□ 十三 □
翌朝、まだ薄暗いうちからリスナは蜂の巣をつついたような騒ぎの中にあった。髪をまとめる暇も惜しんで総司令部を飛び出したアイキは、港への道を全力で走った。
「ロキ隊が無断で出港しました。」
執務室に息を切らして走り込んできた中年の兵士は、そう叫ぶと、数秒間、次の言葉を口にできなかった。全力で走った上に、それが一体どういうことなのか、自分自身がよく理解しかねていたためであろうか。アイキも呆然とした。しかし一度唇をかみしめると、いつもの毅然とした態度に戻って、
「報告、ご苦労。しばらくここで休んでいくがいい。」
とその兵士を労いながら、片手で髪を梳きつつ走り出す。
――リスナを見限って逃げたか。諸詮……海賊は海賊、か……。
ロキ隊とダール隊が夜明け前に出港したリスナ港は、がらんとして空虚であった。一足早く駆けつけていたリアが、どこか諦めたように尋ねる。
「追いますか。」
もう帆影さえも見えない。兵士達がいつでも出港できるように船の整備を始めていた。
「ロキが逃げ切れると踏んだのなら、そうそう追いつけるものではない。しかも、あの船にも無敗の銛が装備されているのだからな。下手に挑んでは……返り討ちに遭いかねない。」
それから首を横に振って、目を閉じ、また強い口調を取り戻す。
「今は、追うな。作戦を練り直す。次に海上で出会ったときには、またあっさりとひねり潰してやるから、今は見逃しておけ。」
「は。」
側にいた兵士達が、全幅の信頼を眼差しに湛えてアイキに敬礼を捧げた。軽く手を挙げそれに応えると、どこか居たたまれないような気持ちでアイキは港を後にする。
首都への報告、それから野放しにしてはおけない新装備の海賊船への対策……やるべきことは山積している。だが、諸詮はそれだけのことだ。
明らかにこれは自分の力不足だった。海賊兵と元からいた海兵とが、だんだん上手くかみ合ってきたと、勝手に信じ込んでいた自分の甘さ。誤判断。今更ながら歯がゆく、胸が消化不良を起こしたようにじりじりと痛んだ。
執務室に戻ると、影のように静かにケツァルが控えていた。
「できることがありましたら、何であれ、お申し付けください。」
彼は彼一流の几帳面さで、真っ直ぐに言う。
これは海兵隊の不始末である。リスナ守備隊副指令である彼は関係ない。建前上はそうであった。しかし生来の責任感ゆえであろうか、ケツァルは宿舎でじっと海兵隊の騒ぎを見物できるような男ではなかった。
「すまない。こんな朝早くから。」
「いえ、総司令はお若いから、朝は辛いかもしれませんが、私はもう五十を過ぎております。朝になると自然に目が覚めるのです。こんなの早いとは思いません。」
アイキの謝罪にも似た労いに、寡黙なケツァルにしては多くの言葉を選んだ。不器用だが過剰な彼の言葉は、アイキに対する気配りであって決して批判ではない。
「ありがとう、ケツァル副指令。いつも迷惑をかける。すまないが、今から知事館に出かけるから、ここで留守居をしていてくれるか。何か緊急のことがあったら、誰かを伝令でよこしてくれ。報告だけで、すぐ帰る。」
返事をせず、ケツァルはしばらくアイキの横顔を眺めていたが、遠慮がちにだが断固としてこう告げた。
「報告だけでしたら私が参りましょう。おそらく知事殿と何かを相談しなくてはいけないなどと言うこともありますまい。」
不器用な人間ほど大胆で、真実を突いた言葉を見付ける。確かにカーベル知事が事件解決の役に立つとは思えない。だが、国王の直属である知事に重要な報告をするのだから、部下を派遣するのは気が引ける。
「それではあんまりにも、」
反論するアイキをケツァルは目で制した。
「今は、体面を気にしている場合ではありません。彼らが船を返してリスナを攻撃してくるかもしれません。あるいは海峡警備隊と戦闘状態に入ることも考えられます。そんなときに私がここに待機していても仕方がない。」
カーベルの心証を悪くすれば、この先、何か不利になる可能性もあろう。彼の派閥の長であるキュー宰相との関係が悪化するかもしれない。宰相との関係が悪くなるということは、アイキの人生にとってもリスナの町にとっても、決して望ましいことではない。だが、そんな打算は潔癖なケツァルには縁のないことだった。
もっとも宰相のキューは、文官達の派閥闘争の中で、たまたまその地位に転がり込んでしまったような人物であって、お世辞にも今をときめくなどとは称されなかった。現在、王宮内には、強大な派閥があるわけではなく、中規模の派閥がひしめいている。そんな中、偶然つかみ取った宰相の椅子を守るために、キューは並々ならぬ努力を強いられていた。 彼は王太子の妃であるリーナに近づき、彼女の母国であり、重要な隣国であるシャイナを後ろ盾にその地位を固め、今では一日も早くカリンを王位に付けようと画策しているとの話である。だが、シャイナとの同盟成立に尽力していたバイザー元宰相などの好戦的な一派とは折り合いが悪く、むしろ外国との積極的な接触を好まないカーディン前宰相の一派――先のリスナ知事ザールもその一員であるが――その穏健な、悪く言えば消極的な立場の文官達を味方に取り込もうと必死だった。そんなキューの思惑を知っているカーベルとしては、アイキの無礼にも目をつぶってくれることであろうか。昨日は宴会をぶち壊し、今日は部下を報告に派遣する、それでも黙っているだろうか。
