□ 二八 □
翌日の昼飯時、アイキはルビーを連れて港へ通じる路を下りていった。ラピスは人手の足りないところに回っているはずだった。収容された捕虜達の様子を見るのも仕事のうちである。リアとコアの協議の上、彼らの無鉄砲な上司には護衛兵が付けられることになり、少しだけルビーは不機嫌であった。
「私の護衛では不足ですか?」
むくれたように呟くルビーに、アイキは苦笑する。
――心配性のお節介が多すぎる。
だがその温かさはやはり嬉しかった。
朝、執務室の寝床を出てから、アイキは立ちっぱなし、歩きっぱなしであった。先ほどムーンからすれ違いざまに受け取った昼食を食べながら、足早に港への石畳の坂を下っている。
総司令部の賄い方だけでは総動員されている兵士達と五十三隻分の海賊全ての食事など、賄いきれるはずもなく、三姉妹を初め手の空いている関係者は全員、日常の世話に追われていた。
――普段なら作法にうるさいルーンに怒られるな。これは。
さしものルーンも今日ばかりはアイキの行儀にまで目を向ける余裕はない。歩きながら食べているにしても、食べているだけマシというのが正直なところであった。
彼女達にまで負担を掛けていることを少し心苦しく思いながら、白い石畳の道をゆくと、港への路を少しそれたところに小さな牢獄がある。首都のものほど大規模ではないが、それでも五十三船の海賊船の船長達を収容することぐらいはできた。五人ずつ、檻の中に押し込まれた船長達は、今朝の報告では、随分大人しくしているらしい。
薄暗い、ところどころに水たまりがある廊下は、すえた臭いがする。湿った足音を聞きながら、次々に敬礼をしてみせる兵士達に笑顔を返して、アイキは奥へ向かった。ただでさえ湿度の高い夏の昼下がり、石造りのひんやりした壁は、冷たく汗をかいていた。
そんな陰湿な牢獄の奥から、場違いに甲高い声が、低い天井をこだまして耳に飛び込んでくる。
「ラピスか。」
アイキの言葉にルビーは露骨に嫌な顔をして頷いた。海賊達と何か言い争っているらしい。ラピスやトゥーンが賄いでここに来ているらしいとは聞いていた。だが、海賊とけんかをしているとは。呆れるやら驚くやらで黙り込んだルビーの肩を軽く叩き、アイキは奥をそっと覗き込んだ。
「もっと美味いもの、食わせろや。総司令様はもっと良いもん食ってんだろ?」
「失礼なことを言わないでよ!総司令だって、私達だって、みんな同じものを食べてるの!」
目の前の戸口をくぐれば捕虜達が収容されている区画が一望できる。だが、アイキは自分の手元の食べかけの弁当に目をやると、苦笑して立ち止まった。後ろに続くルビーや護衛兵を目で制し、口に指を当てて、静かにするよう命じる。
「おめぇみたいな、けばい女の作ったものが美味いわけあるかよ。」
その言葉に、ラピスは一瞬息を呑んだが、同時にトゥーンが吹き出し、そのまま声を立てて可笑しそうに笑い出した。
「ラピスは男だよ!」
ラピスと言い争っていた男は黙ってしまった。だが、一瞬、静まりかえった薄暗い牢獄にすぐに笑い声が弾けた。
「何だ、お前、男だったのか。じゃあ、総司令様も男だってことか。」
「それなら納得だ。どうもおかしいと思ってたんだ。あんな女、いるわけがねぇ。」
「ここじゃ、男と女が滅茶苦茶なんだな。」
笑い声の合間に、男達の品のない茶々が入る。
護衛兵が引きつった表情でアイキの顔を盗み見、ルビーは今にも奥に駆け込んでいきそう顔をしていた。
「気にするな。」
――ラピスと並んだら、確かに私が男でラピスが女に見えるんじゃないかな。
口に出してはしゃれにならない話だと思いつつ、アイキは口元に自然と笑みが浮かぶのを感じた。
――ふてぶてしく傲岸不遜。捕虜はやはりこうでなくてはね。
護衛の兵士にはその場で待つように命じ、ルビーを連れて、笑い声の一段落した牢獄に入っていく。
「アイキ様!」
初めに気づいたのはトゥーンだった。ちょうど今来たかのように装って、アイキは軽く手を挙げ、全員に挨拶を送る。
「何で、お弁当持ったまま歩いてるんですか。お行儀悪いですよ。ものを食べるときは座ってください。消化にも悪いんです!」
捕虜達の前であっても、トゥーンは気にする様子もなくアイキに文句を言った。はらはらした様子でルビーがトゥーンを軽く睨んだが、トゥーンはお構いなしである。
アイキは小さく笑って、傍らに転がっていたこきたない丸椅子を引き寄せる。慌ててラピスが椅子を拭こうとしたが、無頓着にアイキが腰を下ろす方が早かった。
