□ 八 □
薬屋はちょうど店じまいをするところだった。
「おかえり。秋生。」
店先の看板を片づけながら、張録が振り返る。
――あ。せっかくもらったお小遣い、使わなかったな。
懐の中に押し込んだ小銭の感覚。どんな小銭でも、それを稼ぐ苦労の重みを秋蘭は知っている。芸人であれ、薬屋であれ、それは同じことだ。
――大事に取っておこう。
懐がふわりと暖かい。
秋蘭は店の中に入らず、そのまま張録を手伝って店先の商品をしまい始めた。大きな店ではない。あっという間に片づけは済む。
「これ、梁の旦那から。」
店の奥で帳簿の確認していた張録に、秋蘭は慌てて薬代を渡す。今日の売り上げに書き入れてもらわなきゃいけない金だ。
一瞬、張録はその金の意味が理解できなかったようだが、はたと膝を打って困ったように口を開く。
「実はね、梁の旦那からはお代は受け取れないんだよ。」
「え。」
「すでに他の方からお金はいただいてあるんだ。だから、梁の旦那からはお代を受け取らなくて良い。ちゃんと説明しなかった私がいけなかったね。明日、私からお返ししておこう。」
「じゃ、じゃあ、俺が返しに行きます。」
お代のことをきちんと確認せずに出かけたのは秋蘭である。もちろん、それを説明しなかった張録だって悪くないわけじゃないが、信頼して任せてもらったのにお使い一つ満足にできないんじゃ、情けないじゃないか。
思い詰めたような表情で食い下がる秋蘭に、張録はふと相好を崩した。
「なら頼もうか。ありがとう。」
かたり、と台所の方で人の気配がした。
「でも誰が薬代を払っているんですか?」
梁の旦那は秋蘭がお代のことを知らないのを良いことに、ムリヤリにでも金を払おうとしていた。もしかしたら梁の旦那は、お金を払われていることに困惑しているんだろうか。
秋蘭の問いかけに、張録は答えかねて視線を泳がせた。
――聞いちゃまずいことだったのかな。
不安が胸を過ぎる。この家は秘密が多すぎる。
「玉花楼の歌姫だ。」
台所に通じる戸口から声がした。
「梁の旦那の代わりに薬代を払っているのは、玉花楼の鴬。この前の晩、橋のあたりで聞いただろう?鴬姫の歌声は。」
戸口に寄りかかるようにして物憂げに朱朱が言葉を紡ぐ。部屋の奥はもうすっかり薄暗くなっている。
――やっぱりあの声の主は天上の鴬だったんだ。
遠い遠い存在だった天上の鴬が、同じ町にいる。それだけで秋蘭には嬉しくてしかたがない。だがそれだけではない。偶然とはいえその声を聞けたなんて。
――運が良かったな。それにしても……柔らかい声だった。
聞こえたのはほんのかすかな声だけだけれど、秋蘭の耳の奥にしっかりと残っている美しく優しい声。噂通り、あるいは噂以上の歌の名手に違いない。
ふあと小さくあくびをして、朱朱は張録の帳簿を覗き込む。
「梁の旦那が迷惑しているなら、何とかした方が良いかもしれないな。」
秋蘭が受け取ってきた代金を指先で弾いて勘定し、もう一度帳簿と照らし合わせる。
「一ヶ月分ちょうど、か。旦那はああ見えても目端の利くお人だ。黙っていても薬の値段などお見通しというわけか。」
くくっとのどの奥で笑う。
「迷惑ということではないでしょうが、梁の旦那としては少し居心地が悪いでしょうね。お得意さんに父親の薬代まで支払ってもらっているというのは。」
「そうだろうな。」
張録の言葉に朱朱は頷いた。夏の夕風が家の中を静かに吹き抜ける。朱朱は右手で軽くほつれかけた髪をかき上げた。
「今夜、玉花楼に話を付けに行ってくる。」
「はい。お気を付けて。」
――朱朱が天上の鴬に会いに行く……?
