かう者は、三組。
 秋蘭と朱朱と風来の三人が一組。
 小梅を連れた陸善史と、数名の兵卒で一組。
 最後の一組、蒼郎は一足先に出発していた。
 本降りになった雪の中、少しずつ間を空けて歩く。
 艶やかな装いを黒の上着ですっぽりと覆えば、どこの誰とも分からない。だが、雪の中であれば、むしろそれが自然である。
「もしかしたら積もるかもしれやせんね。」
 空を見上げて、低く風来が呟く。確かにずいぶんと強い降りである。
「積もろうが積もるまいが、今夜は張録のところに泊まるがいい。」
 頭からかぶった上着のせいで表情は見えないが、朱朱がいささか強い口調で言う。
「いえ、積もったって大したことじゃねぇすから。」
 先ほどの自分の言葉をあっさり打ち消して、風来がそれきり黙った。
 雪が黒い衣にまだらに積もる。
「自分を責めるのは、もうやめてくれ。」
 しばらくの沈黙のあと、ため息のように朱朱。
「父上だって風来に感謝しているはずだ。風来は私達の命の恩人なのだから。」
「ですが。」
 風来はちらりと秋蘭に目をやった。秋蘭も厚手の上着を頭から羽織っている。
「わしがあのとき旦那様との約束を破らなきゃ、こんなことにはなってなかったはずですぜ。お二人が山賊の砦で震えていらしたときに、わしは酒かっ食らって屋根のあるところでのうのうと寝ていた。」
 わしは自分が許せねぇんでさ。
 風来が手に息を吹きかける。
 興陽の町はしんしんと冷えてゆく。
 風来はもともと流れの博徒である。食うに困らないだけの銭があれば、博打など打たないと啖呵を切ったのを真に受けて、人の良い趙章が娘達の守り役に雇ったと聞く。
「お嬢様方をお預かりしたとき、わしはもう博打はしないってお約束した。それを裏切った。気の迷いなんてもんじゃねぇ。あの世間知らずの旦那様になんか、気取られるはずもねぇって高をくくっていた。しかも旦那様に知られたときに、素直に許しを請うこともできず、こともあろうかお屋敷を飛び出していっちまった。」
 たとえ、自分がいたとしても、山賊を追い払うことなどできなかっただろう。だが、お嬢様方二人を連れて逃げ出すくらいの才覚はあっただろうし、それこそが自分に与えられた仕事だったはずだ。
 あのとき、素直に謝って許しを請うことができたなら。
 せめて屋敷の片隅にしおらしく潜んでいたのなら。
 そう思うと、風来はたまらない気持ちになる。心から詫びたなら、趙章は必ず許したにちがいないのだ。なぜ、また博打を打ったのだ、と問いただす趙章の目、出て行くと告げた瞬間の趙章の表情。風来は今でもはっきりと覚えている。今にして思えば、それは最後の対話、最後に見た表情。
「わしが食らうべき天罰が、なぜか旦那様やお嬢様方に行っちまった。」
 だから、わしは自分が許せねぇ。だから、二度と、屋根のある場所で眠ることはねぇ。
 朱朱がため息をついた。
「見えてきましたぜ。あの屋敷でさ。」
 話題をそらすように風来が目で示す。
 豪華とは見えないが、広くがっしりとした門構えの屋敷であった。安家の材木問屋は屋敷の横にあるこれもまた大きな建物であった。雪のせいか、人の気配はない。
「あちらで。」
 裏手の通用口から入れば、すぐに中庭に出る。葉の落ちきった季節であるとはいえ、木々や奇岩があしらわれた庭は屋敷の外からは覗きようがない。中庭に面しているのは、母屋の奥であり、品の良い離れが木立の向こうに二つほど見えている。母屋の死角となる木陰に身を潜めて朱朱は空を見上げた。
「これだけ降っていれば、多少のことでは声は響くまい。」
 雪は音を消してしまう。確かにこの天気であれば、大騒ぎをしたところで、近所に気づかれることはないだろう。
「とにかく屋敷に聞こえるように歌わないとね。」
 ――この雪ではなかなか大変そうだな。
 秋蘭は懐に潜ませた笛を指で撫でる。
「……ああ。」
 まさか、青青の双子の姉が乗り込んでくるとは安家の者達は思うまい。庭に青青そっくりの者がいれば、捕らえていた青青が逃げ出したのかと、慌てて確認しにいくにちがいない。天井裏には蒼郎が潜んでいる。青青の居場所を突き止めて蒼郎が犬笛を吹く。屋敷の外には小梅と数名の兵士を連れた陸善史が控えている。
