□ 十一 □
久し振りにムーンとトゥーンを伴って、町を歩いた。
ザールの助命嘆願が功を奏したのであろう。ロキは無事に部下達の元へと戻った。王太子の結婚式で賑わう首都で何があったかは詳しくは知らない。だが、略式裁判を経て、国王への忠誠を誓ったロキは、リスナ海兵隊に配属され、自分の部下達の元へと帰ってきたのである。
しかし、ロキ率いる七隻の海賊船を配下に収めてからしばらくは、海賊出身者と生え抜きの海兵たちが衝突し合い、何をやってもかみ合わないことばかりで、確執があちこちで噴出し、それを収めて歩くアイキは気が休まることはなかった。それでも一年半近く過ぎれば、一応はみな、収まるところに収まった形になってはいる。
王太子の結婚も気が付けば当たり前のことのように受け入れている自分。
忙しかったおかげで助かったようなものだ。未練などなかったはずだけれども……何かほっとしている自分がいる。
そう気付いて、アイキは自らを軽く笑ってみた。
「どうしたんですか。アイキ様。急に思い出し笑いなんかして。」
覗き込んでトゥーンが尋ねるのをそのままに笑い流し、町の東側の新しい建物群を見やる。突然増えた兵士達を収容するために、未開発だったリスナ東部に石造りの家々を作り、彼らの住居にあてた。リスナの家はどれも灰色の壁で、それが海に跳ね返った太陽の光にさらされて、一年中白く輝くのである。
「覚えているか、トゥーン、初めてリスナに入港したとき、この町が片翼の鳥のようだと言ったこと。」
「え、そんな前のこと、よく覚えてらっしゃいますね。」
恥ずかしそうに笑ったトゥーンも、新しい家並みに目をやった。西の博物院が右の翼なら、海賊上がりの兵士達が住む東の家々は左の翼。
「あぁ、そうか。だから笑ったんですか。今のリスナは両翼を広げた鳥ですね。左の羽はまだちょっと短い感じもするけど。」
「両翼あれば飛べるな。」
「どこに行くんでしょう。こんな大きな鳥。」
「飛んでも帰ってくるんじゃないかな。リスナ程居心地のいい場所は他にないだろうから。」
「そうですね。きれいな町、空も海もきれいだし。明るくて、本当に。」
道行く人々はアイキを見ると挨拶を送ってくる。彼らの大半はアイキを総司令と知って挨拶するのだが、中には顔見知りが歩いているが誰だったかなといった調子で頭を下げる者もあった。通りがかりの八百屋でムーンが立ち止まる。
「果物、買っていきましょう。明日の朝の分。」
首都ニールに比べてリスナは南にあり、果物も野菜も種類が豊富であった。目移りがするほど色とりどりに並べ置かれた店先で、姉妹のような気の置けない二人と買い物をする、そんな日常が戻ってきたのがアイキには嬉しかった。
「リンゴはそろそろ季節が終わりかな。」
「アイキ様は相変わらずリンゴが好きなんですね。こんなの、国中どこででも食べられるのに。もっと珍しいものを食べようとか思わないんですか。」
そう言いながらも、ムーンは艶やかなリンゴを五個選んで店主に渡した。
「あと、その葉物と、それから、」
いつでもムーンは買いすぎる。客がいつ来てもいいように、多めに買った方が賢いのだと、そうでなければ総司令である貴女が恥ずかしい思いをするのだと、ムーンは頑なに主張するのだが、傷んでしまうから早く食べてくれとさまざまな物を毎日並べられるたびに、アイキは苦笑せざるを得ない。
総司令部の執務室にベッドを持ち込んで、忙しい日はそこに泊まるという、多忙極まりない生活をしていたアイキも、ここ数日は自分の家に戻り、落ち着いた日常を取り戻している。自分の家といっても、総司令部の隣にある小さな宿舎のような建物で、この姉妹と一緒に暮らしていくには少し手狭なぐらいの質素な家であった。長女のルーンは地元出身の文官と結婚して、今は新しい家に住み、それでも毎日総司令部に顔を見せている。他の二人は浮いた噂の一つ二つはあろうものの、結婚するなどという様子はなく、末のトゥーンに至っては、アイキが独身でいるうちは絶対に結婚などするものかと、事あるごとにうそぶいているのだという。その話をルーンから聞かされたアイキは、苦笑せざるを得なかった。
三人では持ちきれない程の野菜や果物の入った紙袋を抱え、さらに東へと歩いてゆく。今日はトゥーンとムーンが最近気に入っている装身具の店を紹介してくれる約束になっていた。
「いくら武官で、いくら忙しいからと言って、そんなに何も身につけないのは怠けすぎですよ。きれいなんですから。無精しないでお洒落しましょうよ。」
お世辞だとしても、そう言われて悪い気はしない。たまの休みだったが、町を歩くのも好きだし、身を飾ってみるのもいいかもしれないと、彼女らの誘いを受けて春の匂いが漂い始めたリスナの町に繰り出したのである。
