□ 十五 □


 アイキ贔屓の元リスナ知事ザールと、宰相の一派である現リスナ知事カーベルの尽力の甲斐あって、アイキは全く責任を問われずに嵐の中を生き延びた。宮廷でどのような駆け引きがあったのかは分からないが、切れ切れに伝え聞いたところによれば、リスナ総司令の責任を追及する動きはあったらしい。
 その中心人物は、急に勢力を拡大してきたバイザー元宰相の息子、バジルという男である。
 バジルは四十にようやく手が届く程度の、中央宮廷では比較的若い部類に入る文官ながら、父親譲りのなかなかの切れ者ぶりを発揮し、ザールやキュー宰相をすでに牽制するだけの力を付けている。父親の持つ人脈をそのまま引き継いだ上に、噂が確かならその容姿は貫禄と美しさを兼ね備えており、性格も気さくで気配りが上手く、カリンの妃であるリーナにも気に入られているそうだ。
 今までリーナやその出身国シャイナの後ろ盾を武器に、政権を維持していたキューにとって見れば、今、王太子妃リーナの信頼をみすみす失うわけにはいかない。ようやく王太子カリンの即位に実現の目途が立った矢先なのだ。
 だが、リーナとバジルの急接近の理由をアイキに尋ねられ、カーベルは深く気落ちした口調で、頭を振って応えた。
「聞かない方がいい。」
「そうは言っても、」
「いや、聞かない方がいいこともある。」
 そう言ってから、カーベルはアイキを正面から見据え、平静を取り戻した口調で言った。
「あぁ、いや、貴女にも聞く権利はある。ただ、あまりにも残酷な、」
「そう言われるとますます気になります。」
 宥めるようにアイキが重ねて尋ねる。カーベルは先ほどの気落ちした様子とは全く異なる、しかし哀しげな目でアイキを見、伏し目がちに言った。
「リーナ様にあの男はこう讒言したらしい。『キュー宰相が弁護しているリスナ総司令は、以前、王太子殿下のお気に入りだった』などと……。しかもね、アイキ、リーナ様はそれを信じただけじゃなく……いや、それは本当の話だから、信じるのもしょうがない。だが、あの男はさらにこんなでたらめを吹き込んだらしいんだ。『リスナ総司令は、自分の恋人を奪い取ったリーナ様を恨んでいる』と……『いつか奪い返してやるつもりで、虎視眈々と狙っている』とね。さすがにそこまで鵜呑みになさりはしなかったようだが、最近はどうも、リスナ贔屓のキュー宰相への風当たりが急に強まったと聞いている。」
 アイキは言葉がなかった。
 宮廷の決定に一言も逆らうこともなく、私はあの日きっぱりと身を引いた。それ以来、何も後ろめたいことはない。なのに、どうしてこんな……。
 目の前が一瞬真っ白になった。
 自分は、また宮廷の覇権争いに巻き込まれつつあるのだろうか。
「すみません。私のせいで宰相閣下の立場が、」
 精一杯絞り出したアイキの言葉を遮るように、カーベルが口を開く。
「いや、いいんだ。貴女が悪いのではない。貴女がリスナの人々の絶大な支持を受けているおかげで、キュー宰相はリスナの動向を気にすることなく宮廷内部の敵と戦うことができるのだからね。宰相は貴女の忠誠心を買っておられる。この抗争は中央に任せておいて構わない。とにかく今は、自分の仕事に全力を尽くしてくれ。」
 アイキが結果を出すこと、それがバジルの足下を揺すぶり、知事カーベルの背後にいる宰相キューの立場を固めることになる。今、アイキができることは他にない。
「分かりました。全力を尽くします。」

 ロキが離脱してから十日近く経っていた。リアや内海の沿岸都市から寄せられる報告は、リスナだけではなく首都ニールにも同時に届いているはずである。報告はさまざまであったが、その意味する内容は、解釈次第でアイキに有利にも不利にも働きそうに思われるものであった。
 ――首都の沿岸警備隊の船が襲われた。
 第一報はそうであった。その後も次々と暗い話題が続く。
