□ 三 □
……このまま、いつまでも目覚めずにいたい。目を閉ざしたままであれば、ここがどこで今日がいつで、一体今何が起こっているのかを思い出さなくてすむから……。
本能的な何かが、重い体を一秒でも長く眠りの淵に沈め続けようとしていた。見たくない現実から逃れようとしていた。しかし、現実はそこに厳然として在るもので。
揺れ続ける床、すえた臭い、自分にかぶせられた毛布、気が付かぬ内に消えた大男の気配。
浮かびかけの意識の中で、おぼろげに連想がつながって、アイキはようやく体を起こした。男が持ち去ったのであろう、灯りはない。振り返り手を伸ばせば、置いた場所そのままに大切なあの小箱は残されていた。
持って行かなかったのか。分からない男だ。
持ち上げればその細かい細工が小さく光る。暗くとも多少の光は入ってきているらしい。夜明けが近いということか。目が慣れてくると、部屋中のがらくたの輪郭がぼんやりと浮かんできた。
鼻が麻痺しているのか、すえた臭いも昨日ほどは感じられなくない。毛布のかび臭さ、男の臭い、とにかく生臭く気分が悪くなるようないろいろな臭いが立ちこめていたが、それさえももうどうでもいいと感じられる。嗅覚など放棄してしまった方がいい。どうせなら視覚も聴覚も何もかも、捨ててしまえればいい。布に包んだままの小箱をぎゅっと抱えていると、堪らなく惨めな気分になってきた。壁の薄さを考えれば泣く気にもなれず、だからといって腹を立てたり寝直したりするような気持ちにもならず、アイキは呆然と薄闇の中で目を見開いて、気の狂いそうな惨めさに耐えていた。
むしろ惨めさより悪臭に苦しむ方がまだましだった。そういえばあの男の手は海のニオイがした。手だけでない。全てが海の気配に満ちていた。
とりとめのない思考に苛まれながら、アイキは何か他のことが起こるのをじっと待っていた。あるいはこのまま明け方の薄闇が永遠に続いて、時の進みが全く止まってしまわないものだろうかと、叶うわけもない望みをあれこれ連ねてみたりもした。
今はどの辺りにいるのだろうか。海峡を越えるとき、警備隊に見つかるとどうなるだろうか。警備隊に見つからなければどうなるだろうか。そのまま外海に逃れて、知らない国に行くのだろうか。リスナの海兵達が網を張って待ちかまえているだろうか。それともまだ、我々の船団が壊滅したことを知らないでいるのだろうか。
唐突に、金属を激しく打ち鳴らす音が、甲板から響いた。
「起きろぉ。起きてとっとと準備しろぉ。海峡を突破するぞぉ。とっとと配置に付けぇ。」
いつもの起床の合図なのだろう、男達が欠伸をする気配、怒鳴り合う声が、一斉に扉の隙間から飛び込んでくる。狼狽える様子もない。彼らは人の裏をかいて生きているのだから、意表をつくような行動は、とっさの正確な判断の元にしか生まれないのだから、誰かの判断が下されればそれに瞬時に応える能力が必要とされている。そういうわけなのだろう。
他に考えることができたのが、アイキにとっては何よりも嬉しかった。まだ明け切っていない海峡を突破するつもりなら、かなりの確率で成功するだろう。警備隊が海峡の全てを常に見張っていることなど不可能だし、内海の海賊掃討作戦を生き残ったこの海賊達は、抜け道を見付けるのが恐ろしく上手いはずだ。あの掃討作戦はどうやって逃げ切ったのか。あるいは掃討作戦以降に、海峡を突破して、内海に入っていたのか。
シャイナ国王女との結納の儀式に差し支えがあってはならないと、国王は国を挙げての治安回復を命じ、内海をはじめ、ビディア国沿岸の海賊はほとんどが追い払われていた。その作戦の成功に気をよくしたものか、最後の最後で手抜かりがあったというべきか、結納の品を運ぶ船はあまりにも身軽に過ぎたわけなのだが。
