□ 十四 □


 総司令部から港へ降りる路は、なだらかな下り坂である。晩秋の木々の葉擦れの音に包まれながら、普段なら往来の激しい大通りを小走りに抜けると、港では海兵達があちこちに駆け回っていた。今日は一般人の姿が少ない。非常事態を聞きつけて、静かに息を潜めているのだろう。台の上に立って大声を張り上げていたリアが、アイキに気づいて頭を下げる。
「知事への報告はすんだのですか。」
「あぁ、それはケツァル副指令が行ってくれることになった。」
 リアは心底安心したような目をして、周囲を見回した。
「そうですか、それはよかった。今、近くの海域だけは警備を強めています。」
「すまないな。とにかく奴らがどこへ逃げていくのかだけでも、知っておいた方がいい。」
「そうですね。出港を目撃した兵士の話だと、夜明け前で暗かったからよく分からないと言ってますが、どうも、西の方へ向かったわけではないようです。なんでも東の方へ、」
「え、東へ?」
 我ながら間の抜けた声だ、と、口にするなりアイキは戸惑った。
 無駄な争いを避けて外洋を行くなら南か西へ進むべきで、東に行っては海峡警備隊の管轄海域を通ることになる。途中で方向を転ずるならよい。だが本当に東へと船を進めているのなら、一体どういうつもりなのだろう。
「海峡警備隊へ伝令を出してもいいが、もう手遅れか。」
「申し訳ありません。もっと早く気づいていれば高速船で、」
「いや、無理だ。高速船でも追いつけまい。しかしまぁ、戦いにはならないだろう。いくら奴らが特殊装備船に乗っているといっても、海峡警備隊の精鋭十隻と正面から戦うには、危険が大きすぎる。そこで玉砕するつもりならともかく……。」
 白い翼の海鳥の群が、急に角度を変えて海面すれすれを旋回し始める。波間に秋の日が反射して、どこまでも高い空とともに天の際までその光をあふれさせていた。
「海峡付近を通って東方海域へ抜けるのは簡単だろう。奴らはリスナ海兵隊の旗を備えている。警備隊の方でも警戒することはあるまい。」
 東へ向かえば、広大な砂漠地帯を擁する「未開の大地」がある。もっとも未開というのはビディアの民の言い回しであって、実際はそこをさまざまな騎馬民族が往来し、交通の要所には、ありとあらゆるものが取り引きされる大規模な市場が立つのだという。市場があれば海賊もまた出入りしているはずである。彼らとて、つまるところ「商売」が生業なのだから。
 水平線の彼方に孤帆が揺れていた。警備のために外洋に出た船だろうか。そう思う間もなく、双眼鏡を片手に高台に立っていた歩哨が叫ぶ。
「海峡警備隊の高速船です。」
 帆船はぐんぐんとリスナに近づいてくる。おそらく急いで駆け抜けた七隻のリスナ海兵隊が、一体どういう事情だったのかを確認するための船なのだろう。
 帆影の静かな動き。しかしずいぶんと急いでいる。
 そのとき、背後に人の気配。
「総司令、ただいま戻りました。」
 振り向けばケツァルのいかめしい顔があった。息を乱す様子もなく、二十以上年下の上官を前に、直立不動の姿勢で立ちつくしている。
「ありがとう、ケツァル副指令。カーベル知事はなんと?」
「は、総司令の働きに感謝すると伝えて欲しいとのことでした。首都へはすぐに陸路、使者を出すそうです。今まであの海賊達を押さえてこられたということだけでも、総司令は功績があったというべきだ、まして彼らの反逆の際に全く人的被害を出さずにすませたというのも驚くに値する、と。」
 言い終わってからケツァルは彼にしては珍しく、少し皮肉そうに顔をゆがめて笑った。
「つまり知事は総司令に恩を売るつもりであるようです。……助かった、というべきなのでしょうが。」
 声に出さず、リアも口の端を上げるだけの笑顔を見せた。リアの場合は、カーベルの対応に皮肉を感じたのではなく、むしろカーベルの処世術に嫌悪感を覚えるケツァルの潔癖さに、もどかしさを感じるのかもしれない。
 海鳥が一斉に飛び立つ。
「これで、とりあえずリスナは安泰だが、今後のことを考えないとな。海峡警備隊にも事情を説明して、協力を仰ぐ必要があろうし。」
 高速船は瞬く間に近づき、肉眼でも海峡警備隊の旗を見分けられるほどになっていた。
 カーベルからすれば、今回のアイキの失態は下手をすれば自分にも火の粉が降りかかりかねない事件であったし、同時にそれはザールに恩を売っておくいい機会でもあった。首都で立場の弱いキュー宰相一派が、アイキ贔屓の有力文官ザールから譲歩を引き出す種にもできる。またアイキもカーベルやキューに逆らいにくくなるだろう。副首都の人心をつかんでいるアイキに恩を売っておくことは、将来、宰相の座を狙うつもりでいるカーベルにとっておいしい話には違いない。
