□ 十九 □
ケツァルがリスナに戻る前年の夏のこと。
ようやく残暑の陰りが見え始めたころ、三ヶ月に及ぶ東方戦線支援に出ていたリア隊が、作戦を終えてリスナに帰港した。予定されていたよりも一日以上早く到着したために、普段なら部隊を港で出迎えるアイキは、知事との懇談の最中であった。早めにその会談を切り上げて港に駆けつけると、普段なら何をおいてもすぐにアイキを見つけだして報告に来るはずのリアの姿がない。兵士達が船から荷物を運び出す活気に溢れた港。アイキはリアを探して辺りを見回した。そこへ、今回の作戦の副責任者であるクリオラが兵士達をかき分けて走ってくる。
「アイキ総司令、ご報告を。」
「あぁ、クリオラ。お疲れ様。みな、怪我はないか。」
「それが、」
クリオラはアイキより六つ年上の女性である。がっしりした体躯はアイキに負けないたくましさであったが、どこか豊満な女性の色気を漂わせていた。戦場から戻ってきたままの薄汚れた恰好でも、「女」を感じさせる雰囲気がある。
しかしクリオラにはあまりその自覚がないらしい。少なくともアイキの見る限り、ただひたすらに忠誠を尽くす武骨な武官である。
眉を寄せ、声を潜め、言葉に迷うクリオラ。アイキの胸に何かざわざわした暗い影が走る。
「……ご報告いたします。作戦自体は全く問題はなく、全て計画通り遂行いたしました。が、昨日、外洋を航行中に、見知らぬ海賊の船団に襲われました。リア副指令を初め何人かの兵士が怪我をして、今、治療を受けています。」
「……怪我はひどいのか。」
「リア副指令は命に別状はないとのことですが、二人ほど、かなりひどい怪我をした者達がおります。」
「そうか、」
何かを言いかけて、ふとアイキは口をつぐんだ。いつでも指示を受けられるようにと待機していたラピスとルビーの二人が、ちらりとアイキの表情を伺う。リア隊の帰還を聞いて、今日は非番であるルビーまでもが港に控えていた。
総司令は怪我人の見舞いにいくのだろうか。それとも海賊襲撃に対して何か指示を出すのか。
だがアイキはそのまま頷いた。
「クリオラ隊長、怪我人についての報告は了解した。作戦の報告も頼む。」
「は、今ですか。」
「簡潔にでよい。詳細は後日、書面で提出してもらうから。」
少し狼狽えたように秘書官達の顔を見てから、クリオラはアイキに三ヶ月の作戦の報告を始めた。クリオラも三隻の船を指揮する隊長である。突然の指示であっても、作戦の結果報告程度で狼狽えることはない。だが、これだけ大きな作戦の責任者になったのは今回が初めてであり、また、本来ならばリアのすべき仕事であったから、ときおり話が錯綜して言葉に詰まった。
「その時……いえ、違います。その日の午後……。」
「記憶の範囲で構わない。」
「は。申し訳ありません。後ほど記録を確認して書面で改めてご報告いたします。」
ラピスが報告の一部始終を書き留めるので、クリオラはそれが気になるらしく、ラピスの手元を覗き込むようにして何度も言葉を切った。
「報告、ご苦労。作戦への尽力に感謝する。」
クリオラの肩に軽く手を置く。その手にびっくりしたように目を上げたクリオラは、小さく頷いて謝意を表した。
「……話が前後するが、今回の海賊船というのは、初めて見る船だったということだな。」
「はい。少なくとも、あの……反逆者達の船ではないようでした。」
自ら発した反逆者という言葉に、クリオラはふと戸惑った様子を見せたが、すぐに言葉を継ぐ。
「あまりに急なことでしたので対応が遅れ、被害を出しました。しかし、こちらが反撃を開始すると、力の差を感じたのか、すぐに姿を消しました。海兵隊もこれ以上の被害を防ぐためにあえて追わず、リスナへの帰港を急ぎました。」
「怪我人がいたからな。それで予定よりもだいぶ早く戻ったのか。」
「はい。船医が怪我した兵士達の治療に当たりました。リア副指令だけは、応急手当だけ受けて甲板に戻ったそうです。」
クリオラの言葉にアイキは小さな瞬きを繰り返す。
――リアは……そんな無茶をする者ではない。あの慎重で冷静なリアがなぜ。
「リスナに戻るまでは責任を持って指揮を執ると。兵士達が何度も止めたようですが、頑として聞き入れようとはしなかったそうです。」
自分の咎を語るようにクリオラは俯いた。
「副指令は、リスナの……総司令部の白い建物が見えたとき、崩れるように倒れたとのことです。現在、治療を受けています。」
