□ 十二 □


 嵐が襲来したのは二日前のことであった。港町であるリスナは、嵐の前兆を察知するやいなや動き出す。船を固定し、港に置きっぱなしになっていた資材などを内陸に運び込み、航行する船に警告を発する。
 もちろん、嵐が到来すれば、さらに輪を掛けて忙しくなる。それは、海兵達もそうであったし、守備隊の兵士達もそうであった。リスナ総司令ともなれば、その忙しさたるや言うまでもない。
 この三日間、ほとんど休む間もなく奔走していたアイキは、ようやく一段落ついて、泥のような眠りの中にあった。嵐の当日はもちろんのこと、暴風の中で港の安全を守るために始終指示を出し、報告を聞き、対処法を講じ、ザール知事への報告をし、嵐が過ぎれば難破船の救助に走り、その全てが終わると報告書の作成に追われ……日付の替わるころ、やっと書き上がった書類をザールの元へ届けさせて、そのまま執務室の寝台に倒れ込むと、そのまま記憶が途絶えた。そんな体たらくである。
 ――そこまで疲れていながら、なぜ拒まないのだ。
 己の腕の中で薄く口を開いたまま無防備に眠るアイキを眺め、ロキは呟く。
 ――あの日から三年以上。
 三年、夜だけ数えてももう何百という数であろう。アイキがカリン王太子の結婚式の警備から帰ってきたあの晩から。
 恩赦を受けた後、リスナで謹慎させられていたロキは、アイキの帰還を聞くや、見張りの兵士にさえ何も言わず、事前に面会を求めようともせず、もちろん扉をノックすることもなく、当然のように総司令の執務室へと入った。
 自分の海賊団全てを賭けて勝負を挑んだ相手。もし敗れるのなら、敗れるのでも構わない。ただ、とにかく正面からぶつかってみたかった。アイキも、自分も万全な体制で。
 ――だから、敗れたことには悔いはない。だが、配下に下るからには、それ相応のけじめをつけておきたかった。
 扉を押し開ければ、静まりかえった執務室。無人なのかと見回せば、ベッドに人影があることに気づく。
「誰だ?」
 いつもの引っ詰めた髪がだいぶほつれていた。ベッドに腰を下ろし、魂が抜け出てしまったかのように放心したアイキが、戸口の方をぼんやりと振り返る。
 そして、しばらくその上目遣いのまま、事態を把握できないかのようにじっとしていたのだが、ふと真顔に返ると、はっきりとした口調で
「あぁ、ロキか。そこに座ってくれ。」
 そう言った。それは間違いなくリスナ総司令の口調であって、三ヶ月前に海賊船に捕らわれていた気丈な小娘と同じ人物のもの。だがそれでも、座ってロキを見上げたアイキの視線は、海賊船に捕らわれていたあの日のような力を失っている。ロキと向き合った瞬間、その強い光がゆらりと戻ったが、その光は脆さを覆うための虚勢としか見えなかった。王太子を失った痛みゆえか、それとももともとこんなにも脆い生き物であったのか。
「小せぇな。」
 声に出したのかどうかは記憶にない。ただそれに応えるようにアイキが弱々しく微笑んだことだけを覚えている。ロキはそのまま腕を伸ばし、大柄なアイキをベッドに押し倒した。理由は分からない。理由など、いりはしないのだろうが。
 そして、その晩もアイキは拒もうとしなかった。
 海賊船に捕らえられ、シャイナとの和平の鍵をどうしても守らなくてはならなかった日。あのとき逆らえなかったというのは分かる。だが、あの日とは、全く立場も話も違うのだ。今は拒もうとしさえすれば、いくらでも拒めるし、いつだってロキを処罰することもできる。そうでありながら、拒まないというのは。
 ――俺はつけ上がっているのか。それともつけ上がっていいのか。
 自分がどこか弱気であるのがロキには可笑しかった。手に入れた女なら、好きにすればいいのだ。そう、海賊としての本能が告げているのに。
 がっしりとした裸の肩が、毛布の下で動くたびに、いつも無表情なロキの目に深い光が宿る。その彫りの深い顔立ちと、何を考えているのかが分からないまま、さまざまな表情をみせる口元とが、闇の中でアイキの気配をずっと見守り続けていた。
 一体なぜ、こんなしけた女に引っかかっているのだろう。一体いつ、こんなかわいげのない女に魅了されてしまったのだろう。
 そして――俺はどうしてこんなところにいるのだ。
 ロキは自嘲気味に何度も繰り返した疑問を、反芻した。
 ――分かっている。理由などない。理由などいらない。あの日、わざわざリスナ総司令を待ち受けて、正面から勝負を挑み、敗れて囚われたのも。王への忠誠を誓ってでも、他郷であるリスナへとあえて舞い戻ったのも。流れ者の海賊には理由などいらないのだ。
 ――なぁ、リアよ、お前の頼みをきいてやったわけじゃない。だが……お前が望んだのはこんな道だったのか?
