□ 二六 □
執務室の扉の前には警備の兵士が五名、緊張した面もちで立っている。
「ご苦労。」
駆け抜けるように扉に手を伸ばすと、兵士達が慌ててアイキより先に扉に手を掛け、重い扉を恭しく押し開けた。
――中にロキがいる。
緊張するのは当たり前のことだ。普段でも、捕虜を引見するときにはある程度緊張する。まして相手はあのロキだ。
ゆっくりと扉が開く。
――十八年前にロキを捕らえたときも、緊張したな。
自分の方がずっと有利な立場にいると、頭では分かっている。だが指先が冷たくなっているのは緊張している証だ。真夏のむっとする空気の中で、指先だけが凍えそうに冷たい。
開け放たれた扉。先導するように、兵士が執務室へと足を踏み入れようとする。
「悪いが外で控えていてくれ。」
ためらう様子を見せた兵士を軽く押しのけて、アイキは一人、薄暗い執務室に入った。後ろ手にがたりと扉を閉ざす。兵士達が慌てたように何かを言っているのが聞こえたが、すぐにその声も止む。
――薄暗いわけじゃない。廊下が明るすぎたんだ。
執務室の窓はカーテンが引かれている。そしてアイキ愛用の椅子に、一人の大男が座っていた。薄暗さに慣れるために、アイキはゆっくりと瞬きを繰り返した。男の表情はうかがえない。
「久し振りだな。」
低い声が発せられた。
――お互い、年を取った。
不意にそう感じた。ロキがリスナを去ってから、もう、十四年が過ぎている。ゆっくりと男に近づき、机にもたれかかってその巨躯を見下ろし、アイキは頷いた。
「……ああ。」
何をしゃべっていいのか分からなかった。何を考えていいのかすら、分からなかった。気が付けば俯いて、指先で机の上に浮かび上がった荒い木目をなぞっていた。狼狽えている場合ではない。ゆっくりとアイキは男に視線を向けた。
「お前のためなら、俺は、何でもやる。」
唐突に、ロキが言う。潮にやられたのか、格段にしわがれたその低い声で。
「分かっていたはずだ。」
何を言いだしたものか、つかみかねていた。アイキはしばらくロキの薄暗い影を見ていた。
「何を?」
ようやく見つけた言葉は間抜けな問いかけだった。分かっていたはずだと言われれば、確かに分かっていたような気もする。あの日から、今日に至るまで、なるべくして進んできた路だ。そういう気もした。
アイキの問いかけにロキは答えようとはしなかった。ただその瞳がやけに強い光を見せていた。
「今日のために、あの日お前達はリスナを捨てた。……帰る港のない連中を、全員、リスナに連れて帰るために。そういうことか。」
溜息のような声だと、アイキは自覚していた。どこか声に怯えた響きがあるのが、苛立たしかった。ロキが鼻で笑う。
「さぁな。」
その返答は紛れもなく上機嫌な肯定であった。ロキのその上機嫌が、アイキに強烈な不安を呼び覚ます。
――この男、何を企んでいる……?
しかし警備の兵士達を中に呼び入れる気にもならない。今感じているのは、ここでいきなり殺されるかもしれない、などという恐怖ではない。もっと別の、恐らくもっと怖ろしい予感であった。
「首都には上手く連絡する。陛下から恩赦を取り付ける算段を講じるぐらいは、私の力でもできるだろう。海賊を大量に投降させた手柄を、きちんと評価されれば、それなりの役職をもらえることになるだろう。……もちろん、お前が陛下に忠誠を誓った後の話だが。」
口からこぼれる言葉は、ことごとく上滑りな早口であった。ロキが口先だけで笑ったことに気づく。表情は相変わらず作り物のようであったが、その目には力があった。
「勘違いするなよ、アイキ。」
脅すような口調で発せられた低い声は、それでも不機嫌なものではない。
「俺はお前に降伏したんだ。俺には陛下とやらは関係ない。国王への忠誠だなんて糞喰らえだ。」
「そうはいかない。」
押し殺した穏やかなロキの口調を制するように、アイキはロキの肩に手を掛ける。動じる様子もなくアイキを見上げるロキ。
「ここはビディアで、お前はビディア軍の捕虜だ。」
アイキはゆっくりと言葉を選ぶ。
「私は陛下の下僕だ。私に降った者は、皆、陛下に降ったことになる。お前こそ勘違いをするな。」
その瞬間、ロキが静かに動いた。
――え?
