□ 二一 □
ドルファの政権は案の定、二年と保たず、バジルが宰相に座に上りつめた。
――穏和なカリン国王は、宰相との間に波風を立てないようにと気を配っていらして、全く政治家としての役割をなさない。それに比べてリーナ妃は立派だ、自分の意見を宰相にぶつけ、正面から議論をなさるだけの器量をお持ちだ。
人々はそう評判した。バジルは宰相として、軟弱な国王を支え、聡明なリーナ妃を補佐して、混迷を極めた政局を整理し、泥沼の中にある各地の戦線に打開策を与えるはずであった。シャイナとの同盟を強化し、東方の砂漠地帯を取り返す。それは百五十年前の戦争で奪われた土地を取り戻すための戦いである。騎馬民族達による不当な占拠状態を打破するため、今こそ、強い決断が迫られていた。
「アイキだって、異民族を憎いと思うだろう。」
リアが怪我をした直後、当時リスナ知事であったバジルは、当たり前だという顔をしてこう言い放った。
「あの砂漠の奴らさ。我等が補給路を断ち、リア副指令にあんな大怪我をさせたのは、奴らの一味だろう。ただの金目当ての海賊だったら、わざわざ重装備のリスナ海兵隊なんか狙うはずがない。あんまりにも危険じゃないか。儲かるはずのない危険を冒す海賊なんかいない。ならば考えられるのは、当然恨みだろ。ビディア国を憎んでいるのは砂漠の奴らさ。馬鹿な奴らだ。」
心から蔑むようなようすでバジルは言ってのけた。なるほど、バジルの言うとおり、リアを襲ったのが普通の海賊であるとは考えにくい。けれど何か、バジルの言葉には不思議とアイキの心に引っかかるものがあった。
「やられっぱなしでは格好が付かない。アイキ、報復するんだ。」
あの日、興奮したようにバジルは言った。
「リア隊を襲った海賊船とやらを全部、こてんぱんに叩きつぶせ。そうして、奴らに思い知らせてやれ。ビディアに手を出したら、どんな目に遭うかっていうことをさ。」
「確かに不審な船が横行するのを放っておくわけにはいきませんね。」
「うん、そうだろ。徹底的に見せしめをする必要があるな。」
「見せしめ、」
「そう、見せしめ。だってアイキだって憎いんじゃないのか。リアはもう、左腕がほとんど動かない。あれは治らないだろ。よくなってきたって言っても、肩までしか腕は上がらないし、握力だって戻りそうにない。リアをあんな体にした奴らを許しておけるのか?それにさ、アイキを裏切ったあの海賊の頭、ロキっていったかな、あいつだってあの顔を見れば一目瞭然だろ、あいつも東方の野蛮人だよ。憎たらしいじゃないか。陛下への忠誠を誓っておきながら、裏切るなんて。」
アイキは黙ってしまった。ロキがビディアの民とは違う民族であろうとは、その彫りの深い面差しからも見当はついていた。だが、海の上ではさまざまな顔の者達とすれ違う。海洋都市リスナにはさまざまな出で立ちの人々が訪れる。その種々雑多な有様に、誰がどこの民族なのかなど、アイキにはなかなか判断できなかった。
――ロキはかの東方騎馬民族の者なのか。そうだとすればケツァルと同じ民族なのかもしれない。
いずれにせよ、アイキには、バジルの言葉に違和感を感じながらも反論をすることができなかった。本心を語ろうとすれば、その言葉は偽善的すぎた。黙り込んだアイキを見て、バジルは苛立たしげに付け加えた。
「アイキ。今のは提案じゃない、リスナ知事の命令だ。徹底的に奴らを叩きのめせ。見せしめのために。いいね。」
今やそのバジルは宰相になっている。
彼の意志が国政を左右する。王であるカリンは周囲の調和を何よりも気にかけており、王妃リーナはバジルを大いに気に入っていた。自らの地位をしっかりと固めるや否や、バジルはすぐさま東方戦線の拡大を画策し始めた。「私の戦線縮小の努力は無駄になったようだね。まるで、バジル宰相のために国力を蓄えていたみたいだ。」
その報に接したとき、ザールは自嘲的にそう言い、頭を振った。
「確かにあの七年近い間は、東方支援の作戦が少なかったですね。砂漠の兵士達も、どこか余裕があるように見えましたし。」
なんとかザールの気を軽くしようと、アイキは当時を振り返る。ドルファ就任以降、既に各地の戦線への支援行動命令が倍増している。東方戦線を拡大すれば、さらにその数が増えるだろうと思われた。
