□ 二十 □
アイキは、バジルからリスナを守ることで手一杯であった。
――リスナ知事からリスナを守る。
それはアイキのように宮廷の勢力争いに関心がない人間にとっては、極めて奇妙な事態であった。だがそれでも、自分を庇ってくれるザール宰相のためにも、アイキは知事からリスナを守らなくてはならなかった。正確に言えば、リスナがバジル知事の支持基盤にならぬよう、目を配っていなくてはならなかった。
バジルが五年の任期を終えるときまでの日々は、アイキにとって慣れない綱渡りの連続であった。宮廷工作の牽制などできるはずもない。そればかりか、気が付けば彼の陣営に取り込まれそうになっていたり、人気取り戦略の旗振りを務めかけていたりと、振り回され続けている。
――これではザール宰相も手を焼くわけだ。
尊敬の念さえ抱いて、アイキはリスナ知事の言動を眺めていた。
――たとえこの男の力を削ぐほどのことができなくとも、せめてリスナぐらいは守り切らなくては……。
何とかその五年間を乗り切ったのは、その思いが彼女を突き動かしたからに他ならない。
そして、バジルが中央に復帰したのは、アイキが三十八才になった冬のことであった。翌年の秋には既にザールは宰相の地位を追われていた。
ザールを追い落としたのはバジルではなく、ドルファという男である。鷹派という意味ではバジルに近い位置にあったが、バジルのようにシャイナ国との同盟を重視しようとはせず、全ての国に対して覇を唱えようという極端な鷹派である。リーナ妃の政治への介入と、それに伴う彼女の母国シャイナ国の干渉に、反感を覚えていた文官は少なくない。それを放置しているザールを追い落とせば、異国の勢力を排し、カリン国王の権力を強化できる。今までは日の目を見ることさえ少なかった、いわば極右のドルファをあえて擁立した一派にはそのような思惑があったものらしい。
「バジルにとってもそれは悪い話ではなかったんだよ。」
宰相を退いたザールは、迷うことなく政界を引退し、アイキを頼ってリスナに隠居した。そのとき渋るアイキの母ケティをリスナまで伴っている。
――これ以上首都に住んでいれば、身の危険が及ばないとも限らないし、母を人質の取られていては、アイキも思うように動けまい。
そう言って、ザールはケティを説得したらしい。まるで何かを予期しているような言葉だった、とケティは困惑したようにそのときの様子をアイキに告げた。
もちろん、母が来たことは嬉しい。年老いた母を一人で首都に住まわせておくよりも、そばにいてもらえる方がはるかに幸せである。
だが、ザールの言葉が心の奥に引っかかるのを感じずにはおられない。アイキはザールに尋ねた。
「バジルに悪い話ではなかったとはどういう意味です。バジルとドルファ殿の主張は対立しているではないですか。ドルファ宰相はシャイナ国にまで攻め入って領土を拡大することさえ視野に入れて、軍の配備を検討していると聞き及んでおります。」
「そこが政治の複雑なところだね。」
ザールはアイキの言葉に何度も頷きながら、穏やかに応じた。
リスナに隠居したザールは、楽隠居と口にしながらも、精力的にアイキの相談役となっていた。呼び出さなくともときおり総司令部に顔を出し、雑談に重要なアドバイスを織り交ぜる。宮廷の状況、文官たちの思惑。アイキにはなかなか手に入らない数多の情報が、ザールによってもたらされることは、ありがたいと同時に、宮廷工作などと無縁なアイキにとってさまざまな意味で衝撃的であった。
「リーナ妃があんまり国政に口を出すのは鬱陶しいと思っていた連中がドルファを担いだ。でも連中は荒療治としてドルファを持ち上げて見せただけなんだ。あんまり干渉すると、大変なことになるからもっと大人しくしていてくださいと、リーナ妃に伝えたわけだ。極めて乱暴な方法でね。もちろんシャイナ国を敵に回すと、我が国もやっていかれないことぐらい文官たちは分かっている。」
「じゃあ、ドルファ宰相は、」
「体のいい御輿だね。悪く言えば捨て駒だよ。もっとも彼はそこのところを理解していないみたいだけどね。」
アイキは黙ってしばらくザールの表情を見つめた。そして少し掠れた声で言う。
「では、バジルはドルファがすぐに消えると見越して協力している、と。ドルファ宰相が追いつめられた後、その反動で、シャイナとの和平を守ろうとする潮流が生まれる。それを利用して上りつめて、」
「ご名答。アイキも随分、小狡くなったものだ。」
ザールは汗を拭いながら笑った。もともと恰幅のよかった彼の姿は、ニールから戻ってきた後、見違えるように小さく見えた。
総司令の執務室の窓から、歌うような鳥の声が聞こえている。
「私の宰相としての最後の大仕事は、ジンジャーをリスナ知事にすることだった。」
冗談めかしてザールは何度もこう言った。
「バジルが帰ってくれば、私は宰相の座を追われる。それは考えるまでもない事実だった。だからせめて、私の志を継いでくれる者に後を託したかった。」
文官達は派閥単位で行動する。そして派閥の中には必ず師弟関係が存在する。同じ主張を抱き、同じ理想の実現に奔走する仲間。それが派閥である。そして派閥同士の勢力関係で政治が動く。師が宰相になれば、弟子の出世も望めるのである。
ジンジャーはザールの弟弟子である。ザールの師であるカーディン元宰相の最後の弟子。ザールと同じくカーディンの志を継ぐ者。カーディンが政界を引退して以降、彼の一派を率いたのはザールであった。だからザールから見れば、ジンジャーは弟弟子であり、自分の弟子も同然の存在である。バジルとの政争に挑める者を考えたとき、ザールはジンジャーを選んだ。
「蹴落とされる前に、知事任命が間に合って良かったよ。まさか、ドルファに蹴落とされるとは思ってもいなかったけどね。」
小さく声を上げて笑うザール。リスナ知事であった十年前には、こんなに表情豊かに笑う人とは思わなかった。
「ジンジャーにはリスナで力を蓄えて、いつかバジルと戦えるような器に育ってほしい。それだけが長い文官人生を歩いてきたザールという男が、今、ビディアのために祈るたった一つの望みだ。……ああ。それから……ともに戦った戦友であるアイキが、これからも自分の道を進めるように、それもね。」
――ジンジャーならば、いつか政権を奪い返せるかもしれない。リスナを地盤に首都を奪回できるかもしれない。
ザールの隠居には、実際のところ、アイキを支え、ジンジャーを支え、首都に対抗できる勢力を副首都に築き上げるという、生臭い理由が秘められていた。
アイキにとってジンジャーは、ロキに襲撃された船を指揮していた文官だという記憶が鮮明である。それ以外は、ザールの仲間ということぐらいしか知らない。ジンジャーがリスナに赴任してきたとき、二人は顔を見合わせて感慨に浸った。
あの日から十年が経っていた。