□ 五 □
興陽の町は興江という川沿いにある。興江の支流が町の中に流れ込んで、人々の生活に深く関わっていた。自然、町を横切ろうとすれば橋を渡ることとなる。夜の橋は人の気配もなく、ただ静かに横たわっている。
「ちょいと待っていてくださいね。」
町の中心に通じる小さな橋に通りがかったとき、風来はそう言い残して橋のたもとに消えた。真っ暗な中に、川面のきらめきがうっすらと浮かぶ。さぁさぁと穏やかな音。その向こうに、かすかな笛の音が聞こえた。
静まりかえった夜の町で、遠く聞こえる笛の音。
秋蘭は闇に目をこらして聞き入った。いくら目をこらしたところで笛の主の姿は見えるわけはないのだけれども。
笛に合わせて、透き通った若い女の歌声も聞こえてくる。
――巧いな。
素直にそう思った。笛も悪くないけど、歌が巧い。旅芸人の一座の中でも、秋蘭の笛の腕は一歩抜きんでていたし、耳も確かだった。秋蘭が巧いと評する者は間違いなく巧い。それは一座の誰もが認める事実である。
「玉花楼。」
朱朱の声。
「え?」
現実に引き戻されて振り返った秋蘭に、朱朱が改めて告げる。
「この近くに玉花楼という妓楼がある。」
――そうか。妓楼の宴の音楽か。
妓女の楽なら巧いのも道理だ。こんな夜更けに聞こえてくる理由も分かった。
――だけど。
「この声、聞き覚えがある、気がする。」
誰の声かは思い出せない。だが、この柔らかい歌声には聞き覚えがあった。知っている声だ、と思う。
「そうだ。秋蘭。」
秋蘭のつぶやきに気付いてか、気づかずにか。朱朱がふと思い出したように口を開いた。
「蛍は鳴かない虫。私も仕事中は声を出さない。良いね。」
そして額を覆う仮面をそっと右手の指先でなぞった。
秋蘭や蒼郎が顔を隠さなくてはならない理由はよく分かる。張の薬屋で働いているのだから、顔を見られたら、どこの誰であるか知られてしまうかもしれないからだ。だが、朱朱は店先に出てこない。それでも顔を隠し、声を伏せていなくてはならないのか。不思議な感じがした。どうもすっきりしない。朱朱と彼女を取り巻く人々は、誰も彼もどこか不思議だった。もちろん、旅芸人時代も素性の知れない人にはたくさん出会ったけれど、彼らとは何かが違う。
がさりと音がして、橋脚伝いに風来が戻ってきた。その身軽な動きからは、ぼろをまとうよぼよぼの爺などとは到底呼べないようなたくましさが漂う。
「ネズミを追うならうちの居候に手伝ってもらった方が良いと思いましてね。」
風来の腕の中には痩せ猫が一匹。
「にゃーう。」
風来の腕に顔をすりつけるように収まっていた。
「居候、か。」
嬉しそうに朱朱が手を伸ばす。蒼郎が少し眉を寄せたのが分かった。
――そういえば朱朱は猫が飼いたかったんだっけ。蒼郎が拾ってきたのは小梅だけど。
朱朱の指先の匂いを嗅いでから、猫は素直に撫でられた。
「普段はなかなか人に懐かないヤツなんすけどね。」
言い訳がましく告げる風来に、朱朱が穏やかに微笑んだ。
「さぁ、行こうか。」
楊家は裏通りに面していた。猫を抱えたまま、いつの間にか風来はふらりとどこかへ消えている。だが、蒼郎たちはそれを気にかける様子もなく戸を叩く。短い沈黙の後、細い女性の声が応じる。
「真闇の蛍にご用とか。」
蒼郎が誰何の声に答えるともなく答えれば、そっと扉が開いた。中からおどおどとした様子で年若い女性が顔を覗かせる。彼女の背後には三人の小さい子供達。
「風来から聞きました。夜な夜な、物音がすると。」
蒼郎の言葉に女性は頷いて、三人を招き入れる。決して広くはない家の中、子供達は慌てて目立たない壁際に寄り集まって息を潜める。
卓上には一つだけ灯りがともされていた。その光に照らされているのは、顔料と筆。そして無地の団扇。どうやらこの女性は、こんなに夜が更けるまで団扇の絵付けの内職をしてたらしい。
――夫はいないのかな。
家の中には三人の子供と彼女の気配しかない。夫は留守か、あるいは亡くなったか。秋蘭はそれ以上いろいろ考えるのをやめて、目を伏せた。
「あやかしの音がするのはどの辺りですか。」
蒼郎の問いかけに女性はそっと指で天井の片隅を指し示す。ゆっくりと天井を見上げ、朱朱は頷いた。懐から薄い朱色に染め上げた紙を取り出して卓上に置き、団扇の絵付け用の筆を手にした。
「お借りしてよろしいですか。」
朱朱に代わって蒼郎が訊ねれば、女性は一も二もなく頷いた。薬屋の奥で見かけたときでさえ、朱朱には「主」という名にふさわしい貫禄があった。だが、仮面を身につけ、妖術使いを演じる朱朱には、怖ろしいほどの神々しさがあった。これでは他郷にまで「真闇の蛍」の噂が広まるのも当然のことかもしれない。
筆が走る。真っ赤な太い線が薄紅の紙を縦横に染める。
