□ 四 □
夕食の片づけを終えると、秋蘭の仕事は終わりである。あとは部屋に戻って眠るだけ。昼間は蒼郎とともに薬屋を手伝い、仕事の合間には小さい張芳とともに朱朱から文字を習う。そんな生活を始めてもう十日ほど経つだろうか。文字を覚えることが、今、秋蘭には楽しくてしかたがない。部屋に戻ると懐から帳簿の裏紙を綴じた帳面引っ張り出す。そこには朱朱の流麗な手本と、それを懸命に真似する自分の文字。
――今日は何文字覚えたっけな。
薄暗い中、そっと今日見返すと、自ずから口元がほころぶのを感じるのだ。
男の身なりにもずいぶん慣れてきた。一人できちんと男の髪に結い上げられるようにもなった。店頭では「秋生」という名前を使っているが、それにもだんだんなじんできた。
――さあ、部屋に戻ろうっと。
台所を片づけて、白氏に夜の挨拶を済ませ、秋蘭は自分の部屋に足を向けた。
「ずいぶん様になってきたな。」
張録がぽんと秋蘭の頭を撫でて、二階に向かう階段を上がってゆく。男の姿をするのが様になってきたのか、この家で働くことに慣れてきたということなのか、分からない。だが、少なくとも「女中」としてのつとめはきちんと果たしているのではないかと秋蘭は思っている。「女中」も悪くない。いや。悪くないどころか、とても居心地が良い。店の手伝いも好きだけど、家事の手伝いはもっと楽しい。
部屋の戸を開ければ誰の姿もない。同室の蒼郎が部屋にいたことなど、一度もなかった。
――それはそれで気楽で良いのだけれど。
少し大人のふりをして、苦笑いなど浮かべてみながら、秋蘭は寝床に身を投げた。ここでの仕事は楽しいし、居心地は良い。だけれども、やっぱり一日働けばくたびれるのは当然のこと。
「起きているか?」
寝ころんだまま、今日学んだ文字を眺めていた秋蘭の頭上から蒼郎の声が降ってくる。文字を眺めていたつもりで、いつの間にか眠っていたらしい。
「ん。起きてる。」
身を起こせば、蒼郎はしばらく秋蘭の顔を覗き込んでいたが、無表情に言い放った。
「眠いなら寝ろ。」
そのつっけんどんな言葉が蒼郎なりの心遣いであることを秋蘭は知っている。だが、無口な蒼郎がわざわざ声を掛けてくるのだから、それ相応の用があろうことも見当が付く。
「何だよ。起こしたんなら用を言えよ。」
帳面を寝床に置き、目をこすりながら尋ねる。
「……主の仕事だ。」
「……仕事……?」
だんだん頭が覚醒してくる。
朱朱の仕事、と言えば、真闇の蛍。妖術使いのまねごとというあれだろう。
朱朱は昼の間、張芳の面倒を見たり、本を読んだりして過ごしている。時には店の奥で帳簿を付けていたりもするが、確かに毎日あれでは退屈もするだろうなと秋蘭は少し同情していた。あの腕のせいなんだろうか。朱朱は店には出ない。誰にも見えないところでこっそりと過ごしている。店の人たちも、店先では朱朱などいないかのように振る舞っていた。朱朱の話題は話さない。小さい張芳でさえ、朱朱の名を出しはしない。店の奥では朱朱の後を付いて歩くほど、朱朱に懐いているというのに。
「う、ん。」
大きく伸びをして秋蘭は立ち上がる。
――朱朱の退屈しのぎなら、付き合ってやろう。雇われるときに、夜の仕事も手伝うって約束したんだし。
蒼郎は黙って部屋を出て行く。慌てて跡を追えば、蒼郎の姿はすでになく、朱朱の部屋の戸が開いていた。
「起きていたか。秋蘭。」
団扇を片手に朱朱が笑う。部屋には朱朱と蒼郎のほか、見知らぬ男が部屋の隅にあぐらを組んで座っていた。猫背でぼろぼろの汚らしい衣をまとうその男は、顔も真っ黒に汚れており、とうていまともな生活をしているようには見えない。だが、平然として部屋にくつろいで座り、彼は鋭い眼差しで秋蘭を一瞥した。
「紹介しよう。風来。この少年が私の女中、秋蘭だ。」
朱朱の言葉に風来と呼ばれた男はにやりと笑った。
「なるほど。蒼郎の拾い者っすか。」
――座長と同じくらいの年かな。
声を聞いて、秋蘭はそう見当した。どこか貫禄のある男だった。風来はじっくりと秋蘭の顔を観察してから、ぼさぼさの髪をかき上げる。
「ワシは風来。見ての通りの小汚いよぼよぼの爺だ。占いのまねごとを生業にしておる。」
風来と目があった。
――違う。この人、よぼよぼの爺なんかじゃない。