「こっちは海賊兵達が、よく行き来するから、安い物が多いんですよ。しかも異国情緒があって、結構流行っているんです。」
トゥーンが自慢げに説明する。知らない場所を歩き回って、素敵な店を見付けるのがトゥーンの趣味であったから、買いたい物があれば彼女に聞くのが一番良い。
「海賊ってだんだん慣れてきましたけど、私、あのダールっていう人、苦手です。」
思い出したようにムーンがつぶやいた。ロキの腹心であるダールは、ロキ以上に無口で何を考えているか分からず、不気味なところがある。大柄で恰幅のいいその姿は、貫禄があると言えば聞こえがいいが、独特の寡黙な雰囲気と並はずれた巨体とが相まって異常な雰囲気を醸し出していた。そんな男ではあったが、ロキの信頼は人一倍厚い。恩赦を受けた後、七隻の船を率いてリスナ海兵隊に配属されたロキは、そのうちの三隻をダールの部隊とした。ロキは決してダールと同じ船には乗らない。自分がたとえ海の藻屑と消えたとしても、ダールさえ生き残っておれば、他の海賊達が路頭に迷うこともあるまい。彼は常々そう言っているらしい。
「確かに少し不思議な感じのする男だな。だが、あれでかなり有能なようだし、それほど恐れる必要もないと思うよ。」
抱えた袋から甘いリンゴの香りがした。傷を付けてしまったのではないだろうかと、ふわりと抱え直す。額にかかる前髪を風が揺らしてゆく。ふと顔を上げれば、路傍の木々が若葉を揺らしている。
「総司令!」
背後から少年の声。振り向けばティルが二人の少年と共に駆け寄ってくる。
「ティル、元気か。」
「あぁ、総司令も元気そうだな。今日は俺、非番なんだ。」
「私も今日は休みだ。」
「ふぅん、総司令でも休むんだ。あ、当たり前か。そうそう、こいつら、俺の弟分でさ、カズとドンっていうんだ。」
「ああ。知っている。確か……ロキの第二船の所属だったな。」
アイキが笑いかけると、少年達は照れくさそうに頭を下げる。まだ本当に子供だと思った。この年頃、自分はまだ士官学校に入ったばかりの世間を何も知らない小娘だった。彼らはもう、この年で過酷な仕事に明け暮れている。もう一度、無意識のうちに袋を抱え直す。乾いた紙袋の擦れる音に混じって、ほのかに甘い香りがした。
そうだ。
アイキの目に笑みが浮かぶ。
「ティル、あの日もらったリンゴのお礼だ。」
袋の中から三つ、リンゴを取り出すと、びっくりした目で強ばっているティルにその艶やかな果実を持たせた。ムーンが少し困ったようにアイキを見たが、トゥーンの方は面白がって、姉に肩をすくめて見せる。
「あの日って、あの、」
「私がロキに捕らえられた翌日の朝、リンゴを剥いてくれた。そのお礼。食べてくれ。嫌いじゃないだろう、リンゴは。」
「うん、俺は大好きだけど。いいの?本当にもらっちゃって。」
「リスナは果物が豊かな町だから、そんなに遠慮することはない。」
ムーンがあきれたようにため息をつく。
――どうせ、こんなにたくさん食べ終えられるはずがないもの。突然のお客様じゃないけど、食べてくれる人がいるなら食べてもらった方がいいよね。アイキ様?
トゥーンが姉に隠れて小さく舌を出す。
リンゴを受け取ったティルはしばらく困ったように鮮やかな紅色を見つめていたが、弟分に一つずつ手渡して、剥きもせずそのままかぶりついた。
「ん、うめぇ。」
ティルとアイキを交互に見て、狼狽えていた二人の少年にティルが目配せをする。
「ほら、折角総司令がくださったんだ。ありがたくいただけよ。」
「は、はい。」
まだあどけない口調に、アイキは微笑む。
「足りなかったらまだあるからな。」
ムーンがもう一度ため息をついた。振り向いてアイキが小さく笑えば、軽く手を振って「諦めていますよ」とばかりに目を閉じてみせる。
「陸で生活するのって、俺、なかなか慣れなくって変な感じだったけど、最近ちょっと慣れてきた。」
海賊と違って、海兵達は四六時中海に浮かんでいるわけではない。今日のように非番の日もあるし、仕事の日だと言っても港で待機したり、昼間だけ海で訓練をして、夜になると陸に上がったりすることが多い。
「今度、二週間も休暇がもらえたんだ。俺達三人一緒でさ。でね、ここから北に、陸伝いに歩いて旅行に行ってみようと思っているんだよ。ケーナとかユンザとか内陸の町に行ってみるんだ。陸の旅も初めてだからさぁ、すっごいわくわくしてるんだ。」
「陸の旅は、なるべく荷物を減らしていった方がいいぞ。眉毛さえ、抜いた方がいいと言われているぐらいだからな。」
笑いながら助言をするアイキに、リンゴをくわえたまま、目を見開くようにティルが応じる。口にものが入っているせいで言葉はもごもごとこもってしまい、その仕草の年相応の幼さにアイキはどこか安堵を覚えた。
「それって、身一つで行けってこと?ナイフ一本持っていれば、金は持ってる奴から奪えばいいってこと?」