 ――王室御用達の商人達が送り出した大規模商船団が襲われた。
 ――首都近郊の兵舎から金品を強奪された。
 ――沿岸都市の役所に火をかけられた。
 どの事件も、まるで王室やビディア国軍をあざ笑うような「見事な凶行」であったという。詳細を聞きながら、アイキは何度となく吐き気を覚えた。
 だが、リアの部隊からの報告が届き始めると、様相は一変する。
 ――海賊船はリスナ海兵隊の船を見かけると、瞬く間に雲を霞と消えた。
 ――どうやら、海賊船はリスナ海兵隊を恐れている。
 噂が広まると、各都市がこぞってリアの部隊に救援を求め、多くの船団が護衛を要請した。当然、その風評は首都にも届き、リスナ隊が優秀であるから逆賊が逃げてゆくのだという評価と、実は逆賊とリスナ海兵隊は裏でつながっているのだという非難とが激しくぶつかり合った。
 とにかく、早く手を打たなくてはいろいろな意味で問題が悪化する。
 アイキは特殊装備船の作り直しに着手した。以前の作戦とは全く違う装備、陣形をさまざまに試行錯誤し、ついにロキ離反の三ヶ月後、満を持して内海へと出撃することを決定する。ロキの海賊団を一網打尽にする秘策を持って。
 不思議なことに、と言うべきであろうか、ロキ達が内海で「暴れていた」三ヶ月の間、民間人の被害者はほとんどなく、被害があったのが国軍や王室関係の組織ばかりで、また、リアの部隊も逆賊達と火花を散らす程に接近することもなかったのである。
 その事実は、「何かある」という予感を人々に与えずにはいられなかった。
 それがリスナ海兵隊の実力なのか、ロキ海賊団の陰謀なのか、あるいは両者の共謀なのか……その予感は人それぞれであろうが。
 アイキ出陣の噂は、すぐさま内海の沿岸都市に広まった。
 その噂を聞きつけたものであろう。出陣の前の日に海峡警備隊から高速船による連絡が入る。
 ――海峡を越えて海賊船が外洋へ逃げ出した。
 海峡警備隊はアイキの指示を受けて、出ていこうとする海賊に手を出しはしなかった。報告によればその船団は九隻。リスナを離脱したときよりも、二隻多い。
 おそらくは、元から内海に巣くっていた海賊を配下に収めたのではないか。
 リアはアイキにそう語った。
 ロキ海賊団が内海から出て行ったという情報は、一応は安堵をもってリスナの人々に迎えられた。
 ――とにもかくにも外洋に出たなら、少し対策を練り直さねばなるまい。
 アイキの決定に、
「奴ら、命拾いしましたな。」
 端から見ていて不思議なほどにロキに批判的であったケツァルが、ため息混じりに応じる。
 おそらく潔癖な彼には、裏切り者を許すことはできないのだろう。元よりアイキへの忠誠と信頼の厚いケツァルである。アイキが満を持して彼らを討つのなら、作戦の成功を疑う気はなかっただろうし、はっきりとけじめを付けておくことが何事にもよろしかろうと思っているらしかった。
「命拾いをしたのは、私かもしれない。」
 アイキが自嘲気味に笑うと、ケツァルは嫌そうな顔をして薄く口を開き、そして何も言わずにまた厳しく唇を一文字に引き結んだ。その様子は、軽口を叩くサナをきつく咎めるときのそれに似ていた。
 ロキの魂胆が分からないまま、首都を初めとする内海の諸都市は不安から解放され、アイキの名声と疑惑とはない交ぜの状態でともに高まっていた。

 ロキが外海に出てその後行方知れずとなって数ヶ月、冬がもう終わろうとする日のことだった。
 執務室には昼の日差しが深く入り込んでいたが、それはすぐにでも沈んでゆきそうなぐらい、南西に傾いている。話があると言って執務室を訪れた三姉妹の長姉ルーンは、少し緊張した面持ちでアイキの勧めた椅子に腰を下ろした。
「珍しいな。ルーン。改まって話があるなんて。」