ぼろから覗く腕は太く、筋肉質である。わざわざ汚い風体にしてごまかしているが、実際はたくましく屈強であるようにも見えた。
「で、さっきの話の続きっすけど。」
風来が視線を朱朱に戻す。
「特に裏はなさそうだ、ということか。」
「ええ。たぶんネズミか何かでしょう。主がおいでになるほどの仕事でもござんせんが。」
団扇がふわりと揺れる。ゆっくりと風来の顔を見つめ、思案する朱朱。
「いや、行こう。」
そしてちらりと秋蘭に目をやった。
「秋蘭。今回の仕事は単純だ。楊の家で夜な夜な妖しげな音がする。屋根裏に何か妖しげなものが住み着いているのではないかと楊家の者たちは怯えているゆえ、様子を見に行く。それだけの仕事だ。一緒に行くか?」
風来も秋蘭を見つめている。なるほど。真闇の蛍に用がある人は、流れの占い師風来に声を掛けることになっているのだろう。
秋蘭は頷いた。
「行く。」
おそらく、大した仕事ではないのだろう。屋根裏に住んでいるのがネズミだとしたら、その退治は妖術使いの出る幕ではない。
「ならば着替えて来い。真闇の蛍の侍女は秋生ではなく、秋蘭だからな。」
薬屋の手伝いが真闇の蛍と一緒にいたらおかしいだろう。秋蘭は頷いて部屋に戻り、十日ぶりに女物の服を引っ張り出す。十日しか経っていないのに、妙に懐かしい。興陽での日々は旅芸人の暮らしとはあまりにもかけ離れているのだ。秋蘭は服の中に大事に包み込んでいた笛を懐に押し込みかけて、思いとどまった。
――どこかに落としてきたりしたら大変だ。
笛を手習いの帳面から一枚紙を剥いで包み込み、部屋の隅にそっと置く。
――これで良し、と。
朱朱の部屋に戻ると、黒ずくめの蒼郎が待ち受けていた。十日前に出会ったときの服装だった。痩身で無表情な蒼郎が真っ黒な服を着込んでかしづいていれば、初めて出会う人はそれだけで朱朱に畏怖の念を抱くだろう。それくらい、黒ずくめの蒼郎には不思議な雰囲気があった。朱朱も黒い衣に着替え、黒い肩掛けをまとって待ち受けている。秋蘭の衣は濃い青。
「ほぉ。見違える。」
風来がにやにやと秋蘭を見た。
「きれいなもんだ。」
いつもの癖で秋蘭は紅をさしている。取るものも取りあえず一座から逃げ出したはずなのに、化粧道具はきちんと懐の中に押し込んであったのだ。朱朱よりも化粧が濃いのを風来は揶揄した。
「だがあいにくとそのきれいなお顔は隠さなきゃいけねぇんだ。秋蘭お嬢ちゃん。」
朱朱の眼前にひざまずく風来。そっと袖の中から何かを差し出した。
「主。」
風来から小さな包みを受け取り、朱朱はそれを開く。姿を見せたのは漆黒の仮面。銀糸で蘭の縫い取りがあり、品良く作られたものであることが薄闇の中でも見て取れた。
「相変わらず器用なものだな。」
右手でそれを広げ、朱朱は目を細める。
「秋蘭。これがお前の仮面だ。」
突きつけられた仮面を両手で受け取る。見事な刺繍。秋蘭の名にちなんで蘭の縫い取りがしてあるのだろう。わざわざ、誰かが秋蘭のために作ってくれた、ということか。
「大したものだろう。風来の刺繍の腕は。」
見とれていた秋蘭は、朱朱の言葉にきょとんとして顔を上げる。
――風来さんが作った……?
風来はにやりと笑って、秋蘭を見返した。
「冗談だ。」
指先で団扇を拾い上げ、朱朱が笑う。
「それは燕燕が作ったものだ。」
「燕燕?」
「そのうち会わせてやるよ。楽しみにしてな。」
団扇をくるりと回し、朱朱は歌うように告げる。低くかすれた、しかしどこか柔らかい声。
「では行くか。」
朱朱の背後に回った蒼郎が、そっと黒い仮面を朱朱にまとわせる。額に朱色の流光の刺繍が施された、目元までを覆う小さな仮面。そして蒼郎も無地の黒い布を手に取る。大判の布で口元から眼の下までをすっぽりと覆った。
秋蘭も与えられた仮面を顔に当てた。目元までを覆う黒い布に不思議な安堵を覚える。
自分ではない何かになる瞬間。
ふと、旅芸人としての日々がそれほど遠ざかっていないことを、秋蘭は感じた。
これもまた新しい興陽での日々。
――こういうのも悪くない、かな。
廊下を滑るように移動し、音もなく風来が木戸を開く。周囲を見回す。通りが無人であることを確認したのだろう。手招きをすると、朱朱が軽やかな足取りで木戸をくぐった。
――朱朱が家を出るとこ、初めて見たな。
理由は分からない。だが、秋蘭は胸が締め付けられる感覚に襲われて、一瞬だけぎゅっと目を伏せた。