 アイキが軽く寝返りをうとうとする。そしてロキの腕に顔を埋め、小さく何かを呟くと、すぐにまた泥のような眠りへと引き戻されていった。
「アイキ、俺を信じろ。俺は昼間、どんな嘘でも付く。だが……俺は決してお前を裏切らない。お前に……全部をくれてやる。」
 口に出したのかどうか、自分でも全く分からなかった。独り言にアイキは気づいた様子もなく、そのまま深い眠りの中に沈んでいく。まだ闇の中であるのに、海鳥たちは早くも鳴きながら港の空を行き交い始めていた。

 国王の誕生祝いが首都で盛大に祝われていたころ、リスナでも小規模ながら祝宴が張られた。カーベル知事の主催で、総司令、副指令だけでなく、各部隊の隊長級の武官達も招かれ、博物院の院長や知事府の文官達と共に卓を囲む。五年に及ぶリスナ知事任期を終えて首都の政界に復帰したザールの跡を継いだのは、派閥は違えども対立することもない、ザールにとっては半ば盟友のようなカーベルという男であった。
「彼は、政治や軍事に関してはからきしなんだけども、人間関係の機微には本当に敏感な男でね。身分に相応しい政治力や軍事力などは期待しちゃいけない。だけど、今、リスナに必要な、首都との均衡を図る才能の持ち主という意味では、カーベルは文官達の中でずば抜けた存在だよ。」
 ザールはそうカーベルを評していた。赴任してきたカーベルを見て、アイキはザールの言葉をたびたび思い出した。
 実際、海賊達をも飼い慣らそうとする覇気と、アイキを含め実力者達と上手く折り合ってゆく柔軟さと、首都との関係を常に密にし続けられるだけの情報網とを、カーベルという男は兼ね備えていたのである。もし、彼の任期中にアイキが失策でもすれば、カーベルはそれを踏みつけて自分の出世の足がかりにするかもしれない。だが、今のところ、ザールのお気に入りであるアイキに恩を売っておくことは、カーベルにとっても悪くない選択であるようだった。決して温かいとは言えないまでも、カーベルとアイキの間には比較的良好な関係が築かれていた。
 晩秋のリスナの空は薄い色を帯び、どこまでも突き抜けるような高い高い光が包み込む。博物院に沈んでゆく胸を痺れさせるような太陽を追いかける夕闇。世界を穏やかに少しずつ夜の色に染めてゆく。
 知事の乾杯の音頭で、和やかな会食が始まった。そのときには、文官も武官も微笑んで、杯を交わしあい、宴は何事もなく、平和裡に全てが終わるように見えた。何かが起こるはずもなかった。
 それでも、事件は起こった。
 知事と談笑していたアイキの耳に、テーブルが倒れる音、皿が割れ、椅子も蹴り飛ばされ、水が撒き散らされる音が一斉に飛び込んできた。それとともに聞き慣れた怒号。
「ふざけんじゃねぇぞっ。」
 日頃から陽気な振る舞いと持ち前の温厚さで誰とでもうち解けるサナが、大広間の端で仁王立ちで怒鳴っている。相手はケツァルの配下であるリスナ守備隊の武官、コア。リアと同世代のその男は、次期リスナ守備隊副指令との呼び声も高い、真面目で穏やかな人柄であった。
「ちょっと待て、落ち着けよ。サナ。」
「馬鹿言うんじゃねぇ。落ち着いてなんか、」
 周囲が止めるよりも早く、アイキが立ち上がって二人の間に入ろうとした。だがそれよりもさらに早く、ロキがサナの首根っこを捕まえて押さえつける。
「おい、サナ。ここをどこだと思っているんだ。ここは船の上じゃねぇ。俺達の家でもねぇ。ここは知事様のお屋敷だ。しかも今は国王陛下のお誕生日祝いの席だぞ。分かってるのか。あぁ?もう少しお行儀よくしたらどうなんだ。」
「頭!俺は、」
「お前にも言い分があろうが、お行儀が悪すぎるな。場所をわきまえないのはいただけない。もっときちんとしな。ここではここのやり方がある。」
 ロキの有無を言わせぬ低い声に、宴会の出席者は黙って見守るしかなかった。側に行こうとしたアイキをリアが目で制す。しかしサナは、その強いロキの口調にも言葉を返した。それはいつものサナの明るい声ではなく、今にも泣き出しそうな喉の奥にものを詰まらせたような声だった。
「頭、あんたまでそんなことを言うのか。なぁ、頭、あんたは俺達みたいなお行儀よく座っていられねぇ、いい子になんかなれっこねぇ人間にもいる場所があるって言ってくれたじゃねぇか。そういう連中は陸の上には住めねぇから、一緒に海に浮かんでやるんだって、言ってたじゃねぇか。それなのになんで急にそんなことを言い出すんだよ。俺達がこんなところで大人しくしていられるはず、ないじゃねぇかよ。」