話の展開について行かれずきょとんとする秋蘭に、朱朱はくすくすと笑った。
「夕食の片づけが終わったら、着替えて来い。」
「……え?」
「興味があるのだろう?天上の鴬に会わせてやる。」玉花楼に行くという話を聞いて、白氏は夕食の片づけをしている台所から早々に秋蘭を追い出した。
「早く行った方がいいわ。鴬姫の歌を聴きたいのでしょ?」
「でも。」
「台所は私一人で大丈夫。せっかくなんだから。それにお嬢様も早く行きたいに違いないわ。準備していらっしゃい。ね?」
白氏の片えくぼがくっと深まる。秋蘭はその言葉に甘えて急いで身支度を調えた。朱朱の部屋からは声がする。
「秋蘭が一緒だから平気だ。」
仮面をまとうのを手伝わせながら、朱朱が蒼郎にはっきりと告げた。
「……しかし。」
「私も子供ではない。秋蘭と二人で行ってこられる。」
小さな灯りが揺れる。
そっと戸口から覗き込めば、無表情のまま蒼郎が秋蘭と朱朱の顔を交互に見た。蒼郎は朱朱と秋蘭の二人きりで出かけることに反対しているのだろう。だけど朱朱はそれがいやなのだ。
――子供ではない、か。
家の中でずっとみんなから守られている朱朱だって、たまには大人扱いされたいのだ。大人として一人でどこかに行きたいのだ。一人がムリならせめて年下の秋蘭と一緒に出かけたい。それくらいの冒険、許されても良いんじゃないか。
「蒼郎。俺がいるから平気だと思う。」
おそるおそる秋蘭が口を開く。蒼郎はじっと秋蘭を見据え、諦めたように小さく呟く。
「しかたない。」
秋蘭は指示通りもう女の着物に着替えている。笛を持って行くどうか少し考えたが、止めておくことにした。天上の鴬に会えるとはいっても、自分は真闇の蛍の侍女。笛など無用だ。
「行くぞ。秋蘭。」
蒼郎はまだちゃんと納得したわけじゃないだろう。だが、朱朱はそんな蒼郎を残して、さっさと歩き出す。
「秋蘭!」
再度呼ばれて、秋蘭は慌てて朱朱を追う。
そして二人は夜の町にそっと忍び出た。この前と同じ橋を渡ると、またかすかな笛の音が耳に届く。
「……あ。」
耳を澄ませば笛の音に乗せて聞こえてくるゆったりとした声。
朱朱の空っぽの袖を揺らして、風が吹いてゆく。
「やはりこの声に聞き覚えがあると思うか?」
低く朱朱が問う。この前の独り言、聞かれていたのか、と少しびっくりしながらも、秋蘭は素直に頷いた。
「……うん。」
――誰だかは思い出せない。だけどとても柔らかくて落ち着くよく知ってる声。
「そうか。」
秋蘭の顔をちらりと見てくすくすと朱朱は笑った。
夜の川は夏の匂いに満ちている。
静かな人気のない通りを行く。だが、一つ角を曲がったところで町は途端に活気づいた。人の往来こそほとんどないものの、宴の声や家々の窓から溢れる光の強さは、他の通りと大違いだった。
――ああ。ここは妓楼や酒家の並ぶ通りなんだ。
昼間通ったときにはむしろ寂れた通りにさえ見えたほどで、気づかなかったのだが、夜に通れば一目瞭然である。朱朱はするりと裏通りに滑り込む。細い裏通りを慣れた足取りで抜けてゆき、玉花楼の裏手で立ち止まった。楽の音はいつの間にか止んで、男がなにやら話している。それに応じるようにどっとわく笑い声。宴はだいぶ盛り上がっているらしい。
木戸を軽く叩けば、すぐに中から恰幅の良い男が顔を出す。
「おやおや。朱朱ちゃん。よく来たね。体に変わりはないかい。」
老年と呼ぶにはやや早いくらいの年だろうか、その男は孫でも見るような目で朱朱に笑いかけた。糸のように目を細める。
「おじさんは心配性なんだから。」
くすくすと笑う朱朱もどこか普段よりも心を許した様子に見える。
「上の部屋で待っておいで。もうすぐ宴もお開きになるだろうからね。」
男に誘われて通用口から玉花楼の中に入る。中に入ると同時に朱朱は仮面を取り去った。秋蘭もそれに倣う。夜とはいえ夏である。仮面はさすがに暑かった。
「玉花楼の連中はみな真闇の蛍の正体を知っている。遠慮することはない。」
奥向きの使用人が静かに会釈してすれ違ってゆく。
「ここの主人、郭のおじさんは父と親しかったからね。小さい頃からよく遊びに来て可愛がってもらったものだ。」
朱朱は独り言のように呟いた。
――父?
朱朱に父親がいるのは当然のことだ。だが、なぜか秋蘭は驚いた。朱朱の家族は張録たちである気がした。もちろんそんなはずはない。そんなはずはないのだけど。
父親の存在などよりも、妓楼の裏口からいぶかしがられることもなく入り込み、店内の人々にも警戒されることもないということの方が遥かに尋常でないが、秋蘭にはそっちはさほど違和感はなかった。朱朱ならどこに上がり込んでも不思議はない。どこにいても泰然としている不思議な貫禄があった。