□ 二七 □
「総司令に何をした?」
短い沈黙を打ち破り、リアが押し殺した声で尋ねた。アイキとフランクが出て行った執務室はやけにがらんとしている。
「何も。ただ話をしていただけだ。」
正面に立つリアを見据え、ロキは鼻で笑った。
「やきもちか?リア副指令。」
執務室の扉は重く閉ざされている。扉の向こうで控えているであろう警備の兵士達は、ひそりとも音を立てない。
挑発するように視線をあげるロキ。リアは苦々しげに舌打ちをする。
「どうした?」
リア自身、自分が必要以上に苛立っていることは自覚していた。普段なら舌打ちなどしない。少なくとも捕虜の前でそのような見苦しい姿はさらさない。
――やきもちか?
違うなら、否定すればいい。だが、リアにはそれを否定することができなかった。
「ようやく総司令が、私に一緒に死んでくれと言ってくださった。お前にその意味が分かるか?俺がどれほど嬉しかったか、分かるか?」
ようやく口を衝いて出たのはこんな言葉。
「間違いなく沈む船に囮として一緒に乗ってくれと。……他の誰でもなく、この私に、だ。」
「他の誰でもなく、この俺を殺すために、な。」
ロキの口元に無表情な笑みが浮かぶ。
「そう、分かっている。お前を殺すためだ。お前のために俺が呼ばれたんだ。」
悔しくはなかった。たとえロキを殺すのが目的であっても、そのために招かれたのが自分であることが何よりも嬉しかった。リアにとってそれは偽らざる真実である。
「俺は所詮、代用品に過ぎない。だが、それでも、総司令は俺に一緒に死んでくれと言って下さったんだ。」
リアの目にゆっくりと落ち着きが戻ってきた。こんなことを捕虜に言い募っても仕方がない。それはリア自身がよく分かっている。だが、それでも彼は口を開いた。
「総司令は、心から信頼した相手から二度、手ひどく裏切られている。それでも裏切らない者がいる。信頼に足る者がいる。そう思って頂けるだけで、俺には十分だ。……分かるか?俺の言いたいことが。」
まっすぐにロキの目を睨み付けると、苦笑しながら軽く片手を上げ、ロキがリアの言葉を遮った。
「安心しな。俺はお前の場所を奪ろうとしているわけじゃない。そんなことよりも、俺をどこかに連れて行かなくっちゃいけないんじゃなかったのか。」
――おしゃべりはおしまいだ。
ロキの言葉は言外にそう響き、リアは眉をひそめた。だが、確かに総司令の執務室で、いつまでも捕虜とムダなおしゃべりをしているわけにもいかない。顎でロキに立ち上がるように促すと、二人は黙ったまま部屋を出た。
総司令部の一番奥に、特殊な罪人を収容するための部屋がある。普段は使われることのない部屋である。リスナ勤めの長いリアでさえ、使うところを見るのは今日が初めてであった。その部屋は、貴族や高級官僚などを一時的に軟禁せざるをえないようなときに使うと聞いていた。監視せざるをえないが、粗末に扱えない「罪人」のための部屋である。窓や扉は脱出できないように厳重に造り上げられ、見張りの目も届きやすい。だが決して悪い環境ではない。アイキから、その部屋を使うと聞いたとき、リアはなるほどこういう使い道はあるものだなと妙に感心したものである。存在を知っていても、ことにつけ思い出すような部屋ではなかった。
長い廊下を、二人は口を利かずに歩いた。硬質な足音が規則正しく天井に響く。
警備の兵士が点々と立っている。総司令部の廊下にまで兵士が警備の目を光らせているのを見るのも、リアは初めてであった。
何組目かの兵士たちとすれ違い、彼らの敬礼に軽く応え、右腕をゆっくりと下ろしたとき、横を歩くロキが唐突に口を開いた。
「……アイキの隣にいるのはお前の務めだ。」
穏やかな言葉でロキは諭すように言った。
「俺にはそれはできない。それができるのはお前だけだ。」
リアは答えなかった。ふぅっと息をついて、ロキが続ける。
「言っておくが、俺はアイキを捨てちゃいない。ちょっと外で仕事があったから出て行ったけどな。こうやって戻ってきたじゃねぇか。アイキを捨てた国王とやらは、どうしようもない大馬鹿者だ。だがな、俺はあの女なら、大馬鹿者の陛下とやらだってその手に取り戻せると思っている。」
目的の部屋に着いた。リアが立ち止まる。真っ白い大きな扉を見上げ、ロキも立ち止まった。
「いずれ、お前はアイキにとって大切な副指令だ。他でもない、お前がな。」
リアは言葉を返さなかった。ただ、扉に寄りかかって、鍵を弄びながら、ロキの口元を見ていた。しばらくはリアの返答を待っていたロキが、薄く笑って言う。
「見ないうちに、アイキはつまらねぇ女になったな。それにお前は短気になった。」
「黙れ!お前が戻ってこなければ、俺はこんなに苛立ったりしなかった!」
「おい、落ち着けよ、リア。」
