□ 十七 □



 リスナ知事がカーベルからバジルへと交代したころから、外洋に出たまま行方不明になっていたロキの海賊船が、また目撃されるようになっていた。警戒を強めたリスナ総司令部はたびたび船を出したが、彼らと接触ことはできずに手をこまねいているしかなかった。
 しかし、薄気味悪いことに、海賊船は目撃されるだけであって、商船団や海峡警備隊に被害があったという話は聞こえてこない。海賊団の存在は誰の脅威にもならなかった。王室は彼らをそのまま放置して横行するのに任せていた。
「どうも船の数が、十一どころではないようですよ。また増えたようです。」
 リアの報告を受けて、アイキはさすがに胸騒ぎを覚えた。
 そもそも、海賊団が誰の脅威にもなっていないというのはおかしい。いつかどこかでどんでん返しが待ちかまえているのではないか。やつらは、じりじりとこちらの感覚を麻痺させて、隙を衝いて大勝負を仕掛けてくるのではないか。
 執務室で俯いて熟考するアイキを、遠くから真っ直ぐな視線でリアが見つめている。
 ロキが出て行った日以来、決してリアはアイキに触れようとはしなかった。その生真面目さが嬉しくもあり歯がゆくもある。もちろん、「何か」を期待しているわけではない。部下と上司の信頼関係さえあればいい。逆に言えば、それを妨げるものは一切不要である。アイキとて、もう若い小娘ではなければ夢見る乙女ではないのだから。
 ――ウィンズ家は自分の代で途絶える。そのことは母も了解済みであろう。
 そうつぶやいた日、ムーンがどこか哀しそうに小さく微笑んだのを思い出す。

 とにかく、船の数が増えている海賊団の動きに注意するに越したことはない。アイキは新任の海峡警備隊隊長を呼び出すと、一応の対策を講じることにした。
 現在の海峡警備隊隊長はフランクという年若い――アイキよりも若い――男であった。彼が初めてリスナ港に現れたとき、たまたま居合わせた女達は声を上げてその姿に見とれたという。そんな噂がついて回るほどのかの美男子は、軍人でありながらラピスやルビーに負けないぐらいの華奢な体つきをしており、眼差しが鋭いことを除いては、甘ささえ感じさせる容貌の持ち主であった。
「総司令殿。初めてお目にかかります。」
 彼は士官学校でアイキの二年後輩だと名乗った。アイキは覚えていなかったが、校内で有名だったアイキのことを、フランクが忘れるはずもない。
 自分が副首都で司令官をやっているのは、自分の業績によるものではない。だが、自分より年若い者が、海峡警備隊の総司令官になる時代が来ているのだ、という事実は複雑な気持ちをもたらした。
 もう、自分はそれだけの年を重ねてきているのだ。
 自分の同期の者達も……そしてカリン国王陛下も。
「そうか、ジーンが親衛隊で、」
「はい、ゆくゆくは親衛隊長であろうと。」
 それでも同期の者の消息を聞くのは嬉しかった。それが良い消息ならなおさらである。一番親しかったジーンが親衛隊長として活躍しているという事実。カリン国王の信任も厚いのだという。それが素直に嬉しかった。久し振りに都での暮らしを思い出して気分が高まるのを感じた。
 アイキと同期だった者は、決してリスナに配属されることはない。それどころか、アイキとの接触がほとんどないように配置されていた。万が一、アイキを擁したリスナの部隊が謀反を起こしたときに、ともに動くことがないようにという配慮であろう。それはアイキにとっては首都や昔の日々を思い出さずにすむためにありがたくもあった。だが、やはり一抹の寂しさを感じないと言っては嘘になる。
「総司令殿が首都へお送りになったさまざまな報告書は、いつも感心して読ませていただきました。私は当然、陛下への忠誠を尽くす者でありますが、海峡警備隊隊長として、リスナ総司令殿の作戦行動指揮下に入ることを栄光に思っております。総司令殿、どうぞよろしくご指導ください。」
 フランクの淀みない言葉は、軽薄さや世辞の臭いもせず、不思議な真剣さを伴って投げつけられてきた。ここまで「真っ直ぐな人間」、悪く言えば「単純な人間」は武官でも珍しい。潔癖性ではあるが実は世慣れているケツァルに比べても、随分と擦れていないように見える。いつでもかすかに煙草の匂いを漂わせていることも、アイキの周囲には珍しかった。
 フランクの姿を垣間見てから、リスナ市民の間ではバジルとフランクの容姿についてどちらが優れているかを語り合う者が多くなった。
「バジルさまは貫禄があるし、上品だから。」
「いやいや、フランク隊長の方が上だろう。何しろ、神の使いのように美しい。」
 ある者はバジルの美丈夫ぶりを口を極めて称え、他の者は飾ることのないフランクの天性の美貌を誉めた。それはアイキを支持する海峡警備隊と、アイキに敵対するリスナ知事との対立の縮図のようでもあったが、表面的にはバジルは極めて紳士的にアイキと接していた。少なくとも人々の目があるところでは、アイキを立てるような振る舞いさえした。
 もちろん、それは権謀術数に長けたバジルのことである。
「うちの父親は若いころ、アイキの父親に助けられたことがあったそうだ。だから父は、国王陛下を誘惑した貴女に目をつぶって、こんな名誉職に就けてやった。貴女の父親、ダンという男に免じてね。もうそろそろいいだろう。アイキ。もう八年もこんな仕事をやっている。名誉職なんだし、貴女の花道を折角用意してあげたんだから、花道がきれいなうちにそろそろ身を引いたらどうなの。」
 初めに会った日に、彼は当たり前のことを告げるようにそう勧告した。それでもアイキは動じることなくそのまま自分の職務を守ったし、初めからバジルが自分を徹底的に引きずり降ろす心構えであることが分かったのは、むしろ気楽でさえあった。しかし数日後、バジルは急に態度を変えた。
「貴女の職務報告、今まで八年分かな、読ませてもらったよ。なかなかどうして、かなりのものなんだね。陛下が貴女を庇い続けるのが分かるよ。これだけの能力があって、まぁ、曲がりなりにも文句も言わず、忠誠を尽くしているわけだからね。陛下はアイキを悪く言う奴がいると、まぁ、そういう奴もいるんだけど……陛下はむきになって怒るんだ。アイキは決して自分を裏切ったりしないってね。」
 バジルは一度言葉を句切ってアイキの反応を見てから、こう続けた。
「陛下がそうおっしゃるわけだね。貴女の勤めぶりを見たら私も全く同意するほかない。」
 リスナにおけるアイキの評判を聞き、また彼女の戦績を見て、アイキを追い落とすよりも、自分の手駒にした方が賢いと判断したのであろうか。あるいは初めからこう豹変するつもりで、切り出していたのかもしれない。
 いずれにしろ、敵対関係にあるか、味方かなら良い。このような接近を試みられる方が、アイキにとっては対応が難しかった。それを見越してなのだろうか。バジルはそれ以降、アイキの様子を窺いつつ、味方のような顔をして振る舞っている。演技なのか演技ではないのか分からなかったし、分からないように振る舞っているに違いなかった。おそらくバジルはそういう男なのである。
 しかしそれ以上にバジルの言葉はアイキを縛り付けた。バジルの執務室にいた間はほとんど心に響かなかったものが、自分の執務室に戻るなり、急に胸を締め付けられるように全身を支配した。
 ――カリン陛下が自分を庇って……むきになって……バジルに、あるいはリーナ妃に抗弁しているのか?
 ――本当の、本当の話だろうか?
 ――自分の忠誠心をくすぐるために、あの男は何か陰謀のために嘘をついているのではないだろうか?
 風の強い日であった。窓に大きな枝が上下に揺れている影が映っていた。

