□ 二四 □
東の空が白々と明け始めていた。
左手に朝日の気配を感じながら、じっと目を凝らすと、南方の水平線にうっすらと影が並んでいるのが見える。
――奴らだ。
目の当たりにすれば動揺もするかと思っていたが、全く動揺しない自分がおかしかった。むしろ待ち遠しかったようにさえ感じた。
――やはり、予想通りだな。奴らも朝のうちに勝負を付けるつもりだ。
この炎天下、昼間戦うのはただの消耗戦である。
だが接触までにはまだ時間がある。アイキはこれから現れるはずの朝日の方を、やけにのんびりとした気持ちで眺めていた。側に控えているラピスとルビーを振り向いて、
「ほら、朝日が昇る。」
笑いかければ、不思議といつもと全く変わらない口調の自分に驚く。
「真夏とはいえ、さすがに夜明け前は少しは涼しいな。」
双子は一瞬きょとんとして、それから穏やかに微笑んで頷いた。
船はほとんど揺れることなく、風も微風、滑るように海の上を走ってゆく。
左右と後ろにはリアの指揮する三隻の船団が特殊船を囲むように走り、その両翼に弧を描くように陣形を整えた二十七隻のリスナ海兵隊。ロキ達の背後を突くようにして、彼らの背後に海峡警備隊が七隻、船を送り込んできているはずだった。海峡警備隊の「奇襲船団」こそが実は今回の作戦の本隊である。三十隻のリスナ隊は、海峡警備隊隊長フランクの指揮下に入っている。特殊船がロキ船を沈めさえすれば、後は挟み撃ちで上手く撃退できるだろう。
――もしもロキの船が、リスナから脱走したときのままならば。
水平線に浮かぶ遠い帆船の影は静かに朝日を受けている。
――ロキ隊の船も、リスナ海兵隊特殊装備船だ。鯨漁の銛を応用した、対帆船用の装備……もう壊れて使い物にならないかもしれないが、一本でもまだ使える銛があるのならば、下手をすれば特殊船が足止めされてしまう。
アイキは自分の特殊船を銛にも勝てる強度にできないかと船大工達に相談したが、それは上手くいかなかった。
「総司令、頑丈な船はやっぱり速くは走らないもんですわ。」
船大工達も最善を尽くした。しかし、さすがに飛んでくる銛が突き刺さらないほどの丈夫な船体を造ると、高速で走ることがおぼつかない。
――だが、あの銛以外には怖いものはないはずだ。
振り返れば、うっすらと白いリスナの町が弱い光の中に浮かび上がっていた。
――両翼を広げた美しい白い海鳥、リスナ。
その姿にアイキはしばらく見とれていた。左の翼は今、使われていない。街の左半分は、十八年前、投降した海賊達のために開発した区画だった。だが、ロキ率いる海賊達は今や敵対してアイキの目の前で牙を剥いている。海賊が出て行った後にその地に住んだバジルの食客達は、バジルに従って首都に帰っていった。姿こそ見えないが、彼らも今ごろ爪を研いで虎視眈々とリスナを狙っていることであろう。
――前にも後ろにも敵ばかり、か。
だが淡い光の中にあるリスナの街は、今、両翼を広げて穏やかにただそこに在る。
――片翼では飛べない。
トゥーンの言葉が蘇る。
――左の翼は短いみたいだけど、両翼あれば飛べますね。
飛ぼうにも、左の翼は、今、空っぽだけどね。
アイキは声に出さず呟いた。
片翼の街――リスナ。
「本当にきれいですね。」
「白いカモメ、リスナ。」
双子はアイキの考えていることを読みとったかのように、はしゃいだ声で言う。
彼らは結局、今日に至るまで女装をやめなかった。肩に弓矢を背負い、片手に長い棒を持った女装の青年達は、どう見ても何かの舞台衣装のようであったが、当人達は大まじめだった。
不器用な奴らだとは思う。だが、アイキは彼らの不器用さを笑う気にはならなかった。
「総司令、敵船団確認いたしました!合計五十三隻!リスナ南方に東西に広がって布陣しております。このまま作戦通り進みますが、よろしいですか?」