面白がるようにロキは目を見開いて見せる。無意識に弄んでいるらしい鍵束のぶつかり合う冷たい金属音だけが響く。
「何をしに戻ってきた?また総司令を裏切るためにか?」
リアは声を押し殺して、苛立ちを覆い隠すように低く尋ねた。そして、がちゃりと荒々しく扉を開いた。
「心外だな。俺は外で仕事を終えてきただけだ。」
目で促され、ロキはゆっくりと薄暗い部屋に足を踏み入れる。監視のために待機していたらしい兵士が駆け寄ってくるのをリアは目で制した。捕虜の不埒な言葉を兵士達に聞かせたくはなかった。厳しいリアの視線に少し狼狽した様子で、兵士はゆっくりと数歩後ずさる。
兵士が遠ざかったのを確認し、リアが視線をロキに戻すと、彼は話を続けた。
「アイキは分かっているはずだ。俺が何をしてきたか。」
「総司令にこれ以上近づくな。」
扉の頑丈さを軽く拳で確認するように叩きながら、今度はリアがロキの言葉を遮る。
「もし総司令に何かあったら、ただではすまされない。」
吐き捨てるようなリアの言葉にロキはさも楽しそうに目を細めた。だが、リアは一瞬彼を睨み付けただけで、そのまま、白い扉に手を掛け出て行こうとする。
「総司令殿は今夜も執務室にお泊まりか?」
厳しい表情でリアは振り返った。
「そんなことを聞いてどうする。」
ロキは答えずににやりと笑う。
「お前は捕虜だ。この部屋から許可なく出歩くことは許されない。」
「ふん、それは総司令のご命令か?」
揶揄するようなロキの表情に、リアは苛立ちを募らせる。
「リスナ海兵隊副指令リアの命令だ。これで不足か?」
「いや、不足はない。謹んで承ろう。だが、それなら総司令殿にこう伝えてくれ。早いうちにもう一度話をしたいと。さっきの話は本気だと。」
激しい音とともに扉が閉ざされた。
一人室内に残されたロキは大きな椅子に腰を下ろす。
――なるほど。確かに悪くない部屋だ。
腕を組んだまま、長く息を吐きながら天井を見上げた。夕闇が窓の外にまでやって来ていた。長い一日が終わろうとしている。
「お互い年を取ったもんだな。」
小さな独り言は、見張りの兵士にも届かず消える。ロキは目をつぶった。「おそばに置いて下さい。そうでないとリア副指令に怒られます。」
ラピスもルビーも、泣きそうな顔でそう言い張った。アイキを一人で総司令部に帰したと聞いて、
「お前達の忠誠心は飾り物か!」
リアにしては珍しく声を荒げて怒鳴りつけたらしい。アイキの指示通りに動いていたのにそのことで怒られるとは理不尽な、という思いもあったであろう。だが、その一方で、リアの言うとおりだと思っているらしかった。どうしてもラピスもルビーもアイキのそばを離れようとしない。
「ならば執務室まで送ってもらおうか。その後は早く自分の部屋に戻って休みなさい。また明日も朝から働いてもらわなくてはならないのだから。」
捕虜の確認を終えて港から帰る。白い街リスナの誇る石畳の大通りは、暮れかかった空の下、昼間の焼けるような熱は失われて、ひんやりとしたたたずまいを見せていた。
「部屋の前で交代で見張りをさせてください。夜も何があるか分かりません。」
「総司令部には警備兵がいる。それは心配しなくていい。」
「ですが、」
「私の部屋の警備は、リアの指示で特に強化してある。」
「ですが、」
アイキは少し、リアの心配性がうつってしまった双子に閉口していた。
「ラピス。ルビー。」
「はい!」
立ち止まり振り返れば、双子は声を揃えて返事をする。声の揃い方は、初めて出会ったときのままだった。
「私が雇ったのは護衛兵だったのか?秘書官ではなかったのか?」
双子は顔を見合わせた。
「警護の兵士ならば他にもいるが、私の秘書官は二人だけだ。私が無事に執務室に入ったのを見届けたら、もう、帰りなさい。その代わり、明日は夜明けとともに執務室に来なさい。いいね。」
双子はしばらくお互いの顔を見つめ合っていたが、神妙な表情で深く頷いた。静まりかえったリスナの町を、夜の色が覆っていた。港の喧噪もほとんど絶え果てて、昨夜から続いていた極度の緊張感から解放されて、双方の海の男達は、皆ぐったりと座り込んでいるに違いなかった。
――降伏するために戦場に現れた海賊達は、一体何を思って、今朝の夜明けを見ていたのだろう。
彼らとて、疲労の極にあるに違いなかった。一歩間違えれば、本当に戦いが始まるぎりぎりの賭をしていたのだ。たとえ数の上では圧倒的に海賊船が上であったと言っても、ビディア国一の海兵隊を相手に無傷で勝てるわけはない。
総司令部の薄暗い廊下に足音が響いた。疲れた体に、耳慣れた音がやけに心地よかった。
総司令の執務室の扉に寄りかかるようにして、リアが待っていた。疲れのせいか、リアは扉にもたれて腕を組んだまま、目を閉じていたが、アイキの足音を聞きつけると静かに顔を上げた。