「……そうか。」
海賊船にリスナ海兵隊が襲撃されたなどという事件は、アイキが総司令に就任して以来およそ初めてのことであった。ロキに沈められたあの船を除いて、リスナ隊の船が海賊に危害を加えられたことはない。リスナの人々の心の中には、「ロキに沈められた船だってアイキ総司令が指揮を執っていれば、あんな無様に負けはしなかったはずだ」という思いがあった。
――アイキ総司令がいれば海賊に負けるはずがない。
そんな海賊を軽んじる気持ちがどこかに働いていたのかもしれない。
「疲れているところで報告を頼んですまなかった。今日はゆっくり休んでくれ。後の片づけは私が指揮を執る。作戦に参加した兵士達も、もう休ませてやってくれ。」
「は、ありがとうございます。」
きびきびとした動作で敬礼をすると、クリオラはアイキの前を立ち退いた。数歩行ったところで振り返り、少しだけアイキの表情をうかがうと、また慌てて頭を下げ、去っていった。アイキはラピスを振り返り、尋ねる。
「今日のこれからの予定は、どうなっている?」
「と、申されますと?」
「怪我した兵士達の見舞いに行く時間はあるか?」
ラピスは形だけ予定表を覗くようにしてから顔を上げて言った。
「急ぎの用件は一件もございません。」港にある小さな医務室は、救急患者を一時的に臨時収容するためのものである。狭いだけでなく、お世辞にもいい設備であるとは言えない。
血の臭いが充満する部屋。ときおり微かなうめき声が聞こえてくる。リスナを少し離れれば、海は戦場である。ラピスは小さく咳をした。
光ばかりが強くあふれている部屋にアイキが姿を現すと、医務室付きの兵士達が一斉に立ち上がり敬礼をした。それに気づいた負傷者も慌てて立ち上がろうと、動かない体を動かす。
「すまない。そのままでいい。楽にしていてくれ。」
医務室はざわめいた。アイキには彼らの体を癒す術はない。だが、総司令の訪問によって生きたいという強い思いをかきたてられたかのように、不思議な活気が静かに部屋にみった。
一人ずつ、名前を呼ぶ。声をかける。側に歩み寄る。
アイキにできるのはたったそれだけのことにすぎない。
中にはアイキの呼びかけに気づかずにただ横たわる者もおり、付き添う兵士に支えられて立ち上がり敬礼を捧げた者もあった。
一番奥のベッドにリアの姿がある。ゆっくりとアイキは歩み寄った。兵士達が静かにアイキの一挙手一投足を見守っている。
リアは眠り続けていた。
「リア。」
耳元で呼んでも全く反応がない。
「リア副指令。リア!」
もう一度、リアの名を呼ぶと、唇を噛んでアイキは医務室を後にした。動かせる負傷兵から順に、総司令部の病棟に移すようにと医師達に指示を出し、作戦に従った船の後かたづけを指導するために港に戻った。翌日、総司令部の病室に患者が搬送されたとの報告を受け、アイキはまた見舞いに出かけた。総司令部の病室は、港の医務室に比べてはるかに環境が良い。
兵士達は四人一部屋の病室に収容され、リアは個室に眠っている。昨晩のうちに二人の兵士が亡くなった、という。
「生き残っている兵士達は全員峠を越えました。」
と医者達はそうアイキに告げた。けれどもリアの意識は戻っていない。
リアの病室を訪れると、リスナ軍一の女医と讃えられるレインがリアの顔を覗き込んでいた。
「まだ目覚めないか。」
アイキの声に、レインは苦笑しながらアイキに椅子を勧める。
「総司令殿。この患者は怪我がひどいのではないのです。ひどく頭が悪い。それがいけないのですよ。」
小さく声を立てて笑う。
「怪我をした後に、信じられないような無茶をしたせいです。出血も傷も致命的な状況ではありません。昏睡の原因は過労です。尋常ではない体力と回復力の持ち主ですから、きっと今日明日のうちに起きると思いますよ。」
アイキの後ろに控えていたルビーが安堵の溜息をついた。
「しかしこういう馬鹿は死んでも治りません。困りますよ。」
そう言って、レインは眠るリアの額を拳で小突く。
「助かる傷でも、自ら寿命を縮めるような真似をされては。私のような名医にもこんな馬鹿に付ける薬はありません。」
アイキは苦笑した。
――リア副指令も形無しだな。
だがレインの言葉は心強い。医者がこれだけ軽口を叩くのであるから、リアの容態は本当にそれほど深刻ではないのだろう。小さく微笑んで、アイキはレインに告げた。