牢獄は真ん中に通路があり、両側にはそう広くない部屋がいくつも並ぶ。鉄格子によって区切られているだけの造りである。中の様子が座ったままで見回せる。捕虜達も打ってかわって静まりかえり、アイキの様子をうかがっていた。
「捕虜とはいえ、自ら降ってくれた船長達にこれはあんまりな仕打ちだと思うが、急なことで、収容する場所も満足に用意できなかった。狭い場所に押し込めてしまってすまない。今、もう少しましな場所を準備しているところだ。すまないが、もう少し待っていてもらいたい。船の中で待機している皆の部下達も、すぐに何とかしようと思っている。」
彼らはアイキの言葉を真剣な眼差しで受け止めながらも、先ほどのラピスとの会話のようには気安く言葉を返してこなかった。もう一度見回す。そしてそのまま手にした弁当の残りを口に放り込む。捕虜達ははっとした様子で、顔を見合わせた。確かにアイキの弁当は海賊達の食べているものと同じであった。
「サナ、昨日から気になっていたんだが、その顔の傷、どうした。」
昨日の船長達の確認していったときには、疲れ果てた部下を早く休ませてやりたい一心で、事務的に全員の氏名を確認するだけしかしなかった。だが、今はむしろ、捕虜達と言葉を交わしたかった。言葉にしなくては分からないこともある。
サナの頬骨から顎にかけて、顔の左半分に残る深い傷は、十四年前にはなかったものであった。陽気な口調は何一つ変わらないのに、その傷のために表情はいつもどこか不機嫌そうに引きつってしまっている。
「ああ。三年前ぐらいかな、ちょっとしくじってね。」
やや奥まった牢にくつろいだ様子で座っていたサナが、小さく目を上げる。
「おかげで左耳がすっかりいかれちゃって、今じゃほとんど聞こえない。一応、右耳が聞こえるから、不自由はないけどね。」
「耳までやられているのか。ひどい傷だったんだな。」
アイキの言葉に、サナは目を見開き肩をすくめて見せた。仕草は昔通りであったが、表情は傷のせいか不自然に歪んだ。
「トゥルイ、だったな。」
アイキの座っていたところから一番近い牢の奥に、ひっそりと佇んでいた男が、アイキに呼ばれて驚いたように顔を上げた。
「昨日、会ったときに、知っているとは思ったんだ。今朝になって思い出した。七年前、海峡付近で私に捕まったことがあったな。ビルっていう海賊の部下で。」
「よくご記憶で。」
鼻にかかった低い声で、男は答えた。今朝、ルビーにここ十年間の書類を全て漁らせて、トゥルイの名を探し出した。間違いなくこの男は一度、リスナ海兵隊に捕まっている。それを確かめたかった。
軍に捕らえられた下っ端の海賊は、軍に所属するか足を洗って堅気の仕事に戻るか、いずれかである。トゥルイは漁師に戻ったはずだった。少なくとも書類の上ではそうなっていた。
その男が、海賊稼業に戻り、また捕らえられてここにいる。しかもロキの部下の船長として。
彼の身に何があったのか、聞かなくてはならないと思った。
「海賊をやめて、村に戻って漁師になると、そう約束した。そうだったな?」
男は薄く笑って頷いた。
「あのときは本気でそう誓いましたよ。でも、もうどうしようもないもんなんですよ。」
「どうしようもない?」
男は訥々と語る。何とか言葉を引き出そうと、アイキは椅子を傾けて、男の方へと身を乗り出した。
「海賊やめたって言っても、村の連中から見れば、あいつは海賊だった男だ、っていうのは変わらないじゃねぇっすか。海賊は嫌いだから、とっととやめてくれって思うけど、だからってやめた人間に、隣に越して来られちゃ困る。そりゃ、俺だって分かりますよ。俺だって、普通に生きてりゃ、そう考えたに違いねぇ。俺にゃ、結局、帰る場所がなかった。じゃ死ぬしかねぇかって思った。そしたらね、帰る場所を見付けたんです。そりゃ、海賊の帰る場所は、海賊船しかない。当たり前のことでしたよ。ただそれだけ。」
「そうか。」
アイキは視線を落とした。分かり切ったことであったが、それでも心臓を鷲掴みにされたような気がした。
帰る場所のない者に、家に帰れと言うのは簡単だ。だが簡単なだけだ。何の解決にもなっていない。
「でもね、総司令、俺ぁ、嬉しかったんすよ。こんなできそこない、覚えててもらって。」
気を遣うように男が言った。
――どうしてこんな不器用に優しい男に、帰る場所がないのだろうか。
――ロキの作った海賊船団は、この男のために帰る場所になったのだろうか。
――そして今、この男は牢獄にいる。
