□ 二二 □


 薄水色の布が総司令の執務室に届いたのは、ジンジャーがリスナ知事の任期を終えた直後であった。中央政界に復帰し、バジルの専政に待ったをかけようと帰っていったそのすぐ後に、総司令部にその布は届けられた。届けた人間はそれが何であるのかを全く知らない様子で、
「昨日、海峡付近の町でこれからリスナに行くと言ったら、見知らぬ男にこれを総司令に渡せと頼まれた。総司令に渡せば、すぐ分かるから、何も知らなくていいと。」
 リアに詰問されて、しどろもどろにそう答えた。何を聞いても要領を得ないため、リアも諦めて男を待たせ、アイキにその布を見せた。リアにもそれが何であるかは分からなかったが、何でありそうかというおぼろげな予感はあった。その予感が当たらないことを祈っていた。
「これはまた古い布だな。」
 初め、それを手に取って広げたアイキは、不思議そうに首を傾げた。何かを思い出せそうなその色合いに、ふと瞳が曇る。
「これは、」
 布の端には小さな文字が並んでいる。縫い取りの端は薄汚れて灰色になっており、その上から細かい文字が乱暴につづられていた。
「十日後、リスナを襲撃。命が惜しくば逃げろ。」
 声に出して読み、それからアイキは自分の手も唇も声も膝も、全てが震えていることに気づいた。
「覚えているか、リア。あの日、私が何を書いたか。」
 掠れた声で尋ねると、リアも表情を押し殺したような声で、いつもの穏やかさを失ったように冷たく答えた。
「三ヶ月後、内海で掃討作戦。近づくな。」
「そうだったな。あの日の布か。あの男は、この日のために今まで、」
 言いかけて自分が微笑んでいることに気づき、唖然とする。どうしたらいいのか、何を考えたら良いのかさえ分からなくなっている。混乱している。総司令室がしんと静まりかえった。
 頭を振ると、首筋をせわしなく神経質に人差し指で叩く。
 ――落ち着け、これはどういう意味だ。
 真夏であった。
 その夏は特に酷暑で、蝉の声だけが町に響いている。生きている物音といったら、暑さを助長するその張りつめた声だけ。こんな昼下がりには誰もが皆耳をふさいで昼寝をしていた。リアも仕事がなければ長めの昼休みをゆっくり過ごそうと思っていたし、ムーンが冷たい茶を運んできたのを知って、アイキも休憩しようとルビーに声をかけたところであった。そこへこの古ぼけた薄水色の布が闖入してきたのである。
 間違いなくこれは、十六年前、初夏のリスナ港で、ロキに渡させた褒美の小刀を包んでいた布である。
 ――三ヶ月後、内海で掃討作戦。近づくな。
 警告の文字は、同時に挑発の文字であった。
 ロキは迷わずその挑発を受けた。そして今、この布は再び挑発の文字を並べてみせる。もっとも今度は立場がまるきり逆転しているのだが。
 ロキからアイキへの挑発。
 あの頃はリスナ海兵隊の総力が三十隻なのに対し、ロキの海賊団は総勢七隻に過ぎなかった。今ではその数も逆転している。ロキの配下は五十隻とも六十隻とも言われているのだ。
「こんなものが……まだ残っているとは思いもしませんでしたね。」
 リアは無表情に言葉を紡いだ。
「ジンジャー元知事は、私を見るたびに照れくさそうに、あの日はどうもありがとうございましたと、言い続けていましたよ。疲労で足腰立たなくなっていて、抱きかかえられて運ばれたっていうのが、たまらなく恥ずかしい想い出になっていたみたいですね。」
 殊更関わりのない想い出を語りながら、ぬるまってきた茶をすする。夏の日差しは高く、部屋の中の暗さが際だって感じられた。もっとも実際はそんなには暗くないはずなのだ。蝉の声が止めどなく流れ込んであふれる。
「十日か。」
「本気でしょうな。あの男なら。」
 話に付いて行かれなかったルビーが、だいたいの見当を付けたらしく、身を固くして唾を飲みこんだ。肩の力を抜くように、大きく息を吐く。
「まずは知事殿に連絡を。それから首都へ。あぁ、ザール閣下にもご相談をしなくてはならない。……ルビー、ザール閣下をお呼びしてくれ。それからラピスは今日来られるか?」
「はい。」
「なら、ラピスに執務室で待機するよう、伝えてくれ。今ここで見聞きしたことは、他言無用。リアはこれを届けた男を帰してくれ。聞かれたら『何だか分からないが検討してみると言っていた』と伝えてくれればいい。」
 蝉の声が急に途絶えた。三人は一斉に立ち上がり、新たに茶を注ぎに来たムーンを驚かせる。
「すまない、ムーン、後でまたもらうよ。」
「アイキ様、こんなに暑い日に一日中駆け回っていては、伸びてしまいますよ。」
 のんびりしたその言葉に、小さくほほえみがこぼれた。今度は本心からの笑みだった。たとえ血のつながりがなくともこの大切な姉を守るために、何とか手を打たなくてはいけない。
 ――守るための戦いなど、きっとザール閣下は批判なさるだろう。
 ――だが、自分は武官だ。
 アイキはムーンに手を振って、知事館への路を走りだした。途中、ぶつかりそうになった当直の兵士に、
「コアを執務室に呼び出してくれ!」
 と叫ぶように頼むと、また身を翻して駆けていった。兵士はアイキの身軽な後ろ姿に、しばらく呆れたように見入っていたが、汗を拭きながらコアの執務室までのんびり歩きだした。

