□ 二五 □
轟音は船を揺るがせていた。高速で走っていた上に、特殊船は小さく身軽にできていたので、ますますその衝撃を強く受けて立ち往生する。
――読まれていたか……?
甲板に片膝を突く。ぐっと胸が痺れるような感覚に襲われて、アイキは息を詰めた。
圧倒的に数で勝るロキには、勝負を急ぐ必要は全くない。だからしばらくはこちらの動きを見守るはず。
そう信じて作り上げた計画だった。
いや、たとえ先手必勝で仕掛けてくるつもりであったとしても、指揮官の乗る船が最初から高速で体当たりしてくるとは、予想しているはずもない。だから、本船の突撃に気付いても必ず対応が遅れる。その一瞬の隙を衝く。その一瞬の隙にロキの船を沈める。
――それしかない。それしかなかった。
十日間考え抜いた上での、最善の策はそれだった。相手の油断を前提としての策。危険な賭なのは分かっていた。だからこそリア副指令にまで同船してもらったのだ。特殊船の捨て身の突撃に気付かせないために。油断させるために。
――そこまで読まれていたのなら……。
サナが旗を振ると同時に、五十三隻の海賊船、全ての砲台が特殊船に向けられた。
その事実に気づいたときには、さすがに目を疑った。
――ロキの船に到達する前に終わるかもしれない。
そう思った瞬間に、砲台が轟音を立て、辺りは白煙に包まれた。衝撃で激しく揺れる船。甲板に片手と片膝を突き、白く煙る周囲に懸命に目をこらす。
――どうなっている?
事態を把握しきれない焦りを感じながら、アイキは立ち上がった。
――この煙、尋常の量ではない。同時に五十三隻相手にすればこうもなるものか。
船の揺れも次第に波に合わせて収まった。ふと冷静な思考が戻ってくる。
――私は生きている。船も無事。相手は五十三隻。いったいどうなっているんだ?
海兵達が叫び交わす声。どうも船に異常な箇所はないらしい。五十三隻が一斉に一隻の船を狙って、一つも砲撃が当たらないというのはあり得る話ではない。だとしたら、可能性は一つ。
――空砲だった、ということか?
「皆、無事か?怪我はないか?」
大波がぶつかるたびに、船はぐらりと揺れる。リアに支えられながら、アイキは力強い声で叫んだ。船員達のがらがら声が返ってくる。
――あれが空砲だったのだとしたら、この煙自体が何かの罠なのか?
東方砂漠では、奇襲のとき、人を眠らせたり体を麻痺させたりする煙を使うことがあるとは聞いていた。実在するのかは知らない。あるいはそのようなものもあるかもしれないとは思っている。
そこまで考えて、アイキは冷静ににおいを確かめ、その疑惑を打ち消した。そこにあるのは嗅ぎ慣れた火薬のにおいだけであった。
海賊船がどういう動きをしてくるか分からない。しかし、自分達にできることはただ一つ。今すぐに走り出すだけ。この煙が何であれ、わざわざ相手が用意してくれた煙幕を活用しない手はない。
全力前進を命じるつもりで、アイキは敵船団を振り向く。
砲撃を受けてからずいぶん経ったようにも思えたが、実際はほとんど時など流れてはいないはずだった。それでも無風の海上に、ゆっくりと流れていった生ぬるい空気の合間を縫って、次第に煙が途切れ出す。うっすらと浮かび上がるロキ船団の影は、先ほどから動いていなかった。全く同じ様子で布陣している。
――行くしかない。
唇を軽く舐める。その瞬間、ロキ船団と特殊戦の間を遮っていた煙が、ふわりと大きく途切れた。
「……!」
アイキは言葉を失う。いや、船上の人間は皆言葉を失ったに違いない。
白い煙の合間から再び姿を現したロキ率いる五十三隻の海賊船団。
その全てが、真っ白な旗を掲げていた。
「白旗、か?」
ようやく絞り出した自分の言葉を確認するように、アイキはリアの顔を見上げた。リアも自分の目が信じられない様子で、瞬きを繰り返しながらも、小さく頷き、
「降参する、という意味でしょうか。それとも何か罠を……?」
「罠ではない。正面から戦って勝てる勝負だ。わざわざそんな小細工をするはずもない。」
「じゃあ、一体……?」
「知るか。ロキに聞け。」
勝負をする気であれば、全ての大砲をあらかじめ空砲にしておくなどという、馬鹿馬鹿しいことをするはずがない。意味がない。