「私もビディアの民だからね。百五十年前の故地を取り戻すっていうのも、その栄光を自分の宰相の時代に再び見ることができたなら、と思わなかったわけじゃない。でも、東方の民から見れば、百五十年前の戦争でやっと自分達の祖先の土地を取り戻したと言っているんだろう?だったらこの奪い合いはきっといつまで経っても堂々巡りだ。お互いに自分たちの土地だと言い張ったってね。」
ザールが来ると、アイキは忙しい時間を割いてその話を聞く。時には知事館からジンジャーが駆けつけ、三人でいろいろと将来のことや自分の人生を語り合うこともある。武官の中で揉まれて育ち、しかも常に複雑な立場に立っていたアイキにとって、彼らは初めての「理想」を語りあえる「仲間」だった。
「憎しみ、恨みっていう感情は簡単だよ。きっかけなんてどこにでも転がっているし、集団の中で感染する。その人自身に憎む理由がなくても、たとえば会ったことのない同胞であれ、殺されたらしいと聞いたら、それだけで相手の国を憎むことができる。難しいのは許すことだ。許すっていうのは、集団では感染しない。自分自身の中でその心を作り上げなくてはいけない。」
「だから戦いは終わらないし、終わらない以上、また新しい戦いの原因である憎しみが生まれるっていうことですか。」
ジンジャーの溜息ともつかない言葉に、ザールは眉をひそめたまま頷いた。アイキは二人ほど議論に慣れてはいない。彼らの考え方にも時折違和感を感じる。だがどうしてもその違和感の先にある何かを知りたかった。
「ザール閣下、どうせ戦場に赴かなくてはならないのなら、やはりビディア軍に勝って欲しいと思うのは人情ですよね。」
武官には武官の貫くべき真実があると思う。拙い言葉であっても、それを語るのがザールらへの礼儀であろうとアイキは信じていた。ザールもアイキが発言しようとすると、それがいかにつたない言葉であり、かみ合わない理屈であっても、立ち止まって耳を傾けてくれた。
「それはね、アイキ、すごく難しいことだよ。私もずっとそう思っている。戦うのなら、勝って欲しい。兵士達が全員無事であって欲しい。それは結局、敵対している人々に死んで欲しい、負けて欲しいと望んでいることなんだね。だったら私はバジルの主張と何一つ変わらない希望を抱いていることになる。」
ジンジャーは黙ってアイキとザールの顔を見比べた。
「戦場では相手の顔が見えます。憎まなくては殺せません。」
「アイキ、私は聖人君子じゃない。確かに私だって、心のどこかで彼らを憎んでいるんだ。」
単刀直入なアイキの言葉に、ザールはゆっくりと言葉を選んだ。
「知り合いの武官が何人か、やはり東方戦線で死んでいる。仇だと思わないわけじゃない。仇をのうのうと生きながらえさせておくいては、彼らが可哀想だと思わないわけじゃない。でも、この不毛な鎖を断ち切りたいんだ。どこかで誰かが歯を食いしばって相手を許さない限り、おそらくお互いに許さない限り、終わらないんだ。そのためにはどうすればいい?」
「不毛な鎖を断ち切るためには?」
「すごく簡単なことなんだ。戦争をやめればいい。戦争をやめて、東方から兵を引き上げればいい。彼らと和平を結べばいい。誰も見ていない百五十年前の栄光なんて諦めてしまえばいい。そんな簡単なことだけど、できないんだよ。」
ジンジャーはまだ黙っていた。アイキも黙った。そしてザールの言葉の続きを待った。そんな夢を見るような言葉ばかりを並べていて、宰相が務まったのがアイキには不思議であった。
――この人には現実が見えているのだろうか。バジルの方がずっと説得力があり、現実的だ。
そう思いながらも、アイキは続きを待った。ザールもしばらくは黙って何か考えている様子だったが口を開く。
「たぶんね、何かを守るために戦うとか、奪うために戦うっていうのはとても簡単なことだと思う。憎しみを保っていればできるんだ。そして憎むのはすごく簡単だからね。難しいのは捨てることだね。憎しみを捨てる。過去の栄光を捨てる。それから」
「それから……誇りを捨てる、とか。」
アイキが小さい声で付け加えると、少し不思議そうにザールはアイキを見やり、それから頷いた。