 秋蘭はいつ言い出そうかと迷っていた言葉を口にする。
「俺が笛、吹こうか?」
 懐から笛を取り出した秋蘭に、少し驚いた表情で朱朱が振り返った。
「吹けるのか?」
「うん。一度聞いた曲はたいがい吹けるよ。あの歌なら、何度も聞いたから。」
 自信に満ちた言葉に、朱朱が苦笑した。
「秋蘭。お前は何者なんだ。」
「あんたの女中だろ。」
 母屋の中に人の動く気配があった。まだ夕刻までは時間があるのに、どんどん暗くなってゆく空。屋敷内にふわりと灯りが灯った。
「違いない。」
 ――今はそれで良い。
「だけど今度話すよ。俺のこともいろいろ。」
 ――今日、無事に帰れたら。きっと。
「ああ。楽しみにしている。」
 ――家族だから。
 何となく今まで言いそびれていた言葉が、何でもなく口にできそうな気がした。
 屋敷の外で犬が吠える。
 小梅の声だった。
「陸善史の準備も整ったようだな。」
 小梅が吠えるのが開始の合図。
「始めよう。」
 黒い上着を脱ぐと、朱朱はすっと背筋を伸ばした。秋蘭も上着を脱いで、笛を撫でる。
「きれいな笛だな。」
 ちらりと視線を走らせた朱朱に、秋蘭が頷いた。
「音もきれいだよ。」
 庭の中程に築山があり、屋敷の母屋からも離れからもよく見える。まっすぐに母屋を見据えて、築山に朱朱は立った。
 その背後に控えるように秋蘭は岩に腰を下ろす。
 雪が降り続ける空。
 かじかんだ指先を無理に動かして温めると、笛をそっと口に当てた。
 途端に、寒さが消える。
 世界に笛と自分だけが残る。
 笛を吹くのなんて、いつ以来だろう。
 半年ぶり、くらいだろうか。
 巧く吹けるかどうかなど、全く不安に思わなかった。体の一部が戻ってきたような感覚に、秋蘭は小さく息を吸い込んだ。
 視線の先で朱朱が頷く。
 一度も聞いたことのない秋蘭の笛を信じてくれた朱朱。
 大丈夫。
 燕燕と同じように吹けるから。燕燕の癖まで全部なぞって、朱朱にあわせて吹けるから。
 心臓の鼓動にあわせて、世界の鼓動にあわせて、笛は秋蘭が望んだとおりの音を、力強く奏で始めた。

   辺境の守護者よ
   寒く暗い砂漠 眠れぬ夜
   私の縫ったこの衣を
   受け取ってくださった優しき戦人よ
   糸に託したのはやるせない想い
   綿に込めたのは深い深い気持ち
   今生の幸せはもう遠い幻
   せめて来世 あなたに逢いたい

 朱朱の歌は掠れることなく朗々と響く。柔らかい声。
 青青の歌と同じように、燕燕の笛と同じように。
 いかに雪が強くとも、屋敷のうちにその音色が届かないはずがなかった。あわただしく人影が動く。誰に指示を出す声が聞こえ、部屋を駆け出す足音がかすかに聞こえた。
 そして裏口の戸が開き、他でもない安の大旦那が姿を見せる。
「……鴬姫。」
 朱朱は歌を止めない。まっすぐに安潜を見据えたまま、柔らかく歌い続ける。真っ黒な髪に雪が積もる。
「どういうことだ。」
 さすがに貫禄がある。がっしりした体つきと落ち着いた声音。それでも動揺は隠しきれない。有徳者然とした安潜は、しばらく朱朱を眺めていたが扉の奥を指さした。
「……入りなさい。話はそれからにしましょう。」
 一曲はそれほど長くはない。丁寧に最後まで歌い終えると、朱朱は口を閉ざした。秋蘭も伴奏を止める。
 ――屋敷の中に入っては袋のネズミ。危険すぎる。
 だが、朱朱は迷った様子もなかった。
「いいでしょう。」
 秋蘭についてくるように目で促して、朱朱は屋敷に足を踏み入れた。中庭に面した部屋はそう広くはないが、家族がくつろぐための居間であるらしい。部屋は十分に温められ、灯りを据えられた小さな卓には酒の支度があった。
 部屋の隅に立つ男に見覚えがある。
 ――水原だ。
 安潜が連れてきた招かれざる客に、一瞬猛禽のような鋭い視線を向け、水原は驚いたように呟いた。
「……生きていたのか。」
 ――生きていたのかって……?
