□ 六 □
あくびをかみ殺しながら台所に顔を出すと、白氏がびっくりしたように秋蘭を見上げた。
「あら。もう少し寝ていればいいのに。昨夜はお仕事だったのでしょう?」
「え、でも、俺……。」
蒼郎はもうとうの昔に起き出して、薬屋の開店準備のために働いているようである。自分だけ寝ているわけにもいかない。そう主張すると、白氏はにこりと笑った。
「ムリしなくて良いのよ。秋蘭ちゃんはまだ育ち盛りなんだから。」
そうは言われても、さすがに今更寝直す気分にはならなくて、そのまま台所を手伝えば、だんだん昨夜のことは夢だったのではないかという気がしてきた。
薬屋にあるのが日常なら、「真闇の蛍」は非日常。
現実と芝居。
その二つを同じ感覚の中に繋げて捉えることはなかなか難しい。
午後になると、秋蘭はひどく眠くなってきた。店先で大きく伸びをして、眠気を追い払おうと体を動かす。初夏の陽射しのあふれる通りには人影が絶えない。
――あ。
秋蘭は視界の端に見知った人影を捉えた。
――風来さんだ。
店を振り返ったが、蒼郎は奥にいるらしい。張録は帳簿を片手に店の中を行ったり来たりしている。地味で人の良いだけに見えて、張録は実はなかなかの商売人である。秋蘭には商売の詳しいことは分からない。だが、張録がそうとうのやり手であることは、ここ十日の間に何となく感じ始めていた。
――小さな薬屋さんなのに、家族以外に三人もの居候を置いてくれているくらいだもの。
蒼郎や秋蘭が店を手伝っているとはいっても、この店を切り盛りしているのは張録である。張録の才覚が六人の食い扶持を稼ぎ出しているのだ。
そんなことをつらつらと考えながら、秋蘭は風来に眼を戻す。
――あれ。
昨夜見た風来は、ぼろをまとっており猫背ではあるものの、かなりの偉丈夫であることが雰囲気から見て取れた。だが、今、目の前の道を歩く男は、昨日自ら名乗ったとおりの「よぼよぼの爺」にしか見えない。足下を見つめながらよたよたと歩くその姿に、昨日、橋のたもとに駆け下りていった頑強な男の面影はない。
そのとき、店頭にいたはずの張録が消えた。もともと張録は地味な男である。彼が店の奥に姿を消したとしても、道行く人々は気にも留めないだろう。しかし、秋蘭は気付いた。風来が店の前にさしかかる寸前に、張録が消え、そして音もなく店の横の木戸が開き、誰の目にも触れることなく、風来は木戸の中にすっと吸い込まれたのである。
「暑いな。」
何事もなかったように木戸の陰で風来は差し出された水を飲む。
「確かに蒸しますね。今日は。」
穏やかに微笑む張録。おそらく、通りからいきなり老いぼれ占い師が消えたことなど、誰も気付かなかっただろう。その占い師が薬屋の木戸の裏で涼んでいるなど、思いもよらないだろう。秋蘭は一瞬きょとんとして、それからようやく事情を飲み込むと、何食わぬ顔を懸命に装いながら店の奥に引っ込み、そろそろと木戸の裏に顔を出した。
「お。お嬢ちゃん。今日は凛々しいな。」
「男装」の秋蘭に気付いて、風来はにやりと笑ってみせる。その姿は昨夜のたくましい男のそれだった。先ほどまでの「よぼよぼの爺」はどこにもいない。
「風来。どうした。」
薄暗い廊下の奥から朱朱が姿を見せる。
「陸大先生からお手紙が届いたそうで。」
それに気付くと、風来は懐からうやうやしく手紙らしきものを取り出し、ひざまずきながら朱朱に差し出そうとし、手のひらが汗に濡れていたことに気付いたのだろう、慌てて手のひらをごしごしと衣でぬぐった。
「陸善史からか。」
廊下の薄暗さも気にせずに、朱朱は右手で手早く開封した。だが、ざっと目を通しただけでそれをまたたたんで、懐に収めた。
「相変わらずの辛気くさい手紙っすか。」
からかうように訊ねる風来に、朱朱は苦笑した。
「ひどく真面目な男だからな。あれは。」
陽射しは入らないものの、蒸し暑い昼間。木戸の裏手はむっと湿気の匂いがした。
「そうそう。もう一つお届け物がありやした。」
ぼろぼろの衣のどこに隠し持つものか、風来は懐に再び手を突っ込んで、団扇を二本取り出した。
「先ほど、楊家の奥さんに会いまして、昨日のではあまりに申し訳ないゆえに、こちらをお渡しして欲しいと。」
差し出された二本の団扇は、秋蘭の眼にもはっきりと分かるくらい上等なものであった。団扇の土台自体は変わらないのだろう。だが、絵に使われた絵の具の数も、凝った描き込みも、昨夜朱朱がもらった団扇とは桁違いである。