 アイキにとってもルーンは姉のような存在である。リスナ出身の文官と結婚してからは、毎日手伝ってもらうことができなくなったとはいえ、やはり彼女らはかけがえのない家族である。一緒にいることが心地いい。彼女の二人の子供達は、アイキにとっても姪と甥のように思われた。
「少し真面目なお話ですから。アイキお嬢様。……いえ、リスナ総司令ウィンズ家のアイキ様。」
 その言葉に、くつろいだアイキの視線が急に鋭くなる。
「総司令としての私に話があるのか?」
「えぇ。だから少しは改まって。」
 いつでも手厳しく、どこか冷たい口調のルーンであるが、今日はいつも以上によそよそしい。どう対応していいものか判じかねて、アイキは座り直した。
「これは私の個人的な意見ではなく、リスナ知事の配下にある文官達の総意だとお考えくださっていいことなのですが。……副首都の総司令官ともあろう者が、書類や弁当箱を小脇に抱えて大通りを走りまわるのは、総司令としての自覚にいささか欠けるのではありませんか。」
 二三度、アイキは瞬きをした。
「みっともないか?」
「はい。少なくとも知事配下の、口さがない連中はそう言っているようです。」
 そこまで聞いて、アイキはふっと、肩の力を抜いて笑みを浮かべた。
「なるほど。ルーンの御夫君からの情報か。」
「……えぇ。まぁ。」
 ルーンの他人行儀は、夫の話をするときの照れ隠しであろうか。思えば、夫の話をするときにはいつも、必要以上によそよそしい。
 傍目から見ても仲のいい夫婦であるし、子供の話をするときにはこんなに照れたりはしないのに、夫に限ってはこうなのか。
 大人びて冷静なルーンの新しい一面を見たように思って、アイキは思わず声を漏らして笑った。
「なんですか、アイキ様。いきなり笑ったりして。」
 少しルーンは赤面したようにさえ見えた。アイキは口元を指先で押さえるようにして、笑いを押さえつけ、
「いや、すまない。御夫君のおかげで文官達の考えていることも分かるというのは助かるなと思ってな。」
 と、正直な感想を口にした。
 ルーンの夫であるグレンは、リスナ生まれのリスナ育ちで、中央の文官登用試験を受けて派遣された官僚ではなく、現地で採用された、いわば生え抜きの「リスナの役人」であった。中央から来た文官達の思惑は、知事のそれに左右されやすいが、リスナの生え抜きの文官は、中央の政権闘争によってすぐに人材が入れ替わるようなものではなく、上層部がどう代わろうともほぼ同じ顔ぶれで仕事を続けている。だからこそ、彼らの意向を知る必要があったし、同時によそ者である知事や総司令には、彼らの思惑を探りにくい面もあった。
「そうか。彼らは私が駆け回っているのを、見苦しいと思っているか。確かに大都市の守備軍団総司令ともあろう者が、と言われてしまえばそれまでだ。でも、」
「駆け回るなと言っているわけじゃないんです。彼らだって、総司令にずっと総司令部の執務室でふんぞり返って欲しいわけじゃない。アイキ様を慕っているという意味では、地元の文官達だって、武官達や、街の人々に負けません。みながアイキ様を慕っているからこそ、そう望んでいるんですよ。」
「だけど、それはムーンが、」
「ムーンがお弁当を作るのは、それは当たり前です。ケティ様にそう指示されているんですから。でも、何もかもを自分で抱えて走らなくてもいいじゃないですか。」
 むきになったような自分の口調に、ルーンは思わず苦笑する。
「私が言いたいのは、秘書を使ったらどうか、ということなんです。他の者でもできる仕事は他の者に任せてみたら、アイキ様はご自分の仕事に専念できますでしょう?」
「秘書か。」
 アイキはようやくルーンの言わんとすることを理解した。なるほど、ルーンの言うことにも一理ある。アイキ付きの兵士というのがいないわけではなかったが、彼らは常にアイキの側にいるわけでもなかったし、日替わりで別の兵士が勤めていたから、すれ違うことも多かった。それならばいっそ、専属の秘書を雇ってみるのもいいのではないか。