「そう、誇りもだね。下手な誇りは不毛な意地の張り合いの原因になる。そこから戦争が起こることだって、珍しくはない。長い歴史を見ればね。」その晩、アイキはなかなか寝付けなかった。体は疲れ切っていたのに、閉じた瞼は重くて上がることはなかったのに、頭がさえて眠りが訪れない。繰り返し繰り返し、今日のザールの言葉、かつてのバジルの言葉、そして遠い昔のロキの言葉が巡った。
あの日。
ロキに囚われたあの日。
――誇りを捨てて見せろ。命さえ惜しくないなら、誇りなど簡単に捨てられるはずだ。本当にその覚悟があるのなら――
ロキの声が蘇る。
長い間思い出すこともなかった、あのすえた臭いのするほこりっぽい船室の様子が、鮮明に細部に至るまで記憶に残っている。あの炎天下の甲板でアイキを解放するとき、ロキは「儲かった」と言った。それが何を意味するのか、今でも分からない。窓に映る空が少しずつ薄明るい色に変わってきたころ、アイキは消えるように眠りに落ちていた。
バジルが宰相になった直後から、ロキの率いる海賊船の目撃情報が急増していた。だがそれでもリスナ船籍との接触は一切なかった。
――行き会った海賊達を次々配下に取り込んで、海賊船団はいつの間にか三十隻を越えている。
そんな噂だけがときおりリスナに聞こえていた。「親衛隊の副隊長か。」
いつものように煙草をくわえて、フランクは誇らしげに頷いた。
「やっぱりジーンさんはすごい方だったのですね。」
士官学校時代、同期で最も仲のよかった友達。そのジーンともリスナに赴任してから一度も会っていない。アイキは要注意人物扱いであったし、どこか気まずさも手伝って、連絡さえも絶っていた。フランクから話を聞くまではアイキはほとんどジーンの面差しさえも記憶の端から捨て去っていた。
「私も四十二だから、ジーンも四十二才、ということかな。」
「そうでしょう。それぐらいだと思いますよ。」
リスナ総司令に就任したのが二十六才のことだから既に十六年もの歳月が経っている。軍の上層部がアイキを見捨てたと初めに教えてくれたのはジーンだった。そのときが最後だった。顔を見てももうお互い分からないかもしれない。だがそれでも旧友が自分の路を順調に進んでいるというのは、何とも気持ちの良い話だった。バジルが宰相に就任した同じ年にジーンは国王親衛隊の副隊長になっている。
宰相バジルは五十一才。
その好敵手となるべく力を溜めているリスナ知事ジンジャーは四十九才。
先の宰相ザールは六十を過ぎ、国境警備隊のフランクは四十になったばかり、リスナ守備隊長コアは五十五才、リスナ海兵隊リアは五十四、そしてロキは五十二才。
「ジーンは……バジル宰相と近しいのか。」
バジルが宰相になった直後に、国王親衛隊の副隊長に昇進したのなら、ジーンはザールよりもバジルに近い位置にいるということか。武官は文官ほどはっきりした派閥構成にはなっていなかったが、それでもやはり文官達の勢力構図によって傷心は左右される。
――ジーンはバジル宰相を選んだのだろうか。自分にザール閣下を選んだように。
それが悪いことだとは思わなかった。だが胸騒ぎを感じて、尋ねずにはいられなかった。
「そういう話は聞いていませんけど、陛下はジーンさんを信頼しているみたいですね。」
フランクは何気なくそう言った。そして新しい煙草に火を付けるために目を伏せて煙草の先を見つめる。だが、フランクの言葉はアイキを動揺させるにはまた十分な言葉だった。
――どうして陛下の名が出ると、自分はこうも動揺するのか。
――陛下が自分の代わりにジーンを信頼している。
――自分がお側にいられないから、代わりにジーンを親衛隊に置いている。
そんな甘い夢がどこからともなく湧き上がってくることに、嫌悪感を覚える。未練というには奢りすぎていたし、いくらなんでもこの月日を越えてまで見るには愚かしすぎる幻覚だった。
――十六年。もう十六年も前のこと。
アイキは首を横に振る。
「すみません、煙がそっちに。」
アイキの仕草に、フランクは急いで煙草をもみ消した。
「いや、違う。フランク隊長、構わないから吸ってくれ。」
一瞬戸惑ったフランクだが、そのまま机の上に置いていた煙草の箱を懐にしまった。
「やはりバジル宰相を支持して、ザール閣下に反感を抱いている武官は多いですよ。総司令殿はかなり親しいみたいですが、リスナの連中の中にもザール閣下を快く思っていない者もいますし。」