 ロキは恐ろしいほど押さえのきいた口調で応じる。
「俺達はリスナ海兵隊に正面から勝負を挑んで負けた。力で負けたなら、勝ったものに服従するのが俺達のやり方だ。違うか。」
「そりゃあ、違わねぇ。でもお頭、負けたら勝つまでやり返せばいいじゃないか。」
 その言葉が終わった途端に、サナの体が勢いよく壁にぶつかった。いつの間にかロキの隣にその巨体を運んでいたダールが、力一杯サナを殴り飛ばしたのだった。
「兄貴、なんで、兄貴まで、」
 サナはもう言葉を継ぐ気力を失っていた。
「ダール、この分からず屋を連れて帰っておけ。柱にでも縛り付けて大人しくさせておくんだな。」
 ダールは黙ってサナを担ぎ上げると、振り返りもせずに大広間を後にした。ロキは身を翻し、アイキの前に仁王立ちになって、しばらく睨み付けるような目をしていたが、相変わらずその瞳には表情はなかった。
「うちの部下が騒がせた。迷惑をかけたな。」
「私よりも、カーベル知事にお詫びをするものだろう。まぁ、起こってしまった喧嘩は、仕方がない。後でサナに私のところに来るように伝えてくれ。それからコア、お前も私のところへ来てくれ。喧嘩は両成敗、どちらの言い分も聞かなくてはならないし。」
 畏まっていたコアが、跪くように頭を下げた。ロキはしばらくまたアイキを睨め付けるように立っていたが、
「そうはいかない。こっちにはこっちの筋がある。俺の部下は俺がけじめを付けておく。」 きっぱりと断言すると、アイキに背を向けて部屋を出ていこうとする。
「祝宴をぶち壊しにして、すまなかった。気の合った者同士で後は好きに楽しんでくれ。」
「ロキ!そんな勝手なことは、」
 追いかけようとするアイキを、ケツァルが止めた。
「追わない方がいい。総司令、あいつをつけ上がらせるだけです。」
 カーベルも頷いた。そして少し困ったように笑った。
「この不始末が陛下の耳に入ったら、今日は祝宴の理由が理由だけにいささか困ったことになるな。」
「申し訳ございません。やはりここはサナを厳しく罰して、」
「いや、アイキ、自分で言っていただろう、喧嘩は両成敗。喧嘩は起こってしまったら仕方がない。私もそう思う。」
 殊更大きくため息をついて、それから急に陽気な声を出す。
「さぁ、もう一度祝い直そう。祝宴にケチが付くというのもいいものだ。暗い話題にケチが付けば落ち込むが、こんなにめでたい日にケチが付いたのなら、ありがたいことに笑って流せるじゃないか。さぁ、笑ってこのケチを海に流してしまえ。ケチが落ちたことからまた、祝い直しだ。さぁ、飲んだ飲んだ!」
 広間は一度、驚いたようにざわめき、すぐにそれは明るいざわめきへと変化した。この場を和やかにしようと、誰も彼もがわざわざ大きな声で笑い合う。アイキは舌を巻いた。これだけの言葉をのうのうと言ってのけるこの男は、余程の演技派である。この場に居合わせた誰もがこの茶番に付き合わざるを得ないのだ。これがザール知事の言っていた素質というものか。クリオラが酒瓶を捧げてカーベル知事の下へまかり出、恭しく酌をすると、杯を受けて、カーベルは機嫌良くクリオラに返杯をした。

 その夜、アイキの元に平伏するように謝罪に来たコアは、なぜ、あの陽気なサナが激昂したのか全く分からないと言った。普通に話していたはずなのに、どの言葉が彼をあそこまで追いつめたのか、どんなに思い返しても分からない、だがそれでもあの場をぶち壊した責任の一端は自分にあるのだから、責めは負う。その言葉を聞いて、アイキも首を傾げた。コアはそれから三日間の謹慎を命じられた。
 散会の後、アイキの元に意見を述べに訪れた文官武官の多くがコアを庇い、海賊達の横暴を批判した。海賊上がりの船長に、なぜ七隻もの部隊を任せるのかと、アイキの方針にまで不満が噴出する。広間を出ていったロキが小さく、そろそろ限界だろう、と独りごちていたのを聞いたと言う者もいた。わだかまりも解け、なんとか上手くかみ合うようになってきたかのように見えた、リスナの兵士達と海賊達の間に、まだまだ深い溝がある――そんな当たり前の事実を見過ごしていたのか。アイキは溜息をついた。
 サナは結局、アイキの元に釈明にも謝罪にも来なかった。




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