「こら、そういうことをするとケツァル隊に捕まるぞ。」
「俺、あの親父、嫌いなんだよな。口うるさいし、何か怖いしさ。」
そう悪態をつきながらもティルは遠出を楽しみにしている子供そのものの表情を見せる。恫喝などするはずがない。海賊時代に染みついたすれた感覚は、いつの間にかただの冗談になって消えてしまっている。そうと知って、アイキはあえて強くは叱らなかった。
もちろんケツァルだったら叱るだろうけども。
ふとケツァルの怒鳴り声を思い出す。彼は若い兵士達をよく怒鳴りつけた。自分の配下であろうがなかろうが、厳しくしつけることが彼の主義。時には貴族出身であり、副指令という同じ立場にあるリアさえも叱りつけるほどで、徹底的に筋を通そうとする彼の姿勢は、特に若い兵士達に尊敬されつつも恐れられている。
「総司令は休暇とか、ないの?」
「今のところ、ないかな。」
「あったら旅行とかする?」
「するかもしれない。考えたこともなかったが。」
「大変なんだな、総司令って。」
トゥーンが心から面白そうにくすくすと声を上げて笑った。そこへ買い物帰りといった出で立ちの、四十くらいの逞しい女性が顔を出した。
「総司令、その子達のこと、よく知ってるのかい。」
「あぁ、私の部下だからね。貴女は、えぇと、確か酒屋の、」
「よく覚えておいでだね。」
大きな目をぱちくりとさせて、女将は相好を崩した。しかしすぐに厳しい顔になり、言った。
「その子達はね、うちの店先から酒瓶を金も払わずに持っていくんだよ。時には酒樽まで勝手に運び出してくんだ。本当に困った手癖の悪い奴らでね。うちも商売なんだから困ってんだよ。」
「本当にそんなことをしているのか。」
固い声で、アイキは三人の少年に尋ねた。ティルが小さく肩をすくめ、つぶやくように、
「面目ねぇ。」
と、背伸びした言葉遣いで応える。
「そんなことをしたら、女将にも迷惑だし、私やロキ、サナにも大した迷惑がかかる。分かっていてやっているのか。」
「面目ねぇ。」
もう一度、同じ言葉をつぶやく。初めはばれてしまったことに、しまった、しくじった、という思いが滲んでいたが、二度目は明らかに反省の色合いが含まれていた。甘いかなと思いつつも、アイキはそこで笑ってしまう。
「全く。世話の焼ける。」
そして酒屋の女将に向き直り、頭を下げた。
「部下が申し訳ないことをした。これぐらいで足りるだろうか。」
懐から相応の金を取り出して、受け取ろうとしない女将に押しつけるように渡す。
「そんな、総司令、貴女に謝ってもらっちゃ、こっちが困るよ。」
「いや、この金はティルの、その少年の給料から引いておくから。」
冗談めかしながらも断言するアイキに、ティルが舌打ちをしながら突っかかる。
「俺だけじゃないよ、総司令。こいつらだって共犯なんだ。」
「そうか、だが、弟分なんだろう。兄貴になりたいんだったら、弟分の責任まで負うだけの覚悟がなくちゃいけないな。お前の兄貴分、サナは何かあったらお前の分まで責任を負ってくれる男だ。今回の事件、下手に表沙汰になっていたら、お前だけじゃない、サナやロキまで責任を取らされるところだったんだぞ。ティル、弟分ができたらその分、大人になれ。悪いことはしない。してしまったら謝る。それが大人だ。」
「……はい。」
一瞬ためらってから、ティルは二人の弟分の顔を交互に見、そして酒屋の女将をおそるおそる見やった。それからゆっくりと小さな声で、言った。
「迷惑をかけました。ごめんなさい。」
女将はしばらく厳しい顔をしてティルを睨み付けていた。だがくしゃりと脱力したように笑みを浮かべると、自分よりも背の高いティルの頭をごしごしと撫でた。
「仕方ないね。今回は総司令の顔を立てて許してやるよ。総司令のおっしゃる通り、大人になりな。お前はなかなか見所があるよ。そのうちきっと立派な働きをするだろうさ。」
照れくさそうにティルは笑った。
宿舎への帰り道、トゥーンが大発見でも語るようにはしゃいで言う。
「あの小さい方の少年、ティルとアイキ様が話しているのを聞いて、びっくりしたみたいに固まってるの。どうしたのかな〜と思ってたら、本当に小さい声だったんだけど、隣のもう一人の方に、こそこそこう言ったんですよ!『兄貴、本当に総司令と友達だったんだぁ』って。あの子、いつも総司令と友達だって自慢しているんですかね。」
昼過ぎに出かけた買い物は、すっかり夕方になっていた。結局、お勧めの装身具屋にはたどり着けなかったのだが、ティルやその弟分とも話をしたし、新しい服をあつらえたりもしたし、と、それなりの収穫にアイキは満足していた。
こんな心穏やかな生活が送れるとは、ニールを追い出されたあの日には思ってもいなかった。
夕方。ぬるい風が気怠く春の薄闇を抜けていく。