 新任の知事のダナンは、まだリスナの右も左も分からない状態である。人払いをしてアイキが事情を説明すると、真っ青になって動揺のあまり視線が定まらなくなった。バジルに近い鷹派の文官であるが、海賊船団に襲撃の予告をされれば、武官のアイキだって震えが走る。まして戦場に身を置いたことのないダナンが怯えるのはむしろ当然だった。
 ダナンは狼狽しながら、それでも賢明な判断を下した。
「全て総司令にお任せしますよ。私が出る幕ではない。とにかくリスナの民を守ってください。ビディアの平和を。」
 下手に口出しされることを恐れていたアイキは、ダナンの言葉に安堵した。今は中央の政局も、ジンジャーとバジルの覇権争いも全く眼中にない。十日後の命だけが課題であった。後でダナンがアイキをどう評価しようとも、その行動をどう中央に報告しようとも、今は黙って一任してくれるに越したことはない。
「何らかの手を打つまでは、一切他言無用です。よろしくお願いします。」
 今回の件に関しては、首都への連絡も自分で行いたかった。その旨をダナンに告げると、ダナンは自分の部下を使者として送って海賊船に襲われでもしたら困ると言い、無条件にアイキの提案を受け入れた。

 執務室に戻ると、アイキは次々に指示を出していった。どうしようかなどと悩む暇はない。いつか使おうと温めてあった戦略の中から、今できる最善の策を選ぶのみ。
 以前、バジルから押しつけられた昔の知事用船の改造を命じ、海兵隊の船長を全員招集し、フランクへも手紙を送る。首都へは長い手紙をラピスに口述筆記させ、そのまま彼に持たせて首都へ送り出す。
「すぐに帰って参ります。」
 真っ直ぐな目でアイキにそう宣言し、ラピスは船に乗り込んだ。まだ夕方と呼ぶには早い時間であった。
「手紙は間違いなくカリン陛下に渡してくれ。だがそれが無理ならすぐに諦めて、一日も早く戻るように。」
 アイキの言葉をかみしめて、ラピスは出港を命じる。
「ニールへ全速でお願いします!」
 華奢で頼りなく見える姿を軽んじる海兵はいない。リスナの海兵なら誰もが彼を知っていた。
 ――彼は総司令の右腕。
 大切な右腕を直々に首都に送るのだから、海賊襲撃に関係する用件に違いない。
 海兵達はリスナの誇りに賭けて全力で船を走らせた。普通なら四日かかるニールへの旅だが、高速船を使えば三日で着くはずであった。往復六日、ならば予告の日に余裕で間に合う。