 桟橋に横付けされた高速船が、停船の衝撃でまだ激しく揺れているうちに、中から二人ほどの若い兵士が駆けだしてきた。リスナ港の異常な様子に、動揺したようである。総司令と副指令二名が揃って港にいる。それだけで十分異常事態であった。
「アイキ総司令、海峡警備隊の者です。」
 二人はその場で出迎えたアイキに敬礼をし、鼻で大きく息を吸い込むと言った。
「今朝、七隻のリスナ隊が海峡を突破し、そのまま内海へと航行していきましたが、事前に報告を受けておりません。事情を聞こうと追いましたものの、追いつけず、こちらへと確認にうかがいました。」
 その言葉にリスナの面々は言葉がなかった。唇を一度かみしめて、アイキが少し掠れたような声で問い返す。
「七隻は内海へ入ったのだな。」
「はい。」
 アイキのただならぬ様子に、海峡の兵士が怯えたような目をする。首筋をアイキの無骨な指が小刻みに叩き、その動揺を苛立ちに変え、昇華した。そしてすぐに、兵士の不安を拭うような大きな声で言う。
「報告ご苦労。その七隻は今朝、リスナ海兵隊を離脱した脱走兵だ。三年前に帰順した海賊部隊だったのが、今朝、突如離脱し、無断で出港した。」
「離脱、」
 その一語を復唱すると、その若い男は、全くどうしていいのか分からないといった様子でぼんやりと相棒の兵士の顔を見た。相棒の男も途方に暮れたようだったが、アイキの目を見返して、次の言葉を待つ。その視線を柔らかい笑顔で受け止め、大きく頷くと、アイキはさらに大きな声で言った。
「全船、緊急出港準備。リアは準備が整い次第、三隊を率いて内海へ向かってくれ。互いに手の内が見えているのだから、あまり深入りせず、奴らが逃げるようなら逃がしておけ。とにかく内海から追い出す。」
 それから二人の兵士の肩を、労うように優しく叩くと、
「早朝からの仕事で、疲れているだろう。申し訳ない。だが、このまままた高速船で海峡に戻って、海峡警備隊長殿に今の話を伝えて欲しい。例の海賊隊の装備は並ではない。外洋に追い出してから、リスナ隊が責任を持って叩く。だから外洋へ出ようとする海賊船は見逃すようにとお伝えしてくれ。」
 アイキが指示を出し始めたので、てんでに船の整備をしていた各船の船長達が集まってくる。彼らの顔を見回し、リアの率いる三隊を決め、もう一隊、シルバーという隊長の率いる三隻を海峡警備隊の援軍に赴くように命じる。そして、
「ケツァル副指令、周辺の沿岸都市の守備隊に連絡を取ってもらいたい。特に内海に面した都市には、緊急配備を敷くようにと伝えてくれ。すぐにだ。」
「はっ。」
 言うなり、ケツァルは自分の執務室に駆けだす。五十を過ぎている男の動きとは思われない、機敏で活力にあふれたその後ろ姿を見送る時間も惜しんで、アイキは次々と指示を出し、自身は知事館に報告に向かった。さすがに今回の報告は人に任せることはできなかった。
 海賊船が内海に入ったということは、内海に面したビディアの各都市を狙えるというだけではない。首都を狙える、ということで。
 ――内海都市はここ数年の平和に慣れて、海からの敵にかなり無防備になっているはず。
 各船の船長達の緊張感が、次第に街全体に広がっていく。
 だが、我らにはアイキ総司令がいる。
 アイキが駆け回るあちこちでは、全幅の信頼を眼差しに秘めた海兵や守備兵達が敬礼を捧げた。
 ――この信頼に応えたい。
 総司令部に寄って、いくつかの書類を複製を控えていた兵士に命じ、その足で知事館に行く。カーベルは全てをアイキに一任する姿勢を崩さず、首都との交渉は任せてくれとだけ言った。
 午後の早い時間には総司令部に戻ることができた。できあがった書類の複製を受け取って執務室に帰ると、ちょうど扉をノックするリアに出くわす。
「すまない、今戻ったところだ。」
 後ろから声をかけると、リアは驚いたように身を翻して、アイキに向き合った。
「あぁ、総司令、お帰りなさい。」
 少し決まり悪そうに微笑んで、アイキが開けた扉を軽く会釈して通る。書類束をどさりと机の上に置いたアイキは、トゥーンから受け取った朝ご飯をまだ食べていないことに気づいた。
 ――これが知れたらムーンに泣かれる、だろうな。
 どんな非常事態でも、彼女らを嘆かせるようなことはしたくない。そう思っている自分自身に気付いて、急に肩の力が抜けた。
 ――落ち着こう。全てはそれからだ。
「カーベル知事はどうおっしゃっていましたか。」
「いや、もう全て任せると。」
「それは、よかった、と、言うべきですかね。」
 言葉を句切りながら、顔色をうかがうようにリアが苦笑する。アイキも苦笑を返し、
「ちょっと失礼する。」
 弁当箱を開いて、机に寄りかかって立ったまま、ムーンの手作りの朝食を食べ始めた。そして軽く視線を上げ、リアに報告を促す。せわしないアイキの食べっぷりに見入っていたリアが、小さく笑んで言葉を選びながら口を開く。