「意識が戻ったら教えてくれ。」女医がアイキを呼びに来たのは、その夕方のことである。病室にアイキを案内しながら、レインは言った。
「あの馬鹿の意識が戻ったのは、総司令が部屋を出ていってすぐのことだったのですよ。」
蝉の声が石造りの壁に響き、四方八方から降るように聞こえている。
「総司令殿、あの馬鹿は目が覚めてすぐに何を言ったとお思いですか?『総司令のもとにうかがわなくてはいけない。今回の作戦のご報告をしなくては』ですよ。体も起こせない状態で。」
呆れた口調ではあったが、言葉の端々からはどこか安堵の色が見え隠れする。
「そのうち諦めるだろうと思って放っておいたら、担架で連れて行けとか喚き出す始末で。本当に馬鹿は死ぬまで治らないものですよ。」
彼女はリアとほぼ同世代である。士官学校でも接点があったために、気楽に軽口を叩きあう仲であった。だが彼女の遠慮ない言葉はリアに対するものだけではない。誰にでも遠慮のないレインは、年若い兵士達には密かに恐れられたりもしているが、同時にそのあけすけな性格でリスナの人々に深く愛されてもいる。
「副指令殿は、アイキ総司令の配下になってから変わりましたよ。なんというか、馬鹿になりました。私には信じられません。彼がどうしてこんなに馬鹿なのか。」
そう言うと愉快そうに声を立てて笑ったが、表情は硬かった。病室に入ると、二人の兵士に付き添われて、リアが神妙な表情で座っていた。
「リア、ご苦労だった。怪我はもう痛まないか。」
「痛いは痛いですけれども、ほとんど問題はありません。」
リアの座るベッドに向き合うように、レインは椅子を置いて、アイキに勧めた。そして自分は壁際の椅子にどっかりと腰を下ろす。
「ご心配をおかけしたようで、申し訳ありませんでした。」
「いや、危険な目に遭わせてすまなかった。すまない。」
「そんな、総司令が悪いわけでは。」
どこか狼狽えたように、しかし精一杯穏やかにリアがとりなすと、その様子を見ていたレインが口先だけに笑みを浮かべて目をそらす。アイキの指先が首筋を忙しなく叩いた。そして言葉を探す。
「リア副指令。」
「は。」
「どうか……私に無断でいなくなったりしないでくれ。リスナには……私にはリア副指令の力が必要なのだから。」
自分を支えてくれる者に、感謝を伝えなくてはならない。その力が必要だと伝えなくてはならない。そうでなくては伝わらない。言葉にしなくては気持ちは伝わらない。
途切れ途切れに言葉を選ぶアイキに、少し驚いたリアは柔らかい笑みを返した。
「大丈夫ですよ、総司令。私は必ず総司令の元に帰ってくると、以前、お約束したではありませんか。もっと信頼してください。私には他に帰る場所などないのですからね。」
その言葉に、アイキは少し照れたように小さく笑って頷いた。
「ありがとう。」アイキが執務室に戻った後、レインは随分長い間無言で座り込んでいた。だが急に我に返ったように立ち上がると、笑いながらリアをからかう。
「総司令殿は副指令殿を随分と気に入ってらっしゃるようですね。」
「やめてください。レイン先輩。総司令は俺のことなど眼中にないんですよ。」
レインの目を見ることなく、ベッド際の壁にそのまま寄り掛かりながら、リアはつぶやくように反論する。
「総司令の目は今でもまだロキを追っているんです。俺はロキの影に過ぎない。俺がロキのように突然いなくなってしまのではないかと、不安だったのでしょう。」
「ロキ?……あぁ、海賊上がりのロキ隊長か。」
予期せぬ男の名前に、レインは一瞬戸惑い、すぐにそれが誰であったかを思い出す。
「俺は必ずリスナに帰ってくる。俺はロキにはならない。」
「うん?」
「……俺はロキにはなれない。」
レインはリアの頭を軽く叩くように撫でて笑った。
「お前が思っているほど、あの方はつれない方でもないさ。あの方はきちんとお前を見ている。副指令殿、もっと総司令殿を信頼しなさい。」
それから背を向けて、棚の薬瓶をいくつか取り出した。
「しかしこんなに成り上がっておきながら、お前の馬鹿は昔から変わらないね。」
「そうですか。」
「少しは変わったかと思ったけど……変わらない。馬鹿は死ぬまで馬鹿のままか。」
リアは複雑な気持ちで俯きながら苦笑した。
レインは心からリアを心配している。だからこそ総司令への過剰な忠誠心にも不安を感じている。それは痛いほど分かっていた。だが、自分には他に道がない。
部屋が静まると急に蝉の声が四方から湧き上がってきた。