 ザールは事情を聞いて、唇をかんだ。
「アイキ、やっぱり議論というのは無力なのだろうね。」
 恰幅のいいザールがやけに小さく年取って見える。
「でも……誰一人理想を叫ばなくなってしまったら、その理想は消えてしまう。理想がなくなったら、現実を変える原動力も、現実を生きてゆく希望も失われる気がするんだ。だから私は無力な理想にしがみついて叫び続けたかった。だけど……アイキ、こういうときには私は本当に役立たずだ。」
 アイキはザールの言葉を哀しく聞いていた。彼の本心がこうも哀しいものだとは思ってもいなかった。
 彼の理想や正義に自分は間違いなくすがっていた。戦争も現実だった。戦場で流れる血も、憎しみも悲しみも、全て現実だった。だが、目の前の現実以外の世界もある。それがアイキにとって不思議な魅力だった。
 ――おそらくザールは強いのだ。その言葉は今は無力であっても。
「ザール閣下……私は戦います。私が戦うことを決意したせいで、おそらく部下にも、敵にも、多くの死者が出るでしょう。また新しい憎しみが生まれるでしょう。ですが……私は閣下のお話をうかがえたことに感謝しているんです。」
 自嘲気味にザールは笑う。
「私はアイキほど強くはなれないよ。せめて邪魔をしないようにしよう。必要ならば首都へ渡りを付けるくらいの仕事はできるけれど。」

 時間は瞬く間に過ぎていった。リスナ総司令が海賊襲撃の予告を人々に告げ、陸路北方の町へ逃げたい者は、リスナ守備隊の指示に従って逃げるようにと指導すると、特に大きな混乱もなく、逃げる者は逃げ、留まる者は留まり、町は酷暑のまま、静まりかえっている。朝から手伝いに現れたルーンにアイキは書類をめくる手を休めて尋ねた。
「逃げなくていいのか。今回ばかりは守りきる自信がないんだけど。」
 ルーンはアイキの方を見ようともせず、窓を拭きながら
「総司令がそんな弱気なことを言ってどうするんです。いずれにしても私はアイキ様、貴女を見捨てて逃げるなんてことはしませんよ。私を誰だと思っているのです。妹を見捨てるような女だと思っておいでですか。」
 と、少しだけ苛立たしげに応じた。
 いくら手厳しい言葉を口にしても、ルーンはいまだかつて一度たりともアイキを妹扱いしたことはなかった。二十年以上側にいて、初めて妹と呼んでくれたルーンに、アイキは一瞬、言葉を失った。
「すまない。ルーン。」
 すぐ脇で隊長の一人、シルバーが何かを叫んでいた。リアが駆け抜けてゆく。総司令がぼやぼやと立ち止まっている暇はない。微笑んでアイキはルーンを見た。
「ありがとう。」
 ――守りたい。守らなくてはいけない。
 窓の外から突然蝉の声が降ってきた。