そこまで考えて、アイキは思考を止めた。自分の保身を気にしている場合ではない。
「では、頼む。カーベル知事にはくれぐれもご無礼をお許しくださるようお願いしてくれ。それから身の安全は保証するが、しばらくは大事をとって文官達の海路の旅は慎んでくれと、後、リスナの皆にも海になるべく出ないように命令を出してくれるように、頼んで欲しい。」
真面目に一つ一つ口の中で復唱したケツァルは、最後に微笑んで言った。
「あの方はああ見えても計算高い方です。全て総司令にお任せするのがお互いに一番よいと、それぐらいは分かっておられましょう。」
どこまで確信犯だったのかはアイキには分からなかった。だが、ケツァルにはケツァルの計算があるらしい。アイキは彼に全部任せることにした。
「報告を終え次第、すぐに戻ります。」
ケツァルが立ち去った後の執務室は、朝の光ががらんとした空間いっぱいに満ちて、やけに広く感じられた。髪を結い上げ、身支度を整え直す。
鏡に映った自分の姿は、女らしいとか、美しいとかいう言葉は相応しくない。お世辞であっても、だ。その姿は、どこからどう見ても「総司令官」という武人の姿であった。不満はない。自ら望んで、そうやって生きてきたのだ。
しかし。
――自分はつけ上がっていたのか。誰も彼もが自分を支えてくれるものだと、勝手に思い込んで、独り合点して、何でもできると思い上がっていた。そうかもしれない。何でも上手くいく。海賊と海兵も折り合いがつく。首都と副首都も対立せずにすむ。そんなことは甘ったるい思いこみに過ぎなかったのかではないか。
――アイキよ。
――お前は今まで、自分を支えてくれていた人達に、自分の心からの感謝を伝えたことがあったか。
自問の声が胸の奥から響く。
「なぜ、俺なんだ。」
あるときロキが尋ねた。
「他にも男なんか、たくさんいる。若いのも美しいのも、お前なら選び放題だろう。リア副指令なんか、一言誘えば飛んでくるに違ぇねぇ。あいつはお前しか見ていねぇ。それくらいお前は分かっているはずだ。……それなのに……なぜ俺なんだ。」
相変わらず光を宿さない眼差しで、その晩、ロキは重ねて尋ねた。あの男でも不安になったりするものなのだろうか。無性におかしく感じたことを覚えている。だが、
「どうしてだろうな。」
結局自分はそれ以上の言葉を口にしなかった。理由は分からない。夜の執務室に押し掛けてくる非常識な男など、ロキしかいなかったからかもしれない。しかし、もっと他の「本当の言葉」を口にすることだってできたはずではなかったか。
気持ちは確かにそこにあったはずなのだ。言わなかっただけなのだ。そして、勝手に伝わっているものだと一人合点して……。
だが――
ここで落ち込んでいる場合ではない。アイキは目を上げた。まず、知事への報告は片付いた。ロキ隊は、いや、ロキ率いる海賊船はおそらく外洋を逃げてゆくだろう。彼らだって、お互いに手の内が分かっているリスナ海兵隊と戦いたいはずがない。こちらも傷を負おうが、数からいっても装備からいっても勝ちは見えている。一日も早く、なんとか装備を調えて、外海を航行しているところを囲い込まなくてはいけない。どこにいるか分からない船団をどうやって効率よく捕獲するか。
結果を出さなくては、いつも自分を庇ってくれるザールに申し訳がない。たぶん、彼はこの件でもアイキを庇って宮廷で運動をしてくれるだろう。尻拭いばかりさせてはいけない。自分を支持したことでザールの立場が弱くなるなどということは、避けなくては。
海図や各部隊の装備一覧、今までに遂行した作戦の記録などを抱えて、アイキはまた港へ駆けだした。
そのとき。
「アイキ様、朝ご飯!」
ぱたぱたと追いかけてくるトゥーンに気づく。
――こんな時にまで……。
苦笑しながら包みを受け取る。
「こんな時にまで、って思ってらっしゃるでしょ。でも、朝ご飯を食べないと、人間、駄目になるんですよ。それにね、アイキ様。どんな非常事態があったって、ムーン姉ちゃんは朝ご飯を作るんです。作ったご飯、食べてもらえないと、落ち込むんだから。」
一気にまくし立てるように言い終わって、ふと真顔になる。それから小首を傾げ、アイキを覗き込むようにして小さくにっと笑うと、
「それにね、アイキ様。どんなときだって、何が起きたって、私達、変わりませんから。だからね、安心でしょ。」
はっとした。自分はそんなにも取り乱していたのかと思った。
「すまない、トゥーン。」
アイキの表情を見てトゥーンが嬉しそうに笑った。
「じゃ、いってらっしゃい。」
そして、アイキの背中を力一杯押す。
「お昼ご飯、お弁当を届けますからねぇ!どこにいらしたって、見付けますからねぇ!」
後ろから追いかけてくるトゥーンの少し間延びした声に押されて、秋の光に満ちる港へと、アイキは急いだ。