「お疲れさまです。総司令。」
穏やかに執務室の扉を開け、アイキに続いて部屋に入る。
「ご苦労様。ゆっくり休みなさい。」
戸口で振り向いて別れを告げるアイキに、双子は帰っていいものかどうかと、リアの顔色を伺った。苦笑しながらもリアが軽く頷いてみせると、双子は静かに立ち去ってゆく。その後ろ姿を扉の間から確認してから、アイキは後ろ手に扉を閉め、ほつれた髪を掻き上げながら机に腰を下ろした。リアには椅子に座るよう、指で指し示す。
「まさか、もう一度、夜を迎えることになろうとは思ってもみなかったな。」
「そうですね。私も生きてリスナに帰るとは思いませんでしたよ。」
「すまない。リア。危険な目に遭わせてしまったな。」
リアは微笑んだ。
「いえ、光栄でしたよ。」
ロキの言葉を伝えるためにアイキの帰りを待っていたはずであったが、もう、その気も失せてしまった。リアは椅子に浅く座り、右腕でその顎を支えてアイキの表情を見やる。くたびれ果てたアイキの目元には、それでも充実感のようなものが漂っていた。
――総司令がつまらない女になっただと?あの男は何を見ているんだ。
リスナの誇る総司令である。この人こそが、リスナの誇りである。
ふとアイキの眼差しが硬い光に変わった。リアを真っ直ぐに見、少し厳しい調子で尋ねた。
「恐れ多いことだが、リア、もしお前が国王陛下であったなら、どうするか考えてみてくれ。」
「はい。」
アイキがリアを話し相手に、状況を整理するのは珍しいことではなかった。大概の場合、リアは相槌を打っていればよい。アイキは話をして行く中で自ら答えを見つけるのである。ゆっくりと話を聞くべく、リアは椅子に深く座り直した。
「今、リスナからロキという海賊の頭が送られてくる。ロキを殺せば五十三隻もの船と、乗組員を手中に収めることができるし、その頭を使って海賊達をまとめて使うことも可能だ。どうする?」
何を聞かれているか分かりかねた。確かに状況は分かるが、現実にはそんな単純なものでもない。だが、アイキはリアの返事がないことを気にする様子もなく、言葉を続ける。
「別の質問だ。リア、お前がもしバジルであったならどうする?」
「バジル閣下、ですか。」
「海賊の頭は東方蛮族の出身。彼の生殺与奪は自らの手の中にある。近々、東方戦線を何とか拡大し、砂漠地帯を手中に収めようと考えている。そういう状況で、ロキが送られてきたら?宿敵ジンジャー閣下の背後にリスナがあるとしたら?リスナを潰せば、ジンジャー勢力を潰せるとしたら?」
――ロキを首都へ送るかどうかで迷っているのか。
リアはようやく理解した。疲労で思うように働かない頭で、なんとかアイキの言葉を追いかける。
「ロキが送り込まれてくる。生かすも殺すも自分次第だ。バジルならどうする?」
アイキの指先が首筋に触れ、神経質そうに小刻みに首筋を叩く。こぼれ毛が指先に絡みつく。
「ロキを首都に送るのは危険だ、ということですか。」
穏やかな口調に戻って、リアが尋ねた。アイキの考えていることがようやく飲み込めた。首都の政局にロキが使われかねないことを恐れているのだ。しかもロキの海賊達が国王の軍隊や、バジルの配下に組み込まれれば、東方戦線に投入されることは間違いない。もちろん、易々と彼らの言うことを聞くようなロキではないだろうが、下手をすれば戦場に送り込まれるか、ビディアを捨てて出てゆくことになるかだろう。ロキをリスナから送り出せば、今は大人しくしている捕虜達が、急に騒ぎ出すことも考えられる。確かにロキをニールに送るのは考え物だ。
だが。
首都にロキを送らなければ、犯罪者を庇っているということになりかねない。陛下に対する反逆だと疑われかねない。ロキは曰く付きの犯罪者である。ロキの海賊達は、「逃亡中」もリスナ海兵隊とは決して戦おうとしなかった。もともとロキとリスナは繋がっているのではないかと疑われている。その上さらに捕らえたロキを庇ったという疑惑まで持たれたら……?
そこまで考えて、リアは姿勢を正した。ようやく、アイキが何を尋ねたのかを理解したのである。不思議と笑いがこみ上げてきた。
――今更ですよ。総司令。
真っ直ぐなアイキの目に真っ直ぐな視線を返す。
「総司令、私は貴女の部下です。他の誰でもない、貴女に忠誠を誓う者です。……答えはこれでよろしいでしょうか。」
――今更このようなことを確認するなんて、総司令も小心者だ。
――たとえ貴女が陛下に逆らったとしても、私は貴女についてゆく。当たり前じゃないですか。
――貴女と一緒に海に沈もうとしたこの哀れな中年男が、貴女を裏切るはずがない。そうでしょう?
リアの小さな笑いを受け取って、アイキもそっと微笑んだ。
「すまない、リア。ありがとう。」