「そうなのか。やはりな。」
その気配を感じていないわけではなかった。ザールは時として、その主張を声高に語るあまり、武官をないがしろにしてしまう。
「力で押し通さなくては通らない正義なんて、正義ではないのですよ。恥じなくてはならないはずです。武力でその正義を語ろうとしたことをね。」
あるとき彼はそう言った。武官であるアイキの前で、その武力を全て蔑むような発言をすることが、果たして相手にどう思われるかなど、彼は意識していないようだった。アイキはザールの性格を知っていたから、苛立つこともなかったが、フランク辺りが聞いたならば色めき立ったことであろう。そう思ったことは一度ではない。
「守るための戦いもありますよね。」
「そう、しかし力で守らなくては奪われてしまうようなものならば、やはりそこには正義はないのです。正義は言葉から生まれ、どんな立場の人間にもその言葉を通して分かち合えるものなのです。」
ならばその正義とやらで自分の身を守ってくれと、お前達のために命を懸けている前線の兵士達はどうなるのかと、バジルならうそぶいたかもしれない。
こんな夢ばかり見ている男が、どす黒い闇が渦巻いているあの宮廷の政界で、何度も何度もアイキの失策を不問に持ち込んだ。リーナ妃の結納の品を奪われかけたときも、ロキに逃げられたときも、ザールはしたたかにアイキを無罪だと証明してみせた。
不思議な人だ、とアイキは思う。あの夢見る理想家と辣腕文官が同じ人とは思われない。
だが、武官の中でこんなのんきなことを考えているのも、自分くらいなのかもしれない。
「ザール閣下は戦場をご存じないのですよ。バジルも口先だけですが、どこか兵士の心をつかむようなところがある。だからどうしても、中央の武官はバジル寄りになりますね。」
アイキには宮廷内部の文官の勢力争いの情報は入ってきても、武官達の動静まではつかみきれなかった。軍上層部は決してアイキに核心的な情報を与えなかったし、数少ない情報源であるザールが武官達の動きを軽んじていたのも確かであった。
「もちろん武官は、政争よりも陛下への忠誠心を重んじますから。そこが文官達との違うところですよ。文官達は陛下を邪険に扱ってでも自分を立てようとする。」
無意識にであろう、フランクは懐から煙草を取り出してくわえ、ふとアイキに目をやった。頷いてみせると、そのまま火を付ける。アイキにはフランクが言うほど、武官の動向が純粋なものであるとは到底思われなかったが、それでも文官達ほど派閥に翻弄されていないのも確かであろうと思った。彼らはおそらくそんなにややこしいことをするぐらいなら、力で目にもの見せてやろうと考える。文官が数の論理に踊り、権力者の顔色に媚びるのは、逆から言えば、武官ほど短絡的ではないということだ。
バジルが首都ニールで覇を唱え、ザールがジンジャーを擁して副首都リスナに腰を据えると、一時的に政局は安定した。フランクの言葉が確かなら、カリン国王はジーンなどの信頼できる部下を親衛隊に置いて、それなりの力を維持しているはずであるし、東方戦線の拡大も、ドルファ宰相時代に急速に拡大した各地の紛争を収拾して、国力を補ってからしか望めないために、今はバジルにも大きな動きがなかった。だがそれも時間の問題だろう。
バジルが動いたとき、どうなるのか。
ジンジャーやザールが阻止に入るのか。
カリンやリーナは宰相を支持するのか。
そのとき、リスナ総司令はどう動くのか。
「もちろん、陛下の仰せの通りに。」
ジンジャーの執務室で何かの弾みにそういう話になった。口を衝いて出たアイキの模範解答に、ジンジャーは苦笑する。
「そうだね。私だって、陛下の仰せがあれば従わざるを得ないだろうね。」
そのとき、ああそうか、とアイキは気付いた。
自分だったら陛下の命令には無条件に従う。だが、ジンジャー知事は陛下の命令に疑問を抱いたら、「それはおかしい」と主張するのだろう。それでもその命令が覆らなければ、仕方なく従うのだろう。
アイキとジンジャーの言葉の間には深い溝がある。
しかしアイキはジンジャーの姿勢も嫌ではなかった。それが文官的な考え方なのだと了解していた。そして。
――ロキの海賊船、どうも四十隻はいるんじゃないか?
副首都リスナに不穏な影が近づいていた。