普段、書き物をするとき、朱朱は大変に細く繊細な文字を好んで書いていた。だが、今、目の前に描き出される線は、太く、力が漲っていて、別人のようである。
「……あ。」
女性が目を見張る。小さな紙切れがいつの間にかお札に様変わりしている。朱朱はどこかもったいぶった動きで、札になにやら呪いを施すような仕草をした後、ことさらゆっくりと札を摘み上げて、物音がすると言われていた辺りの壁に貼り付けた。そしてまた何か呪いを施すように指で壁をなぞる。
そのとき、頭上でバタバタと激しい音がした。一瞬、ぎょっとして立ちすくんだ秋蘭はすぐに風来の猫の仕業だと気付いた。おそらくは風来に天井裏に押し込まれた猫が、ネズミを見つけ出して追い回しているのだろう。
だが、女性と子供達は心底びっくりした様子で天井を見上げている。いつものネズミの足音に比べ、猫が走り回る音ははるかに激しく響くはずである。天井のあちこちを駆け回った挙げ句、突如、その音はぱたりと止む。
「出て行ったようです。」
厳かに蒼郎が告げると、強ばったように動けなくなっていた女性が、慌てて息を吸い込んだ。
「は、はい。ありがとうございました。」
子供達がぺたりと床に座り込む。
――よほど怖かったんだろうな。
ネズミだと分かっていれば怖くない。だが、何だか分からない物音が夜な夜な聞こえてきたら、不安でいっぱいになってしまうに違いない。きっと思いあまって風来に相談したのだ。
――良かった。
「真闇の蛍」は暇つぶしだと朱朱は言っていた。だけど、朱朱の退屈しのぎのおかげできっと彼らの生活には平和が戻ってきたに違いない。
朱朱は口元だけで女性にほほえみかけると、静かに扉に向かった。
「お待ち下さい。蛍様!」
女性は少女にすがるように扉の前に立つ。
「まだお礼をいたしておりません。」
懐に手を差し入れ、おそらくは金を入れてあるのだろう、布の包みを取り出す。あらかじめ用意していた謝金に違いない。押しつけるように差し出されたそれを、朱朱は静かに見やった。そして首を横に振る。
「礼には及びません。これくらい、仕事のうちに入らぬのです。」
蒼郎が告げる。女性は狼狽えたように蒼郎と朱朱を見比べた。
「ですが……それではあまりにも……。」
壁際に座り込んでいた子供達が、いつの間にか秋蘭のそばに来て、まじまじと秋蘭を見上げている。
――そうか。俺もこの子達から見たら、「真闇の蛍」の仲間。
なんだか急にくすぐったいような気分に襲われた。
くるりと振り向いた朱朱が、卓上の団扇を指さす。その動きにあせて蒼郎が問う。
「ならば、この団扇を一つ、いただけますか。」
きれいな団扇だった。花に鳥があしらわれた絵。鳥も花も名前は知らないけども、とても優しい色合いだった。
蒼郎の口を通して告げられた朱朱の所望に、女性は瞬きを繰り返す。
「団扇、ですか。もちろん差し上げますけれど……。」
「ご商売に差し支えませんか。」
「いえ、これは安家の大旦那さまが安く卸してくださるんです。私が絵を付けて、小間物屋の旦那に買って頂いてます。ですから蛍様に差し上げるのは全く差し支えはございません。でも……このようなものではあまりにも申し訳が……。」
「いえ、構いません。これを頂きましょう。」
不安そうに瞬きをしながら、女性は数本、完成した団扇を拾い上げ、その中から何本か選んで朱朱に手渡そうとする。朱朱はさらにそこから一本選んで受け取った。
「ありがとう。」
蒼郎の謝礼の声に女性が顔を上げると、すでに扉は開かれていた。そこから滑るように朱朱が表に出る。慌てて続く秋蘭。それとほぼ同時に蒼郎が後ろ手に扉を閉めながら音もなく部屋から出た。待ち受けていた風来に手招きをされて物陰に走り込み振り返れば、すぐさま扉が開き、さっきの女性が慌てた様子で辺りを見回していた。
「蛍様!お待ち下さい!」
団扇一本だけで帰すのは気が引けるだろう。それくらい、秋蘭にも容易に想像がついた。だが、あの家からこれ以上何かもらうわけにもいかない。彼らは生活してゆくだけで手一杯に違いなかった。
しばらく周囲を見回していた女性は、ようやく諦めたらしく部屋に戻っていった。
人気のなくなった裏通りの物陰で、四人は少しの間息を殺す。もしかしたら女性がまた扉を開けるかもしれない。ふと気が付けば秋蘭の横で朱朱が声を抑えて小さく身を震わせ笑っていた。さきほどまであんなにも偉そうに妖術使いのまねごとをしていた三人組が、今は物陰で身を寄せ合って潜んでいるのだ。奇妙な状態には違いない。秋蘭もだんだんおかしくなってきた。
「変なの。」
小さく呟いてみる。
「全くだな。」
さもおかしそうに朱朱が頷いた。
「さて。帰りますか。」
風来の声に、腕の中の猫が小さくあくびをした。