シャイナ国との和平を反対する者たちの妨害もなく、結納の儀式自体はつつがなくすんだのだ。国王は敵対していた隣国との和平が有利に進む上に、思わぬ国宝の贈呈を受けて、終始上機嫌であった。反対派は隣国が国王の油断を誘って、隙をつくつもりなのだと陰口をたたき合い、宰相ら和平派は、このまま首都に贈り物を置いておいては反対派が何をしでかすか分かったものではないとささやき合う。そんな中、宰相カーディンの提案で、結納品がリスナの博物院に収められると公表されたのは、結納の儀式の直後のことであった。内海に面した首都ニールとは異なり、副首都リスナは外海に面した巨大な貿易都市であり、各地の文化が流入し交換され発信されている世界有数の文化都市でもある。リスナの博物院に置くのであれば、王の手元に国宝――装飾品であるとのことだが、アイキは興味がないので詳しくは知らない――を置いておかれないにしても、シャイナ国に対して申し訳が立つ。その上、現在リスナの政治に携わる者たちは、和平推進派の宰相の思惑を反映して、穏健派で固められていたから、首都で保管するよりもずっと安全であろうと思われた。
宰相閣下はことを急ぎすぎたのかも知れない。あと数日待てば、もう少しましな船団を用意できたであろうに。
今更ながらアイキは唇をかむ。海峡を抜ければそこは広大な外海であり、リスナの誇る優秀な海兵達が追ってきたとしてもなかなか捉えられるものではない。今、この船は海峡を突破する。現在地の把握は、アイキの決意を根本から揺がせた。
もしかしたら、もう、リスナにこれを届けることはできないのではないか。宰相閣下の……王太子殿下の信頼に背くのではないか。
……いや、そんなはずがあるか。海峡を突破したところで、問題はない。むしろリスナに近づいているのだ。この船は。
「全力前進!」
いつの間にか頭上が騒がしくなっていた。ギシギシと船がたわむような音を立てる。海賊達が船を漕ぎ始めたのだ。彼らの呻くようなかけ声と、手加減なく打ち続けられる太鼓の拍子と、甲板を走り回る荒々しい足音とがひっきりなしに聞こえた。薄暗い空気が、光を帯びた靄に変わってくる。張りつめた緊張が漲る。壁が共鳴して震え出す。緊張で冷え切った右手で左手首を強く握ると、血管が浮き上がるように強く脈打っているのが分かった。その、女にしては無骨で厳つい手で、アイキは髪を縛り上げ、小箱を抱えたまま、白木の木箱を元の位置に戻す。ロキが蹴り飛ばしたためか、座ると軋んだが、少しゆがんだだけで、そのまま安定して壊れる様子もなかった。
扉に目を向けたまま、どのくらいいたのだろうか。船室に響くさまざまな音を聞いているつもりでも、我に返ると全く何も聞いていないように思われ、だからといって何を考えていたのかも思い出せず、嫌でも疲れを意識せずにはいられなくなった、ちょうどそのとき、扉が音を立てて少し押し開けられた。櫓の軋みはいつの間にか聞こえなくなっている。太鼓の震えもいつの間にか止んでいた。
海峡を過ぎた……のか?
ずきん、と心臓が疼いた。そこへ、
「起きてる?朝飯、持ってきたんだけどさ。」
サナが相変わらず軽快な様子で入ってくる。手には湯気の立つ何かお茶らしきものと、だいぶ固くなったパン、それから小さなリンゴ。無造作に床に置くと、振り返った。
「おい、ティル、どうした?入ってこいよ。」
「どうしもしねぇよ。そんな狭い部屋、三人も入れるかよ。」
ぶっきらぼうに応えながらも、少年が顔をのぞかせた。
「よぉ。」
彼の瞳には昨日とは違う親しみに似た色が映っていた。
「このリンゴ、お嬢ちゃんのためにこいつが用意したんだ。こいつ、ばかだけど、実はちょっと優し……」
「うるせぇ、俺はただ、」
慌てて遮るティルを振り返るサナの目は、からかうようでもあり、見守るようでもあった。
「昨日の夜、頭がなんか、あの、ひどいことしたみたいだから。なんか、それに、俺も昨日、ひどいこと言ったし。それに、」
アイキは微笑んだ。なるほど、少年の目に見え隠れした親しみは、同情だったのか。憐憫だったのか。だがそれが屈辱的だとは思わなかった。
「すまない。」
アイキの笑みの意味はおそらく、正確には伝わらず、アイキ自身にとってもその笑みが何だったのかは説明の付けようがないのだが、少年ははにかんだようにそっぽを向いた。食欲どころか体の感覚が全て鈍り去り、目の前の食べ物がくすんだ絵のように魅力なく見える。それでも重い腕を伸ばし、リンゴを摘み上げてみる。
「ティル、お前、リンゴ剥けるか?」