何があったのか、理解できなかった。気づいたときには、アイキは壁を背に呆然と立ちつくしていた。ロキがアイキの肩を壁に押しつける。立ち上がったロキの巨躯は、アイキを圧倒した。全身が冷たく感じた。
「国なんてのは俺には関係ねぇ。だが、まぁいい。俺達がお前の大好きな国王の手先になったとしよう。この国の海軍は、強くなる。この辺りじゃ敵はいなくなる。」
海洋都市である副首都リスナの海兵隊は、ビディア国のみならずこの一帯で最大規模の海軍である。そのリスナ海兵隊を遥かに凌ぐ軍団が配下に加われば、ビディアの海軍力は倍増するといっても過言ではない。
「アイキ、冷静に考えろ。最強の軍隊が手元にあると気付いたら、あの馬鹿な国王とやらは何を言い出す?国王の馬鹿な部下どもは何を言い出す?」
息ができなくなった。
――最強の軍隊が手元にあると気付いたら……。
だが、ロキの声は容赦なく頭上から降ってくる。
「もちろん、戦争だ。奴らは戦争を始めたがる。良いか?アイキ。馬鹿にはあんまりいい玩具をくれてやっちゃいけねぇ。遊び方を知らねぇ馬鹿には、俺の子分どもはちと上等すぎる。」
かつて見たことのないロキの饒舌。アイキは詰めていた息をふっと吐いた。アイキの表情を覗き込んだロキの口元の笑みは消えることがなかったが、それは決して優しい笑みではなかった。
「何が、言いたい?」
――圧倒される。
一瞬、目をつぶった。しかしぐっと刮目し、アイキは掠れた声で問い返す。ゆがめられたロキの口の端が、さらにぐっとゆがむ。
「成り上がれよ。アイキ。お前ならできる。」
背筋がぞくりとした。
「陛下を、裏切れ、と?」
「そうだ。成り上がれ。俺の海賊達と、お前の軍隊がありゃあ、成り上がれる。」
「馬鹿なことを……!」
「馬鹿なものか。お前は俺が見込んだ女だ。総司令殿。」
さらに深く刻まれたロキの口元のしわに、アイキは愕然とする。
――この男は本気だ。
――ビディアを相手に戦えるつもりでいる。いや、むしろ……ビディアを潰すつもりでいる。
混乱する頭の片隅で、ふと冷静な判断力がささやいた。
――その兵力があれば、ビディア軍を相手に戦って不足はない。
全身が冷たい。背中に氷の欠片が刺さっている。そんな気がした。
「俺はお前に出会わなければ、俺は平凡な海賊として一生悔いなく暮らしただろう。だが、あの日、お前は俺を睨み付けた。あの日、お前が俺を変えた。そして俺はここにいる。」
ロキの大きな節くれ立った手が、アイキのあごを掴む。
「お前はそんなつまらない女じゃねぇ。こんなところに収まって満足している女じゃねぇ。お前は俺が惚れた女だ。」
「私はリスナ守備隊、リスナ海兵隊の総司令官だ。」
声がうわずっている。もっと毅然とした声を、と自らを鼓舞しても、発せられるのは震えた声だけ。ロキの指に力が入る。むりやり上を向かされる。
「そう、今はな。」
「変わらない。私は陛下の武官だ。命ある限り。」
「冷静になれ。」
男は笑った。
「俺を失望させるな。お前があの日に見せた覚悟は、そんなちっぽけなものじゃなかっただろうが。国王に盲従することがお前の忠誠心か?」
アイキは唇をかみしめる。
「お前だって分かってるはずだ。」
男の手は海の匂いがした。
「お前なら、国王を止められる。戦争を続ける馬鹿な奴らを止められる。それがお前の本当の望みだ。本当の忠誠心だ。違うのか?」
ロキがゆっくりと顔を近づけた。
「そのためにはお前が成り上がるしかねぇ。そんな理屈が分からないはずもないだろ。アイキ。分かっているはずだ。あの日、お前は、人々が戦争に苦しまずにすむのなら、命も誇りも惜しくないと言った。自分が死んだ後の世界なんて、何の価値もねぇ。俺はきれい事は信じねぇ。だが、お前はそう言った。自分が死んだとしても戦争が止められるならそれでいいと。言っただけじゃねぇ。お前はその覚悟を俺に見せた。だから、俺はそれを信じた。お前の覚悟を信じた。……あれは大好きな国王の元へ帰るための演技だったのか?」
途中から言葉はささやくような声になっていた。ロキの骨太の手が、ゆっくりとアイキの頬に触れる。アイキは小さく身をよじってその手のひらの温もりを避けようとした。ロキの彫りの深い目元は、明らかにその状況を面白がっていた。
「お前は俺の見込んだ女だ。ちっぽけな義理に縛られて、大事なことを見失うような屑じゃねぇ。」