「出港の準備ができました。そのご報告を。」
「そうか、ご苦労。……とにかく深追いはするな。相手はこっちの手の内をよく知っている。」
 返事を返してから、しばらく俯いて弁当箱の中をつつき回していたアイキは、黙ってなにやら考えていたが、顔を上げ、弁当箱を机に置いた。
「向こうが何を企んでいるのか、分からないうちはあまり正面からぶつからない方がいい。各都市の守備隊にはすでにケツァルが連絡を入れているはずだ。彼らを手伝って、各都市や村々への被害を防ぐこと最優先にしてくれ。それでは士気が上がらないかもしれないが……まずは奴らを外洋へ追い払うことに専念してほしい。」
「はい。」
「早いうちに支度を整えて、奴らを討てるようにする。それまで被害を抑えること。こちらは急ぐ。一日も早く準備を仕上げる。それまで堪えてくれ。」
「はい。任せてください。」
「あぁ、信頼している。だが、気を付けてくれ。誰も、そう、誰も死なないように、」
 言いかけて、すぐにアイキは照れくさそうに目をそらした。
「そんなことを言える立場ではないのだがな。我々は武官で、奴らは逆賊で、ぶつかったら戦わざるを得ない。戦えば血は流れ、そう、絶対に誰か死ぬ。それが武官の仕事。ためらわず命を賭けろと命じるのが私の務め。……すまない。妙なことを言ったな。」
「いいえ。」
 リアは頭を振った。机の上に積み上げた書類を取り上げると、アイキが照れ隠しのようにぶっきらぼうに言う。
「これを持って行け。先ほど、複写を頼んだ。ロキ隊、ダール隊の船の装備一覧と、彼らの参加した作戦の詳細記録、それから参加した演習の内容。奴らの手の内を読むのに、多少は役に立つだろう。」
「ありがとうございます。」
 リアが書類を受け取ろうと手を伸ばす。ふと、アイキの表情が曇った。
「なぁ、リア。私はどこで間違えたのだろうな。私は奴らに……居場所を与えてやったつもりでいて。……何を間違えたのだろうな。」
 消え入りそうなその声に、リアは伸ばした手をびくりと一度、止めた。
 アイキが総司令に就任して以来、側にずっと控えていた。そのつもりだった。だが、こんな弱音を聞いたことはなかった。
 いつも自信に満ちた総司令。
 ――ばかな。この人だって人間なのに。泣きたい日もあっただろうに。俺は何を見ていたのか。
 リアは書類を受け取ろうとしていたその手を、そのまま伸ばし、アイキの腕をつかんだ。そして強引にアイキの体を引き寄せると、一瞬、かみつくように唇を重ね、抵抗する暇を与えずに抱きすくめる。アイキの手にあった書類が、乾いた音を立てて石造りの床に落ちる。
「リア、」
 リアの胸に顔を押しつけられながら、くぐもった声でアイキが訝しがるように呼ぶ。この人はこんなときにまで総司令の声を出すのか。リアはさらに腕に力を込めた。
「総司令、こんなことになるのなら、いっそ、」
 そこまで言って、リアは言葉を詰まらせた。自分が何を言いたかったのか、分からなくなる。
 ただ、脳裏にロキの不敵な、笑わない目を思い返していた。
 ――あの日、あの薄暗い牢獄の中で、ロキに帰順を勧めなかったら。
 ――ザール知事の助命請願の手紙を、この手で握りつぶしていたなら。
 ロキは大海賊としての誇りを擲って、国王陛下の前に忠誠を誓った。それは国王への忠誠ゆえではない。アイキ総司令、他ならぬ、この人のためではないのか。それなのになぜ――今日、この人を捨てて出ていった……?!
「いっそ、」
 もう一度、言いかけてまた言葉を失う。黙ってリアの様子をうかがっていたアイキは、少し落ち着きを取り戻した声で、言った。
「リア、必ず無事に帰ってこい。リスナに。」
「――はい。俺は必ず、総司令のいらっしゃる場所に戻って参ります。」
 リアは掠れた声で言い、そして腕を開いた。アイキは赤面して、リアを見ることができないように俯いたままあわてて書類を拾い、手渡す。四十も半ばのリアは、さすがに狼狽えた表情を顔に出すこともなかったが、気まずそうに微笑んで、アイキに敬礼を捧げた。
「では、総司令。全てはご命令のままに。」
 どこかふざけた調子を含みながらも、穏やかな声でリアはもう一度、敬礼をする。ようやく目を上げたアイキが頷くのを確認して、彼は退出していった。
 静けさを取り戻した執務室。
 アイキはベッドに腰を下ろし、自分のかさついた唇を人差し指でゆっくりなぞってから、理由も分からないままため息をついた。
 そして食べかけの弁当に再び手を伸ばした。
 何もかもが分からなくなってきそうだった。




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