舳先からキースの叫び声が聞こえる。心なしかキースの声もうわずっている。アイキは小走りに舳先に向かった。双子も足音を立てずにアイキに続く。
「構わない。そのまま前進!」
――フランクは、海峡警備隊は間に合うだろうか。
日が昇りきったらすぐに戦端が開かれる。次第に近づいてくる船団にアイキは確信した。
――少しでもリスナから離れなくては。砲撃の被害が街中に及ばないように。
アイキは腕を組んで、左右の船を見渡した。隣の船の舳先には同じような姿勢でリアが立っている。厳しい表情で真っ直ぐにロキ達の船を見据えていたが、総司令官がこちらを見ているのに気づき、略式の敬礼とともに穏やかな笑みを見せた。
薄く霞んでいた世界が、色づいてくる。夏の日差しだとすぐに分かるような強烈な光が、突き抜けるように透明なまま、海に差し込んでくる。薄闇が消えてなくなると同時に、力強い影が船のあちこちに一斉に生じた。まるで今までの薄闇が、日差しを避けて物陰に潜んだかのようであった。日の光はまだ熱にならない。それでも蒸されて漂う強い潮の匂いに、アイキはなぜかこの夏がいつもよりも暑かったことを思い出した。
日が海を離れてすぐに、ロキ船団の背後にフランク隊が姿を現す。アイキはゆっくりと頷いた。隣の船で、リアも応えるように小さく頷いたのが分かった。
ロキ船団とリスナ海兵隊がお互いに肉眼で人影を確認できる距離になる。リスナ海兵隊は一度、停船を命じた。その停船の合図が、指揮権移行の合図である。
――後は任せたぞ。フランク。
フランク隊も静かに停船した。「いい女になりましたよ。お嬢ちゃん。」
双眼鏡を目に当てたまま、サナが報告する。
「真ん中の船にいます。やっぱり真っ向勝負ですかね。」
帆柱に寄りかかるようにして聞いていたロキは、鼻を鳴らすだけだった。
「見覚えのない船だな。」
サナは双眼鏡の焦点を調節しながら、アイキの乗る船を眺めて小首をかしげた。
「少し小さい。海兵隊にあんなん、ありましたっけ。見覚えない。……ま、いいや。それが本船でしょ。それからそれを囲むように三隻。リアがいますね。その三隻がリア隊か。それから……左右にきれいに広がって、二十七隻。合計、三十一隻。やっぱり一隻多いな。で、後ろに海峡警備隊かな、七隻。一応、挟み撃ちのつもりかな。」
危機感などまるで感じていないように、のんきな口調でサナが報告を続ける。ロキは首を回してゆっくりと背後の船を数え、目を見開いて見せた。
「ふん。馬鹿にしている。」
「まぁ、ここでリスナが敗れたら、海峡警備隊が十隻全部戦力を温存していたとしても、海峡を守りきれるはずもありませんやね。ここでリスナに加勢しとくってのは、賢明な判断なんじゃないっすか。」
リスナ海兵隊が左右に広く展開する、その背後には美しい白い都市。
翼を広げたカモメ。
海上を旅行く人々に愛されるこの町が滅亡の危機にさらされるのは、たぶん初めてのことだろう。こんな日にさえ、太陽はリスナを照らす。サナはしばらく遠いリスナを眺めていたが、再び双眼鏡を目に当てた。
「おや?」
最後の指示を出しているのだろうか。アイキは舳先に立って、周囲に控える海兵達に何かを言っている。その本船に隣の船から板が渡され、リアは落ち着いた様子でその板を渡ると、本船に乗り移った。
アイキが片手を振り上げて何かを叫んだ。リアもそれに応えるように、右腕を大きく振り上げる。海兵達が応えるときの声が聞こえるようだった。
「本船にお嬢ちゃんとリア副指令と、二人とも乗り込みましたね。ありゃあ、本船だけ守って、後の船は玉砕覚悟で突撃ってことかな。」
相変わらずロキは黙ったままであったが、サナから双眼鏡を取り上げると、しばらく覗き込んで、小さく舌打ちをする。苦笑を浮かべ、双眼鏡を押しつけるようにサナに返した。そして振り返り、