 アイキより先に結婚はしないと言い張っていたトゥーンも、結局、結婚して総司令の宿舎を出ていった。今ではムーン一人がアイキの側に残っている。
「いいよ。私に気を遣わなくても。」
 アイキは笑いながら何度も繰り返した。
 おそらく誰が見ても、三姉妹の中で一番容姿の美しいのはムーンであったし、彼女の穏やかさは上品で魅力的である。
 ――他の二人が結婚したのだから、ムーンに浮いた話がないはずもない。
 アイキはいささかでばがめめいたことを考えながら、自分を気にかけてくれるムーンの優しさにどこか後ろめたさを感じていた。ムーンはおっとりと笑う。
「私が出ていってしまったら、誰がアイキ様にご飯を食べさせるのです。」
 確かにアイキは料理はうまくなかったし、作るのもそれほど好きなわけではない。しかも自分で料理をする時間などとれそうにもない。だが、
「そんなに心配しなくても、料理人を雇えるぐらいには収入はあるんだから。」
 アイキはそう言って笑った。ムーンは一瞬アイキの表情を見入って小首をかしげ、それからふと視線を逸らした。
 ――毎日嫌な顔一つせずに家事をこなしてくれているムーンに対して、「他の者を雇うから出ていって良い」などと言うのは、もしかすると、いやもしかしなくても、ひどい言葉だったのではないだろうか。
 慌てて弁解しようと開きかけた口を、ムーンの言葉が押しとどめた。
「だってアイキ様。どんな上手な料理人だって、アイキ様にご飯を作ることができても、アイキ様にご飯を食べさせることはできるとは限らないのですよ。」
 そして一転して自信にあふれた笑顔を見せる。
「さぁ、残さないで食べてくださいね。」
 いつでもムーンの作る料理は特別美味しいが、特別多い。食べきれないような量を毎日作られて、閉口する日がないわけではない。だがつい忙しさにかまけて食事を忘れがちなアイキを、追いかけ回してでも食事の席につかせるなどという大変な仕事は、並の料理人には確かに無理であろう。ムーンの尽力のおかげで自分の健康が保たれているのは間違いない。
 それが彼女の矜持であるのなら……その矜持に甘えることが許されるのなら、ムーンが側にいてくれることは、何よりも心強かった。テーブルから視線を上げれば、ムーンがじっとアイキの口元を見ていた。
「ね、今日の煮付けは美味しいでしょう。だしがいいんですよ。今日の煮付けは。」
「あぁ、美味しい。」
 血がつながっていなくても、実のところは主従に他ならない関係だったとしても、家族というのはありがたいものだ、とアイキは思わずにはいられなかった。
「ありがとう。ムーン。」
「なんですか、いきなり。」
 おっとりと笑って、ムーンは布巾を片手に台所に戻っていった。




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