がらくたの山にもたれかかるように座って片膝を抱いていたサナが、斜めにティルを見やりながら尋ねた。
「あ、あぁ。で、でも、あんまり……。」
戸惑いながらも、少年はアイキの手からリンゴを取り上げ、お気に入りらしきナイフをまた取り出して、自分のシャツでごしごしと拭う。
「それ、お前の服の方も結構汚ねぇんじゃないの?」
「うるせぇ。ごちゃごちゃ言ってると刺すぞ。」
アイキの方に視線を走らせながら、にやりと笑ってサナは肩をすくめた。少年は自分の手元に夢中で、薄暗い部屋に小さくなって、懸命にリンゴと格闘している。上目遣いにティルの様子を確認して、もう一度薄い笑いを浮かべると、サナはあぐらを組んで前のめりに肘をついた。
「昼過ぎにはリスナに到着する。頭はお嬢ちゃんをリスナで降ろすつもりだ。もちろんその箱も一緒にな。」
「どういうことだ?」
アイキが口を開く前に尋ねたのはティルだった。リンゴから目を離すことなく、少し間延びした口調で口を挟む。
「どういうことって、そういうことだよ。頭はお嬢ちゃんにほだされちゃったってわけ。」
薄く開いた口を閉じようともせず、アイキは事態を把握するために、疲れて痺れ始めた脳を何とか動かそうとする。
「博物院ってリスナの西の端だったっけ。だったら、港に正面から入るより、西の岸壁に無理矢理船を横付けして、崖よじ登った方が手っ取り早いな。」
「こいつじゃ登れねぇよ。崖なんか。」
「まぁ、俺が背負って登ることにすれば、平気だろ。」
「本気なのか。」
ようやくアイキが言葉を発した。
「あぁ、平気平気。お嬢ちゃんぐらい軽く担げるよ。」
「そうじゃない。本気で、宝物庫にこれを収めさせるつもりなのか。あの男が、どうして、」
サナは全く調子を変えることなく、陽気な声のまま返事を返した。
「頭は自分のしたいようにする人だからな。今からお嬢ちゃんがいくら頑張ったって、頭にこのお宝を盗ませるこたぁ、たぶん不可能だね。俺らだってなんで急にそんなことになったのかは知らねぇけど、頭が決めたんならそうするさ。海賊ってのはそういうもんだ。頭の気まぐれには付き合うし、みんな気まぐれだし、なぁ、ティル。」
少年はすっかり生暖かくなったリンゴを差し出した。受け取りながら、アイキは少年の目を見た。
「ありがとう。」
「いいから食えよ。」
ゆっくりとその生暖かい果実に歯を入れると、優しい甘みが染み出すと同時に、ティルの唾を飲み込む音が響いた。
「私は半分でいい。残りを食べてくれないか。」
苦笑を隠しつつ、アイキが尋ねると、少年は素直に目を輝かせる。彼はリンゴを取り返すと、ナイフで器用に二つに切り分けてから、ふと困ったようにサナを見たが、サナは手を振って要らないと笑った。
「特使はどうするつもりなんだ?」
「あぁ、あのおじさんね。一応、リスナに停泊している間は人質としてさらされてもらうけど、それが終わったらどっかで落とすつもりなんじゃないかね。連れて行っても何にもならねぇし。殺す必要もねぇし。」
「そうか。」
気づくと、ティルは既に自分の分を全て呑みこんでいた。アイキの手の中には、まだ二口しかかじっていないリンゴが残っている。
「食べるか?」
少年は一瞬、ためらってから、
「要らねぇよ。とっとと食えよ。」
と、先ほどのサナの手を真似するように軽く動かしながら応えた。
「さて、俺達も飯だ。お嬢ちゃん、悪いけど、適当に食っておいてくれよ。」
「すまない。」
戸口からティルを押し出し、自らも体半分を扉の向こうに置いたまま、サナが振り返って言った。
「すまなくないさ。そんなにすまながってばかりいるのは、やめろよ。」
そして自分の言葉が可笑しいかのように肩をすくめて笑って見せ、扉を力ずくで閉じ、去っていく。閉ざされた扉を見据えて、アイキは今の会話を反復していた。何を考えているのだろうか。ロキという男は。
白木の箱に座って、いつの間にかアイキは微睡んでいた。腕が膝から落ちた拍子に、はっとして目を開けると、眠気はさらに体に重くのしかかる。箱を取り落としてはならない。壁を背に、床に座り直してから、アイキは膝を抱えて少し眠ることにした。