「おめぇら、準備はいいか?」
と、野太い声を張り上げた。その彫りの深い顔立ちは、すっかり年を重ねて表情を分かりにくくしていたが、貫禄と深く落ちくぼんだ目の力強さは、以前のように光を宿さない無表情なものではなく、生き生きとした不思議な力を湛えている。
「俺の言うことに文句ある奴は、これから三日のうちに、俺の寝首をかいてこの船団を乗っ取るか、俺の前からとっとと消え失せるかしろ。」
リスナ襲撃を船団に伝えた晩、ロキは低い声でそう宣言した。
「襲撃は三日後だ。そのときまで俺に従っていた奴は、必ず最後まで俺に従え。リスナ総司令の名は伊達じゃねぇ。あいつは俺が惚れた女だ。」
ロキの言葉に誰も逆らおうとはしなかった。むしろ多くの海賊にとって、ロキのリスナ襲撃は当然のことのようにさえ思われた。
「俺は俺のやりたいように戦う。俺に逆らうヤツは、お前らでも許しはしねぇ。嫌な奴は今のうちにしっぽまいて逃げるか、俺に代わって成り上がれ。いいな。」
五十三隻からなる大きな船団の中には、野心のある者や命の惜しい者がいるだろうとロキは思っていたようであった。だが、実際のところ脱落者さえ出なかったんじゃないかとサナは踏んでいる。実際、確認したわけではないから分からないが、たぶん、全員いる。
――あいつらだって伊達にロキ配下の海賊やってるわけじゃない。
「寝首をかきに来る奴はいなかったようだな。」
目を見開くようにしてロキが言うと、サナはくすくすと声を出して笑った。
「そりゃあ、そうでしょ。頭に惚れてるんだから。みんな。」
「ふん。」
ロキは鼻を鳴らしたが、どこか上機嫌であった。アイキがこちらを睨み付けてくる。しばらくロキとアイキは睨み合い、ふと、アイキが目をそらした。
「何だ、あの派手な女は。」
眉を寄せて、ロキがサナの双眼鏡を取り上げながら、つぶやくと、サナも首を傾げる。
「さぁ?」
野良猫のように警戒心をむき出しにした双子が、アイキの傍らでロキに鋭い視線を送ってくる。海兵達の中にあっては、彼らの服装は確かに派手に見える。
――護衛官か?相変わらず、意表を突くもんだ。リスナ総司令。
地味な総司令と派手な護衛官。不釣り合いすぎて逆にアイキらしい気さえする。
アイキが振り向き、大きく腕を掲げた。リアが何か叫び、船員達がどよめくように応じる。サナには彼らの声は聞こえない。だが、肌で感じる。
アイキの船がゆらりと動き出した。
――速い!
間髪を入れず、ロキが怒鳴る。
「野郎ども、構えろ!」
サナが甲板に寝かしてあった大きな旗を担ぎ上げると、それを合図に、男達はその太い腕で、本船に狙いを定めた大砲の点火口に火を近づけた。
――全員、リスナ総司令だけを狙え。
リスナ襲撃を命じた夜に、ロキはそう指示を出している。昨夜、船長を集めて作戦を指示したときにも、繰り返してそう指示している。間違いなく、五十三隻の大砲は一斉にアイキを狙う。
「お嬢ちゃん……。」
火薬の匂いに、サナが小さく喘いだ。
アイキは、大砲が動いたことを確認しているはずである。しかし、それをものともせず、小型船は真っ直ぐに突撃してくる。周囲の船も同時に前進を開始していたが、どんどん距離が開いていく。
「馬鹿にしているのか?自分で突っ込んでくる気か。」
ロキは誰にも聞こえないような声で小さくつぶやいてから、怒鳴った。
「分かってるな!狙いはあの女だけだ。ぶちかませ!」
その言葉に、サナが大きく旗を振りかざす。
耳をつんざくような轟音が轟いた。船腹に激しい波が当たる。
白い煙がもうもうと立ち上った。
すっかり明るくなっていた海上。一瞬にして立ちこめたその白くくすんだ煙に、サナはなぜか視界が滲んだ気がした。