□ 二三 □
そして予告された十日目の朝を迎えようとしていた。
まだ闇が深いリスナ港には、船は全て予定通りの位置に配備されている。いつでも出港できる状態である。頭にたたき込んである配置図をなぞるように、アイキは一隻一隻の船に声をかけて回った。誰もが「リスナのために」と真っ直ぐな視線でアイキに敬礼を捧げた。
アイキの船は港の中央に停泊している。全船を確認してから乗るべき船に戻ると、そこには自慢の黒髪をばっさり切り落としたラピスとルビーの姿があった。
「私達もお供させてください。」
アイキが口を開くより前に、二人は同時にそう言った。高く結い上げられ優雅に揺れていたあの自慢の髪を切ったのだ。腕や首にかけられた銀鎖はそのままであったが、やはりどこか、いつもの華やかさがない。あるのは真剣な眼差しだけであった。
双子の気持ちは痛いほど分かる。彼らはリスナに生まれ、リスナに育った。そのリスナが海賊に襲われるというのだ。
「今日ばかりはそうはいかない。」
気持ちは分かるが、連れて行くことはできない。一言のもとに切り捨てようとしたアイキに、二人は食い下がる。
「私達は総司令の秘書で、総司令の護衛です。」
「どうぞお供をお許し下さい。もとより総司令に捧げた命です。」
まくし立てる双子に苦笑しながら、アイキはやはり遮って言った。
「船と船の戦いだからね。砲撃戦だし、船の沈め合いだ。今日ばかりは護衛がいたところで仕方がないんだよ。」
「でも、でも、総司令、弓で狙われたら、壁の代わりぐらいはできます。」
「総司令が海に投げ出されたら、泳いで岸までお連れできます。」
しばらくアイキは苦笑を浮かべたまま、二人の顔を交互に見比べた。雇ったばかりのころ、船の前で長時間ごねられて閉口したことを思い出す。戦場へ連れて行けとまくしたてたあの頃と変わらない。いや、きっと今日の覚悟はあの日とは比べものにならない。彼らには引く気はないだろう。
ふぅっとアイキは深く息をついた。
「無駄死にしないか。」
「はい。」
「じゃあ、乗りなさい。でも、決して死に急いじゃ駄目だからね。」
「はいっ。」
二人は涙ぐんでいるようにさえ見えた。
――乗せるべきではないのだ。この船に乗っては、無事に帰る保証はない。いや……まず無事には帰せない。
アイキにはそう分かっていた。たぶん、双子も分かっていた。
だがこれ以上、彼らに引き留められているわけにもいかない。
乗船を許可したのも自分の甘さ。
それでもアイキは彼らを殺したくないという心からの思いも自分の甘さ。
頭を振って甘い思考を追い出し、船に向かう。決断は下さなくてはならない。
港は闇に沈んで静まりかえっていた。リスナに残った者達は知事館に避難している。コア率いる守備隊が知事館を警備しているし、町中にも臨戦態勢が敷かれていた。
とにかく海賊に上陸させてはならない。コア隊に仕事がないようにしなくてはならない。
知事館にいるはずのルーン、ムーン、トゥーン、そして母のケティやザール、ケツァルのことを思い浮かべた。夜明け前の水平線は、くすんで見えなかったが、もう奴らの船がそこまで来ているはずだった。
数はおよそ五十。リスナには船が三十一。勝ち目があるとは思われない。だが負けることはできない。アイキが乗り込む船はバジルが嫌って押しつけてきた、旧知事用船だった。少し小型で、しかし丈夫なその船は、この十日の間に全く別の船に様変わりしている。速度は、短時間にならば通常の船の数倍出せるし、強度も半端ではない。しかも舳先には強靱な金属の刃を備えていて、舳先から敵船にぶつかれば、その船体を切り裂くことができるだけの馬力もあった。
ロキのことだから、必ず正面から挑んでくる。
アイキは確信していた。
五十隻の船団の中央の船が間違いなくロキの船だろう。
だから。
正面からぶつかるためには、リスナ海兵隊の中央に自分の船を配すればいい。
それで勝負は決まる。
全船で陣を展開したままぎりぎりまで接近し、戦端が開かれるその直前に、アイキ船だけが全速前進しロキの船を沈めに行く。全力で相手の船にぶつかって、舳先で船腹に穴をあけ、沈める。勝負はその一瞬にかかっている。主船さえ沈めてしまえば、後は烏合の衆。他の海賊団を支配下に組み込んだだけの寄せ合わせ集団である。
アイキの船は前線で一隻だけ突出することになる。集中砲火は免れまい。だが、ロキの船さえ沈められればそれで良い。その後ならば、たとえアイキの船が沈もうとも、救援に駆けつけているフランクが全体の指揮を執ることになっている。
実際のところ、今回の作戦は、フランクがリスナ海兵隊三十隻の総指揮官であり、海峡警備隊からの援軍七隻と合わせて三十七隻全てがフランクの指揮下にあるのである。アイキの指揮下にはその小型船一隻のみ。そしてほぼ間違いなく、ロキはアイキの船に集中砲火を浴びせてくるはずである。それを承知で正面突破するには、意表を突くだけの速度と強度が必要であった。速度は問題がない。後は強度だけが不安材料であった。
――ロキ船を沈めるまでもってくれ。
帆柱に寄りかかって、アイキは固く目をつぶった。
――これが最善の策だった。他に手はなかった。これが駄目なら仕方がない。全力でやるだけだ。
――日はまだ昇らない。だが……。