息苦しさに耐えかねて、唾を飲む。その音が耳に響く。
その瞬間、突然、乱暴に扉を叩く音がした。
「総司令!」
「あぁ、リアか。」
身をよじり、ロキの腕の下から逃れ出ようとするアイキを、ロキはいとも簡単に解放した。張りつめていた神経が急に緩んだようで、膝に上手く力が入らない。
「フランクもおります。総司令殿。」
「あぁ、入ってくれ。」
扉が開いたときには、ロキは椅子に戻り、反り返るようにして腕を組んでいた。リアは珍しく苛立たしげな表情で、執務室に大股に入ってくる。ロキに目をやることもなく、真っ直ぐに机に寄りかかるアイキに歩み寄った。
「捕虜の方、片が付きました。ご確認いただけますか?」
「ああ。今、できるか?」
「はい。準備ができております。」
リアはフランクに捕虜の件を任せ、自らはロキを捕虜の部屋に送る役を買って出た。
――リアらしくもない。
苛立ちを隠しきれない様子のリアを、何度も振り返りながら、フランクを伴いアイキは捕虜達が収容されている場所に向かう。
総司令部を出てすぐにフランクが小さく息を吸い込んで、言った。
「リア副指令殿はかなりご立腹でしたよ。総司令殿、貴女ももう少し、気を遣われた方がよろしい。」
フランクがここまではっきりと苦言を呈したのは、おそらく初めてのことではないだろうか。アイキは少し驚いたように黙ってフランクの顔を覗き込んだ。
「護衛官をお借りした私が言うべきことでもありませんが、お一人での行動は慎まれるべきです。まして、捕虜の頭と二人っきりになるなど、もっての他。本当に何かあったらどうするおつもりだったのですか。リア副指令がお怒りになるのも当然でしょう。」
「すまない。」
彼の言っていることが正論なのは分かっていた。
だが最善の道を最短距離で行くほかない。事態が事態なのだから。
そんな言い訳めいた思いもあった。
「とにかく、今すぐあの男を首都に送りつけるべきです。そして海賊団を解体し、海軍に収容する。今すぐにです。」
フランク自身にもアイキのロキに対する対応に不満があるのだろう。彼の言葉はいつにかく強い口調であった。
「そうだな。海賊達が何かことを起こす前に、手を打たねばならない。だが、フランク、どうだろう。ロキを首都に送るべきだろうか。」
「当然です。」
一言のもとにフランクは言い切った。アイキはフランクの様子をうかがうことはせず、正面を見たまま、言葉を続ける。蝉の声と日差しが全身を焦がす。港への石造りの路は、生卵を置けば卵焼きができそうなほど、熱くなっていた。
「首都は今、政治闘争のまっただ中にある。」
フランクの主張が正しいことは確かだった。
――だが、それが最善の策ではない。
ロキは首都へ送られるとしたら抵抗するだろう。その抵抗自体は大した問題ではない。問題は首都の動向と海賊達だ。
アイキは言葉を選ぶ。
「ロキはどうやら東方砂漠の民族の出身だという。しかも以前、リスナ海兵隊に所属していたことがある脱走兵だ。彼をニールに送れば、間違いなく覇権争いの道具に使われるだろうな。少なくともバジルにとって、私を糾弾するのにちょうどいいねたになるし、私を擁護していたジンジャー閣下の一派も打撃を受ける。東方戦線を拡大する口実になるかもしれない。」
フランクは黙った。バジルを快く思っていない上に、文官達の勢力争いにも反感を抱いているフランクにとって、いかに敵であったとはいえロキが政争の渦にさらされるのはいい気分がしないのだろう。東方戦線については、フランクがどう考えているのか、アイキはよく知らない。
「その上、もし、ロキを送れば、頭に危険が迫っていることをかぎつけて、船に押し込んである海賊達が暴れるかも知れない。船長は捕らえているけれども、やはり五十隻以上の船が一斉に暴動を起こしたら、リスナは危険だ。ロキをリスナに留めておくことは、あの荒くれどもを抑えておくために必要だと思う。どうだろう、フランク。」
軽く頭を振ると、フランクは顎を撫でた。
「確かにそれは一理あります。しかしそうすると、ロキを庇って事を起こすつもりかと、ニールの文官どもに総司令殿が疑われるのではありませんか?中央はその辺の機微が分からないのですから。」
「大丈夫。そこは上手く振る舞うつもりだ。」
フランクはそれ以上、食い下がらなかった。石畳から乾いた足音が響く。港へと向かう間、ロキの言葉が頭の中をぐるぐると回り続けていた。