ロキ船団の意図が、アイキにはさっぱり分からなかった。おそらく誰にも分からなかった。
だが同時に。
――ロキらしいことをする。
不思議とすんなり納得できそうな気もした。
「降伏してきた船を全てリスナに曳航する。」
ロキが甲板で仁王立ちになって特殊船を見据えている。
――相変わらずなのだな。お前は。
揺れは収まった。アイキは周囲の船へと指示を出し始める。
「下っ端はそのまま船に乗せておけ。各船の船長だけ引っ捕らえて、海兵隊の牢獄に収容する。ロキは身柄を確保し次第、私のところに連れてきてくれ。事情を聞かなくてはいけない。」
アイキの指示が伝わると、周囲の船が次々動き出す。海兵隊の船が海賊船に接近し、入港のルートを指示し、一隻ずつ港へと護送されてゆく。海賊達は子羊のように従順にリスナ海兵隊の船に取り囲まれ、リスナ港に入港した。
「総司令、これはどういう……?」
ラピスとルビーの当たり前の問いかけに、アイキは頭を振ることしかできなかった。だが、心のどこかで、最初からこうなるべくしてこうなったのだというようにさえ感じていた。
「事情はロキに聞くほかないよ。」
曳航しても、曳航しても、居並ぶ海賊船は減ったようには見えない。
――五十三隻、か。
改めて、その恐ろしい数をアイキは実感した。昼前にはアイキもリスナ港に戻ることができた。
そのまま特殊船を貸し与え、首都への使者としてキースを送り出す。
「事情は説明しなくてもよい。とにかくリスナの無事だけご報告申し上げろ。」
そう言い含めて送り出した使者は、順調に行けば三日と待たずに、首都に到着するはずであった。首都の恐慌状態は、想像に難くない。海賊船団の収容が一段落した今、一刻も早い報告が務めであろうと思われた。
「総司令!」
港で待ち受けていたリスナ守備隊副指令コアが、アイキの姿を見るなり駆け寄ってくる。
「これは一体……?」
開口一番、コアもまた皆と同じことを尋ねた。この現場を見れば、誰だってそう尋ねたくもなるだろう。アイキにだって何が起こっているのか分からないのだ。そうと知ると、コアは知事ダナンへの連絡をその場で引き受けてくれた。
「現状報告が済み次第、すぐに戻ります。」
「ありがとう。助かる。知事殿には後で詳細な報告に伺うとお伝えしてくれ。」
「は!」
きびきびとした動作で敬礼をすると、知事館へと真っ直ぐに駆け出してゆく。
リスナは何もかもが混乱していた。
五十三隻もの船に満載された海賊達をどうすればいいのか。
下手な扱いはしたくない。だが大事なお客様というわけでもないし、現実問題として、あの何百人、いや、千人以上いるであろう海賊達をお客様扱いできるはずもない。
「海賊達は、そのまま船で待機させろ。各船、三名ずつ兵士が警備に当たるようにする。海兵隊の船はいつでも動けるように待機。港の巡回も怠るな。」
怪我人が出なかったため、軍医達さえも雑用に借り出されて、駆けずり回っている。
「フランク隊が入港したそうです!」
背後でルビーが叫ぶように報告した。
――海峡警備隊には、海峡を警備するという大切な仕事がある。いつまでもリスナに引き留めておくわけにはいかない。
アイキは小走りに港を横切った。普段の倍以上の船が港に並んでいる。海賊達が何かの合図と同時にリスナを襲ったら、ひとたまりもない。海兵とリスナ守備兵だけでは、街を守りきれない。
そんな想像に今更ながらぞっとした。
――各船の船長が人質となっていれば、まず奴らも下手な行動には出ないだろうが、牢獄の警備は厳重にしておかないとまずいな。
どの部隊から、どれだけの人数を牢獄に回せるだろうか。牢獄の方角に視線をめぐらせたとき、後ろ手に縛り上げられたまま歩いてくる大男の姿が目に入った。一目見てそれが誰であるのかは知れた。
アイキは立ち止まった。
その人影もアイキを見やり、すれ違いざまに少し身をかがめ、耳元でささやく。
「お前に話がある。」
そして目を見開いてみせると、その大男は何食わぬ顔で連行されていった。
――自分はこの町を守った。陛下のために。
視界の端をロキがゆっくりと連行されてゆく。
――この男は自分の元に下った。何のために?何のために、勝てる戦いを捨て、船団全てをリスナに投降させた?