 ――まさか、青青はもう……。
 愕然とする秋蘭を軽く目で制す朱朱。
 背後で安潜が戸を閉ざしたのが分かった。部屋の中には召使いらしい男が一人。そして安潜と水原、朱朱と秋蘭の五人だけである。閉じこめられたにしても、安潜を突き飛ばして逃げれば何とかなりそうに思われた。
「せっかく逃げ出したものをどうして帰ってきたのです。」
 裏口を守るように立って、安潜が尋ねる。
「違いますよ。旦那。この子は鴬姫じゃない。」
 場違いに陽気な調子で応じたのは、水原だった。
「趙家の双子、か。生きていてくれたとは。」
 そして微笑んだ。
「あんたの腕を斬った男は、生涯、子供を殺してしまったと悔いていたよ。あんたには関係のない話だろうけど。あんたが生きていてくれたなら、あの男も少しは救われるな。」
 その朗らかな声は、どこかしら屈折した響きを含んでいたものの、心からの喜びを感じさせる。だが、それを聞く朱朱の目には緊張がみなぎっている。
 ――やっぱり水原は山賊だったんだ。朱朱達が囚われたとき、砦にいたんだ。だから……朱朱に気づいた。ここにいるのが青青ではなく、朱朱だと。
「源!」
 慌てたように水原の言葉を遮る安潜。
 いくら圧倒的に有利な立場であろうとも、自ら山賊であると白状する必要はない。安潜の表情を見て、水原は穏やかに黙った。
 ――源って、安潜の弟の名前だ。
「私が誰か分かっているなら話は早い。妹を返してもらおう。」
 朱朱の少し掠れた低い声。
「そうはいきません。申し訳ないですが、姉妹揃って大人しくしていただきますよ。」
 安潜は山狩りを行わせるわけにはいかないのだ。山賊達を一網打尽にされては、安家の商売も成り立たなくなるし、安家が山賊達とつながっていたことが糾弾されれば大変なことである。
 ――それに、山賊の頭は死罪。
 朱朱を穏やかに見据える水原が薄く笑みを浮かべた。場違いなまでに落ち着きはらって振舞う水原に、秋蘭は背筋がぞっとするものを感じる。
 ――水原は捕らえられたら死罪にされる。
 安潜からすれば、幼いころ山賊に捕らえられた弟が、山賊達の中を生き抜いてようやく巡り会えた弟が、生き抜いたがために死罪にされるのだ。決して陸善史の軍隊に好きにさせるわけにはいかなかった。
 突如、廊下を怒号が響き渡る。叫び声。何かがぶつかり合う音。
 蒼郎達が動き出したのだ。たぶん、陸善史の兵士達も。
 喧噪は秋蘭のいる居間にどんどん近づいてくる。
「そろそろ猿芝居は終わりにしようか。」
 壁にもたれかかって立っていた水原が、恐ろしく緩慢な仕草で身を起こす。卓上に無造作に置かれていた一振りの刀に手を伸ばすと、しゃり、と冷たい金属音とともに抜きはなった。
「なかなか、楽しませてもらったよ。」
 ずっしりとした刀身が卓上の灯りに鈍く光っていた。



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