□ 七 □


 興陽の町は都などと比べれば本当に小さいのだと聞く。
 しかし秋蘭は都に行ったことがない。にぎやかで広い興陽の町並みに、心躍らずにはいられなかった。
 ――きっとこんなところで興行したら盛り上がるだろうな。
 ――まず俺が笛を吹く。人々が立ち止まる。それから……誰だろう。誰かが歌い出すんだ。芳春か清琴、麗花あたりでも良いな。その声に人が集まり始める。俺の笛に合わせてみんなが踊り出す。手拍子が始まる。
 そんなことを想像しながら、人通の多い大通りをきょろきょろと見回しながら歩く。それだけで楽しい。だが、今の自分は薬屋のお使い。旅芸人ではないのだ。自分が笛を吹いたところで、誰も歌い出さない。だいたい、笛だって薬屋の奥に置いてきたままだ。
 方向感覚は悪い方ではなかった。
 秋蘭はすぐに目的の店にたどりつく。
「ごめんください。」
 声を掛ければ、店の奥からふくよかな色白の男が顔を出す。
「はいはい。何のご用で。」
 若い男だった。年の頃は二十代の半ばくらいだろうか。世間知らずのお人好しにも、妙に達観した親父のようにも見える。
「張録の薬屋の使いです。」
 包みを差し出せば、男は軽く目を見開いて。
「すみませんね。いつも。」
 困ったように笑って受け取った。
「初めて見るお顔だが、あなたは張の旦那のとこの……?」
 お使いの子供にすぎない秋蘭にも、男は丁寧な口をきいた。
「はい。店を手伝っております。秋生と申します。」
「これはご丁寧に。私はこの店の主で梁と申します。今後ともごひいきに。」
 ぺこりと頭を下げた秋蘭に合わせるように、男も頭を下げる。
「蒼郎さんはお元気ですか。」
「あ。はい。元気にしております。」
 梁との会話は新鮮だった。旅芸人の子供たちは、邪険に扱われこそすれ、このような大人の扱いをされることはないのだ。
 店の奥から立て続けに咳をする声が聞こえる。
 ぱっと店の奥に視線を向けた秋蘭に気づき、梁はゆっくりと振り返った。
「父もおかげさまでだいぶ楽だと申しておりますよ。」
 ――なるほど。その薬はお父さんのための薬だったのか。
 中身も聞かずにお使いに出たあたり、自分もずいぶん浮かれていたものだ、と思う。
「そ、それは良かったです。」
 慌てて視線を店内に戻す。小間物屋だという梁の店は、きれいな色で彩られている。
「あ。」
 見覚えのある色彩が目に留まった。
「この団扇……どこかで……。」
 記憶の糸をたどるまでもなく、秋蘭はすぐにその見覚えの正体に気づいた。紛れもなく、それらは先日、楊家の奥さんが内職で作っていた団扇と同じものであった。たぶん、彼女はこの店に団扇を買い上げてもらっているのだろう。
 ――こうやって売ってるのか。
 店内に華やかに並べられた団扇たちは、鮮やかに人目を惹く。薄暗い夜の室内でもあれだけ目を惹いたのだから当然といえば当然のことなのだろうが。
「綺麗でしょう。」
 にこにこと一本取り上げて、梁はくるりと回してみせる。
「楊氏という女性が一本ずつ描き上げているものなのですよ。」
 案の定、楊氏の名が登場し、秋蘭はなんと応じて良いものか分かりかね、視線を泳がせた。真闇の蛍の話などするわけにはいかないのだから。ならば、自分が楊氏を知っている理由がない。
「安の旦那さまもすごい方ですよ。白い団扇を安く卸すことで寡婦たちの生活を影から支えていらっしゃる。」
 ふふ、と梁は笑う。
「安の旦那って……お金持ちの慈善家って人ですよね。」
「ええ。お若い頃、おうちが山賊に襲われてね、ひどい目に遭った方なのですよ。それを白沙村の趙家の大旦那さまがいろいろと手を尽くして、安家を再興させて以来、安の旦那さまは困っている人たちを助け続ける誓願を仏に立てたのだとか。その後、趙家が山賊に襲われて、小さなお嬢様方に至るまで全員亡くなったと聞いたたときの、安の旦那さまの嘆きようと言ったら……。」
 饒舌なのは、梁のもともとの性格なのだろう。目をぱちくりさせている秋蘭に気づき、少し照れくさそうに梁は団扇に視線を戻す。
「そうそう。この扇子の話をしていたのでした。昨日、お見せしたところ、玉花楼の鴬姫がいたくお気に入りになって、たくさんお買いくださいましたよ。」
 指先で玩び、軽く風を起こす。
「鴬姫?」
 聞き慣れぬ名前を、誰でも知っているもののように告げられ、秋蘭はゆっくりと反芻した。
「おや。ご存じないですか。」
「すみません。俺、この町に来たの最近なんです。」