ロキの目は投降兵の目ではなかった。かつての海賊ロキの無表情な目でもなかった。
「……話がある、か。」
アイキはしばらく、身動きすることもできずロキの言葉を反芻していたが、ロキを連行している兵士を呼び止めた。
「ロキには後で私が直接尋問する。執務室に連れて行っておいてくれ。」
総司令と海賊の間に流れた不気味な気配に兵士は怯えたように身をすくめていたが、アイキの声にびっくりしたように跳ね上がってから、
「はい、総司令!」
と、真っ正直に敬礼を返した。ロキは振り返ることもせず、そのまま総司令部を目指して歩いていった。フランクが船から降りてくるのが視界に入る。
「これは一体、どういうことなんですか。」
何度目か分からないその疑問に、アイキはまた頭を振って、苦笑した。
「分からない。見ての通りだ。」
フランクもその回答を予期していたのだろう。それ以上食い下がることもなく、港を見回した。
「とにかく捕虜をどこかへ収容しなくてはいけない。」
「そのようですね。」
リアが捕虜収容の陣頭指揮を執っている。立ち会えないアイキに代わり、ラピスがリアのそばに控えている。ラピス自身も数名の部下を与えられて、捕虜の名簿作りの指揮を執っているはずだった。アイキの傍らにはルビーが控えている。
「無事に生きてリスナに帰ってこられるとは思ってもいなかったからね。死んでしまえば、後はフランクにお任せで楽できると期待していたのに、生きて帰ってきたおかげで大わらわだ。」
「縁起でもないことを!」
むきになったように言い返すフランク。背後で海峡警備隊の兵士達が様子をうかがっている。
「すまない。フランク。冗談にしても質が悪かったな。」
こんなところでフランクに八つ当たりしても仕方がない。アイキは小さく息を吐いた。
「今日は援軍に来てもらって本当に心強かった。だが、海峡に残っている部下達も心配しているだろう。海峡の警備も手薄にはできない。後はリスナの部隊に任せて、海峡へと戻ってくれ。」
だが、フランクは断固とした口調で反論した。
「これが罠でないと確認できるまでは帰りません。」
「奴らは実力でもリスナを叩けた。こんな手の込んだ罠を張るだろうか?」
夏の太陽がじりじりと港の石畳を照りつける。
「総司令殿、船は信頼できる者を隊長代理として、四隻は海峡に戻します。その代わり、私の三隻をリスナに残して、捕虜の処理を手伝う許可をくださいませんか。」
「処理ね。」
アイキは少し困ったように言うと、首筋に手をやった。苛立ったときのアイキの癖に気付いて、フランクは慌てたように瞬きを繰り返す。アイキはしばらく目を伏せて考えていた様子だったが、
「分かった。手伝いを頼む。だが今回は相手の出方がまだ分からない。ただの敗軍の捕虜じゃない。何があるか分からないから、警戒するに越したことはないし、できれば少し丁寧に遇して欲しい。いいか。」
「はい。」
「じゃあ、ルビー、フランク隊長をリアのところに案内してくれ。その後、もしも手が空いたら、そのままラピスの捕虜名簿の作成の手伝いに回るといい。ラピスも一人でも人手が欲しいだろうからね。」
「え、それじゃあ、総司令は?」
驚いたように聞き返すルビーに、アイキは一旦、首筋に置いていた手を宙で遊ばすようにしてから、
「まずは執務室に戻る。町中はリスナ守備隊が警戒に当たっているから、安全だろう。」
小さく微笑んで安心させるようにそう言った。納得しかねるような表情のルビーだったが、それでも反論は飲み込んだ。事態が事態である。それぞれが、できることから片づけていかなくてはいけない。
フランクが海峡警備隊の船長達に次々と指示を出し始めた。きびきびとした仕草と、整理された指令。甘くて優しげな風貌に似合わず、若くして海峡警備隊の隊長を務めるこの男は、やはりそれだけの器と能力を持っているのだ。ルビーはフランクの仕事ぶりを目の当たりにして、改めて感心した。
「あ。総司令!」
フランクの仕事ぶりに気を取られているうちに、アイキは総司令部に向かって走り出していた。取り残されたような気分で、ルビーは溜息をついた。だが、アイキを追うわけにはいかない。自分にも与えられた仕事がある。ルビーはフランクを振り向いた。いつもなら首筋にかかる髪が、首筋に触れない。
――そうだ。昨夜、切ったのだっけ。
生きてリスナに戻るつもりはなかった。その覚悟を示すために切った髪だった。
――本当に生きている。
空が青い。
「リア副指令の元へ、ご案内いたします。」
その言葉に、フランクは柔和な笑みを見せて頷いた。