「こちらが主へ。それからこちらはお嬢ちゃんに、だそうで。」
にやりとした笑みを浮かべつつ、風来は秋蘭に団扇を手渡した。品の良い美しい団扇。嬉しくないと言ったら嘘になる。だけれども、何もしていない自分がお礼をもらうのはおかしい気がしたし、だいたい、自分は女ではない。あの女性を騙したような気がして急に申し訳なさが募る。
「いただいておけ。秋蘭。」
困惑気味に団扇に見入っていた秋蘭に、朱朱が笑いかける。
「それは気持ちだ。ありがたくいただいておけばいい。」
薄青い布に銀色で描かれた蘭の花。それは間違いなく、昨夜の秋蘭の仮面になぞらえて作ってくれたもの。
「あ、ありがとう。」
口の中でもごもごとお礼を言う。誰に礼を言って良いものか分からないが、とにかく礼を言いたかった。その様子がおかしかったのだろうか、朱朱はくすくすと声を立てて笑い、それから張録に団扇を押しつけた。
「私は昨夜いただいたのが気に入っている。申し訳ないが、これは白氏に使ってもらってくれ。」
張録は受け取ってしまってから、一瞬、風来の表情を覗き込み、すぐに温和な笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。お嬢様。家内も喜びますことでしょう。」
そしてそのまま張録はぱたぱたとその団扇で顔を仰ぐ。蒸し暑い風が廊下をゆるりと吹き抜ける。
「安家の大旦那さまはこんなことまでしていたんすねぇ。」
思い出したように風来が呟いた。
「あの方は何でもなさるからね。」
朱朱の声を聞きながら、秋蘭は昨日の楊家の奥さんの言葉を思い出す。
――そういえば、安の大旦那様という方が団扇を安く卸してくれるって言っていたっけ。
「その人、何の商売をやっている人?」
秋蘭の問いに朱朱は首をかしげた。
「もとは材木問屋だが、今は手広くいろいろと扱っていて、何の商売とも言い難いな。ずば抜けた商才の持ち主で、この町一番の大商人だ。いや、この一帯で一番というべきかもしれないな。」
「しかもこの町一番の慈善家でもある。」
張録が朱朱の説明に一言付け足した。
「へぇ。」
大金持ちで慈善家。どんな人なのか何となく分かる気がするけれども、それでいてそんな人が本当にいるだなんて想像も付かない。
――変な人、だな。
人のためにお金を使うことは何となく理解できる。慈善家、という言葉の意味くらいは分かっているつもりだ。
――だけど、お金持ちの商売人で慈善家って……上手く想像できないや。
黙って口をとがらせながら思案する秋蘭を残し、風来はすっと木戸をくぐって通りに消えた。それに気付いて秋蘭が店先に戻ったときには、風来の背中は遠く通りの向こうに消えてゆこうとしていた。それから数日が過ぎた。
ネズミ退治以来、夜の仕事は舞い込むことはなかったが、だんだん慣れてきた薬屋の手伝いが楽しくてしかたがない。帳簿の付け方も見よう見まねで何となく分かるようになった。もちろん、秋蘭に付けさせてはくれないけれど、張録が何を書いているのか、読めば理解できる。分かる文字がたくさんある。それだけでもずいぶん嬉しかった。
「ちょっとお遣いを頼まれてくれ。」
張録に小さな布の包みを手渡されて、秋蘭はきょとんとした。店を手伝うようになって半月が過ぎたが、一度もお遣いを頼まれたことなどなかった。興陽の町には詳しくないどころか、どこをどう行けばどこに出るのかさえさっぱり分からないのだ。
「玉花楼の近くに小間物屋がある。そこの若旦那にこれを届けてほしい。」
きょとんとしたままの秋蘭に蒼郎が助け船を出した。
「この前、楊家のネズミを追い出したときに橋を通っただろう。あのそばに玉花楼がある。梁の小間物屋もすぐそばだ。」
道が分かっているなら蒼郎がお遣いに行けば良いのに、と内心思わないでもなかった。だが、昼間の興陽の町を歩き回れるのなら願ってもいない。
「お遣いが終わったら今日の仕事は仕舞いだ。散歩がてらぶらぶら歩いておいで。」
秋蘭の考えなどとうにお見通しであるかのように、張録はそう言ってぽんとその手に数枚の銅銭を載せ、そのまま店の奥に消える。いいから早く行けとばかりに蒼郎が小さく頷く。何度も銅銭と蒼郎を見比べてから、秋蘭は包みを抱えて初夏の町に走り出ていった。