顔を上げると突如、蝉の鳴き声が周囲から湧き上がった。暑い一日が始まる。アイキはキッと、口を真一文字に引き結ぶと、周囲を見回して頷いた。皆がアイキの指示を待っている。
「出港準備!」
腕を上げて叫べば、港がどよめいた。蝉の声がそれに応えるように一段と激しく押し寄せてきた。水平線は静かに闇の向こうにある。「総司令が総指揮を執らなくてはいけません。私がその特殊船の指揮を執ります。」
この十日の間、何度もフランクは繰り返した。彼の髪に染みこんだ煙草の匂いが鼻につくほどに顔を近づけて、執拗に言い張った。だが、アイキはどうしても首を縦には振らなかった。
「それでは作戦が無駄になる。奴らは間違いなく私の船を狙ってくる。そのための挑発だ。正面から受け止めてみろと挑発してきたのだ。もちろん、向こうの船団の真ん中にはロキの乗る本船がある。奴らは正面からぶつかりあうつもりでいる。だからこそそこで不意を突く。その一瞬の隙を突かない限り、リスナに勝ち目はない。私が主船に乗っていないことに気付けば、奴らは必ず警戒するからな。」
――集中砲火の中、真っ直ぐにロキの船を向かってゆく。
――ロキの船を沈めるためだけに、ただそのためだけに真っ直ぐに。
――間違いなく、沈めるために。
――この船も、おそらく沈むだろう。無事に帰ってこられるはずもない。
――戻るはずのない出港。乗船した誰もがそう心得ている。ラピスもルビーも。
そう思った瞬間、足下が揺れた。船が岸を離れたのである。ゆっくりと、二度と戻る見込みのない陸からゆっくりと滑るように船が動き出した。昨夜、守備隊と最後の打ち合わせを終えたアイキを呼び止めて、守備隊副隊長のコアが小さい声で訴えた。
「サナを殺さないでください。私は彼に聞かなくてはいけないことがあるんです。」
ロキ隊が離脱する晩、サナは知事の宴席で大暴れをした。それが彼らの離脱の直接的な理由だろうと考えられている。そのサナを激怒させたのはコアだった。
――なぜ彼があんなに怒ったのか、理由が分からない。
コアは今でも自分が何か、触れてはいけないことを言ってしまったに違いないと気に病んでいる。今回のリスナの危機も自分に遠因があるのではないかと、真面目なコアはどこかで不安に感じているに違いなかった。
――サナは生きているだろうか。
まだ見えぬ水平線に目をやる。
あの男は天才だ、とサナは言っていた。ロキは海賊として素晴らしい天才だと。いっそここで、全員降参してしまったらどうなるだろう。そうすればこの船に乗り合わせた者は全て救われる。誰も戦わずにすむ。死者どころか怪我人も出ないはずだ。何も困ることはない。ただリスナがビディア国の支配を抜けて、海賊の支配下に入るだけじゃないか。たかがそれだけで、皆が救われるのならば。そう、自分は殺されるかもしれない。それでロキの恨みが解けるなら……。
――恨み?
――ロキは自分を恨んでいるのだろうか。
「総司令、ご記憶ですか。」
後ろから声をかけられて、アイキは振り返る。キース副船長が立っていた。彼は自ら名乗り出て、特殊船の乗員となった生え抜きの海兵である。リアは彼の表情を見て、迷うことなく副船長に任命した。大抜擢というほどの出世でもなかったが、それほどの手柄もない男をどうして取り立てたのか、アイキは少し不思議に感じている。見覚えのある顔だが、何をしていた男だったか。
「内海掃討の帰路、ロキを捕縛したあの日のこと。十八年くらい前のことでしょうか。」
「あぁ、覚えているよ。もちろんね。」
「じゃあ、覚えていてくださいますか。あの日、見張り台にいた頼りない兵士のことは?」
「あ、」
アイキはまじまじとその顔を見つめた。
「そうか、キース、あのとき見張りの若い兵士が君か。」
肩の力が抜けるように感じた。
船は静かに進む。リスナは薄闇の中、背後に消えてゆく。
「あぁ、そうか。あのときの。」
知らぬうちに微笑みがこぼれた。
「覚えていていただけて光栄です。」
キースはあの日の表情のままに、誇らしげな仕草でアイキに恭しい敬礼を捧げる。あの日から十八年の年月が経っている。若々しく初々しかったあの青年兵士が、こんなに大人びて、慣れた様子できびきびと船を操っている。
十八年前、キースは見張り台に立って、行けども行けども現れない海賊船に、退屈していた。それでもアイキの言葉を信じて、彼はずっと水平線の彼方を睨み付けていたのだ。その時の青年がここにいる。
「私にとっては、総司令、貴女は勝利の女神です。貴女がいるかぎり、リスナは勝利します。私達は皆そう信じている。だから総司令、私達を信じてください。私達は貴女のためならどんな戦いも恐れません。それを申し上げるために、私はこの船を希望したのです。総司令、私はリスナの民として、ビディアの海兵として、貴女の下で働けたことを光栄に思っています。」
「ありがとう。」
アイキは微笑む。
――そうだ。諦めるにはまだ早い。やるだけやってみよう。私には彼らがいる。
深く息を吐く。
この町を失えば、ビディア全体に危険が及びかねない。ここは交通の要所であるし、内海の安全も、東方戦線も、この白い都市なしには語れないのだ。
――そして、何よりも、カリン陛下のために。
そこまで思い及んで、急に背中が痺れるような感覚に襲われた。氷の欠片か何かが背中に埋まっているような、ぞくっとする感覚であった。
東の空が白々と明け始めていた。