 総司令の執務室の前を駆け抜けていったリアは、医務室の扉が開いているのに気づき、ふと立ち止まる。中では士官学校の先輩であり、リスナ軍医の長であるレインが紙と睨めっこをしていた。
「レイン先輩、今、忙しいですか?」
 戸口から顔だけ覗き込む姿勢で尋ねると、女医は顔を上げ、海兵隊副指令を見た。
「相変わらずのんびりしているのね。こんな緊急事態でも。」
「そうでもないですよ。私は私で焦っているんですが。」
 穏和な笑みには決してそうは思わせない雰囲気があった。そして彼は左腕を軽く上げてみせる。三年前に海賊の襲撃で受けた傷は癒えていた。しかし握力が戻らないばかりか、左腕は肩より高い位置には上がらない。
「この腕、何とかなりませんかね。あと三日、思い通りに動いてくれたら、両腕とも二度と動かなくなっても、惜しくないんですけど。」
「何ともならないわよ。二度と動かなくしてあげるだけならできるけど。」
 レインは鼻で笑うように言った。医務室はいつでも雑然としているが、今日はとりわけ散らかっているように見えた。ここではここの戦いがあるのであろう。机の上の書類の束を一斉に避けると、向かいの席を指し示して、リアに座るように勧める。急ぐからと言って、リアはそのまま医務室を辞したが、それを見送りながらレインは舌打ちをした。
「あの馬鹿、総司令に殉じて死ぬつもりなのかしら。総司令も相当の馬鹿だけど、副官がそれ以上の馬鹿じゃあね。」
 ――戦争のために、戦場で人を殺すために、あいつの腕を治してやったわけじゃないのに。
 ――戦場に戻って死ぬために、動けるようにしてやったわけじゃないのに。
 口の中でつぶやきながら、レインはまた書類に目を戻す。当日の医師達の配置、港に何人置いて、民間人のために何人割いて、どこにどんな機材を運んで、そんな事務作業ばかりが目の前に山積していた。
「先生、皆そろいました。」
 奥の会議室から若い弟子が顔を出す。
「じゃ、始めようかしらね。」
 そこにはリスナに配属された軍医が集められていた。人数を確認し、レインは小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「全員いるわけ?どうして誰も避難していないの?ここは危ないのよ。分かってるの?」
 一同はレインの意図を読みかねて、ただ黙って顔色をうかがう。
「仕方ないわね。いい?昨日伝達したことをもう一度言います。リスナは三日後に海賊船団に襲撃されます。勝ち目があるかどうかは怪しい。数量的に見れば絶対的に不利。逃げたい人は逃げていいわ。もし逃げなければどうなると思う?残った人間は山のような怪我人を相手にすることになるのよ。しかも身の安全は全く保証できない。その覚悟がある人だけ残ってちょうだい。さぁ、避難する人は早く出ていって。」
 誰一人それに応じる者はいなかった。二十人の医師達は黙ってレインを見つめた。
「誰もいないの?馬鹿ね。」
「私達は武官であり、医者ですから。戦場を前に逃げ出したりはしません。」
 一人が毅然と言い放つと、またレインは鼻を鳴らした。
「戦場で医者がすることといったら何?もう一度人を殺させるために、殺されかけた人間を蘇らせることだわ。人殺しの道具を修理するなんて、それが医者のすること?」
「ではレイン先生、貴女はなぜ軍医をしているのです。なぜ残っているのです。リスナを守りたいからではないのですか。貴女だって私達と同じ気持ちのはずだ。」
「違うわ。こんな街、どうでもいい。」
 レインが医者達を見回す。しかし四十の瞳は瞬き一つせず、レインを見据えて黙っている。
「でも……この街にはとんでもない大馬鹿がいるから。この街を守ろうなんて馬鹿なことを考える人間がいるから。その大馬鹿者に付き合おうという物好きな人間がいるから。私は大馬鹿な総司令達を放っておけなかった。それだけよ。……私も大した馬鹿ね。」
 会議室に漲っていた緊張感が少しゆるんだ。年輩の医師が柔らかく言う。
「私達も同じですよ。」
 レインはその言葉には応えず、口先だけで薄く笑った。
「じゃあ、全員馬鹿みたいにここに残るのね。なら、とっとと仕事を割り振るから、馬車馬よろしく働くこと。ここに配置と担当を書いてあるから、各自確認して。でも現場では自分で考えて動きなさい。自分の判断を信じる。私はあんた達を信じる。」




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