 ああそうでしたか、と梁は頷いた。
「それはそれは。失礼いたしました。この町には玉花楼さんという由緒ある妓楼がありましてね。」
 そう言って男は団扇で遠い空を指し示す。
「ほら、見えるでしょう。あの高い建物です。あれが玉花楼さん。あそこには素晴らしい歌姫がいるのです。鴬鴬さんという方でね、誰が呼んだか天上の鴬。」
「え……天上の……鴬?」
 ――その名なら知っている。
 ぐっと手を握りしめる。
 ――この町にいたのか。天上の鴬。
 どこかにものすごい歌姫がいる、とは聞いていた。旅芸人たちはどんな情報でも逃さない。だが、噂に尾ひれが付いたものか、半ば伝説のように語られている歌姫だったから、実感が湧かなかったのかもしれない。秋蘭は今まで彼女がどこの町にいるかなど、気に懸けたこともなかった。
 ――それがまさかこの町にいるとは。
「実際、気さくな方ですよ。玉花楼さんには以前から出入りさせていただいておりますが、本当にひいきにしてくださってます。」
 そこまで説明して、梁は秋蘭の顔を覗き込む。
 空の向こうにそびえる妓楼は、立派なたたずまいだった。
「しかし、張の旦那はあなたに玉花楼さんの話をしていないのですか。」
 探るように尋ねられ、秋蘭は鼻白む。
「聞いてないですよ。」
「そうですか。ならば……ちょうど良い。」
 独り言のように梁は呟いて、店の奥から木箱を抱えてくる。見るからに重そうなその箱には、店の金が入っているに違いなかった。
「薬のお代です。」
 にっこりと金を手渡され、いくら受け取れば良いのかさえも聞いてきていなかったことに気が付く。
「ええっと。」
「いつもの金額です。張の旦那にきちんとお届けくださいね。」
 薬の相場など分からない。毎日、帳簿や店先でのやりとりを一生懸命見ているが、まだまだそう簡単には分かるようにはならない。しかし素人の秋蘭が見ても、明らかに金額が大きすぎる気がした。
「あの、これ、多すぎませんか?」
「そんなことはないですよ。」
 金が足りなければ詐欺である。だが、払う側の人間が多く払いすぎるというのも酔狂な話である。本人がその金額で良いと言うなら、受け取って帰れば良いはずだ。
 秋蘭は少し思案してから、その金を受け取った。
「では失礼します。」
「ええ。旦那によろしく。」
 店を後にすれば、あとは自由時間だ。少し大きな金を持っているから、日が沈む前には店に戻った方が良いのだろうけれど。秋蘭は周囲を見回した。橋の向こうに見える建物が玉花楼だ。
 ――近くまで行ってみようかな。
 薬屋に戻るのなら遠回りになるが、繁華街を通ってぐるりと回って帰るのも楽しそうだった。道ばたにかごを並べた花屋。色とりどりの花が香っている。花だけではない。葉も初夏の風に匂い立つほどである。
 立ち止まって見とれていれば、花売りの少女がにっこりと微笑んだ。
「お兄さん、安くしてあげるよ。」
 見知らぬ少女に微笑まれて、秋蘭はおどおどと言葉に迷う。ただ普通に返事をすれば良いのだろうけれど、なぜか緊張してしまう自分がおかしかった。
 逃げるように花売りに背を向けて、少年は足早に繁華街を歩いてゆく。遠く見えていた玉花楼はあっという間に目の前に迫っていた。実際、興陽の町は大して広くないのかもしれない。そして遠くからは立派に見えた玉花楼は、少し古くさい雰囲気の小ざっぱりした建物だった。
 秋蘭は店構えを見ようと思って来ただけである。たどりついてしまえば、もうやることはない。たたずまいを一通り眺め回してから、秋蘭はくるりと背を向けた。
「……ん?」
 楼の上の方からかすかに笛の音が聞こえる。夜の笛は遠くまで響くが、昼間はさほど遠くまでは響かない。しかも音を抑えているのだろう。ひっそりと聞こえるかすかな響きに秋蘭は耳を澄ませた。
「この前の曲だ。」
 楊氏の家のネズミ退治に行ったとき、橋の上で聞いた曲だった。たぶん、同じ人が吹いているのだろう。だが、あのとき一緒に聞こえた歌声は、今日は聞こえてこない。笛はおさらいのように、同じところを何度も奏でては繰り返していた。
 ――あの日、歌っていた人が……天上の鴬だったのかな。
 何度か振り返りながら、秋蘭は玉花楼を後にした。
 西日が射し込む興陽の町を、小走りに駆け抜けて、主の待つ薬屋に続く道を急いだ。




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