「なるほどな。ではニールから来た食客の誰かに頼んでみるか。」
 アイキがリスナに移ったときに、首都ニールに置いてきた実家の食客達は、アイキが総司令としての地位を固め、一つの勢力を築いたのを見て取ると、ぞくぞくとリスナにやって来た。もちろん、アイキがリスナに飛ばされたのを見て、ウィンズ家を見限った者もあった。だが、それはほんの一部の者である。
 母ケティは、食客達がともにリスナに移住しようと誘っても、決して頷くことなく、数名の食客達に囲まれて首都に住み続けている。
 ――実母がニールを捨ててリスナに移れば、リスナ総司令アイキは首都に対する未練が全くなくなる。未練がない首都に反旗を翻すのは時間の問題だ。
 そんな噂がないわけではない。リスナに来た食客の一人が肩をすくめてそう語った。その噂を聞けば、どうしたってケティのような気丈な人間が、リスナに引っ越せるはずがない。引っ越せば娘の立場が悪くなるだけでなく、不要ないざこざが起こるのは目に見えている。
「食客達でもいいかもしれませんが。」
 ルーン達三姉妹も、ウィンズ家の食客であった男の親戚である。だから彼女たちも、食客とは馴染みの深い。
 だが、言葉を選ぶようにルーンは言った。
「自分の子飼いの部下を使うのは、いつでもできます。それより、地元の人間を使ってみては?地元とのつながりはとても重要です。それはなによりご存じでしょう。」
 知らないはずがなかった。アイキがこの地位で安心して強気な行動を起こせるのは、リスナの人々が自分を支持していると感じているからだ。
「誰が良いだろう?」
 アイキの問いに、ルーンは落ち着いたほほえみを浮かべた。
 自分が適任者を推薦するつもりで来ていることを、この聡明なお嬢さんはご存じなのだ。
 それが長年の付き合いから生じた間合いであり、いつでもとても心地よかった。
「こんなときに身内を推薦するのもどうかと思うのですが、夫の甥に二十過ぎの双子がいます。彼らは、他のリスナ生まれの者たちと同じように、リスナを愛し、総司令であるアイキ様への忠誠心にかけては、武官達に勝るとも劣りません。ただ、少し変わったところがあるので、それがお気に召すかどうか。」
「変わったところ?」
「お会いくだされば分かると思います。」
 笑みを浮かべたまま、ルーンはそれ以上何かを明かす気はなさそうだった。
「ルーンが推薦するのだから、心配することはないな。いいだろう、その双子を秘書として雇ってみよう。」
「いえ、一応、お会いになってから決めて下さい。私だってちょっと自信がないのです。彼らがアイキ様に……気に入っていただけるかどうか。」
「ルーンにしては気弱な言葉だな。まぁ、いいや。ルーン、彼らとは明日の午後、この時間に会おう。」
 ルーンが退出した後には、冬の日差しは既に薄く黄色がかって、葉を落とした木々の間を滑るように過ぎていった。
「それでも日が長くなった、かな。」
 一人小さくつぶやくと、ルーンが来る前にいじっていた片づけかけの書類の束を小脇に抱えて、ケツァルの執務室に向かう。
 こういうところが、形式を重視する文官達に嫌われていることは、薄々感じてはいた。だが、自分には自分のやり方がある。そう思って押し通してきた。
 ルーンだとてそれを知らなかったわけではあるまい。しかしわざわざ改めろと言ってきた。確かに自ら進んで評判を落とすような真似をすることはない。
 むきになったようなルーンの口調を思い出しながら、アイキはやはり秘書を雇おうと決めた。
 自分には姉がいる。そのなんとありがたいことか。




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