「すまない。」
男は黙って頭を振った。そしてそのまま床にあぐらを組んで座った。話はこれで終わり、そう告げているような仕草であった。
いつまでも牢獄で海賊達と昔話をしているわけにもいかない。トゥルイが話を打ち切ったのを期に、アイキも立ち上がった。
「ラピス、すまないが、一時間ぐらいしたら執務室に来てくれられるか。」
「はい。」
ラピスに一言指示を出し、ルビーを伴って歩き出そうとしたとき、廊下を高い足音が渡ってくるのに気付く。すぐにコアが姿を見せた。
「ここにおいででしたか。総司令殿、知事殿がお呼びです。」
ほっとしたように告げるコア。副指令が自ら人を探し回っているほどに、どこもかしこもそうとうの人手不足であった。
「あぁ、すまない。今行く。」
アイキが立ち去った背を追って歩き出したコアを、陽気な声が呼び止めた。
「おい、副指令!ちょっと待ってくれよ。」
カツリ、と足音が止まる。
「俺はあんたに謝らなきゃいけないんだ。」
「サナ、お前、その傷、」
ゆっくりと声の方に目を向けたコアが、はっと眉をひそめた。サナは自分の手で傷を撫で、小さく自嘲気味に笑ったが、真っ直ぐな目をコアに向けた。
「あの日のこと。謝らなきゃいけねぇ。俺があんなにぶち切れた理由、ロキ隊がリスナ離れた理由。お前にはきちんと説明して謝らなきゃいけねぇって思ってた。」
十四年前、ロキの海賊達が一斉にリスナから逃亡する前日に、知事主催の宴の席上で、コアはサナと大げんかをしている。大げんかというと語弊があるだろうか。唐突に逆上したサナがコアを相手に暴れ出したのである。
「お前は本気で俺を恨んでいるんじゃないかと不安だった。だけど、もうそんなことはどうでもいい気がしてきたよ。リスナは無事だ。お前も……生きている。お前はリスナに来たんじゃない。理由があって離れていたけれど、今、リスナに帰ってきた。そうなんだろう?」
――お前を傷付けたのでなければ、それで良かったんだ。
どうしてこんなに穏やかな気持ちになれたのか、コア自身も分からなかった。昨日の決戦を前に、死を覚悟したせいかもしれない。サナに対する怒りも苛立ちもすでに全部消え失せていた。
サナが暴れたのは、コアのせいではない。彼らには、リスナを捨てる理由が必要だったのだ。
――俺達は陸の上に住めねぇ。
あの日、サナが叫んだのは、住み心地が良くなる前にリスナを飛び出していかねばならない、と自らを奮い立たせるためだったのかもしれない。たとえそれが建前だったとしても。
「随分、強くなったじゃねぇか。さすがはケツァル副指令の後継者だな。」
コアはロキとほぼ同世代であり、サナよりは十歳以上年上であった。だが、頬の傷のせいか、老けて見えるサナと比べると、今ではどちらが年上か分からない。
「なぁ、コア。俺達には帰る場所がないんだ。海賊船の上にしか帰る場所がない奴が、不器用で頭の悪い奴がたくさんいるんだ。俺達があの日、リスナを出ていったのは、リスナに俺達の居場所がなかったからじゃない。世界には帰る場所がない奴がいっぱいいる。お嬢ちゃんならそいつらを受け入れてくれる。帰る場所のない馬鹿な奴らは、きっと居場所をくれるお嬢ちゃんのために必死で働く。お嬢ちゃんにとっても、居場所のない海賊にとっても、それは絶対に良いことだ。だから頭はお嬢ちゃんのために……リスナを捨てた。」
「総司令のために……。」
「お嬢ちゃんは、海賊も同じ陸に住めるように、まっとうな生活ができるように、なんて夢みたいなこと、考えていた。今でも考えてるだろ?そんなのは無茶だ。それは俺達が誰よりよく知っている。」
そう言って、サナはちらりとトゥルイに目をやった。トゥルイは俯いたまま小さく頷く。
「でもよ、俺は嬉しかったんだ。夢でも無茶でも、海賊だって同じ人間なんだって言ってくれる奴が、そっち側……陸の上にいるっていうの。俺には嬉しかった。」
コアは、アイキが海賊を更生させようとしているとは考えていなかった。更生というほどのことはしていない。ただ、頭だけ処罰する。下っ端達はそのままどこへでも行けばいい。それがビディア国の方針であったし、アイキもそれ以上のことはしていないはずであった。
だが、サナは違った。サナはコアとは違う目でアイキを信じていた。
「ティルを覚えてるか?」
突然サナが話題を変える。サナの後ろを付いて歩いていた少年ティル。彼のことはコアも良く記憶していた。
「あいつ、病気でさ、いきなり死んじまった。でも死ぬときまで、総司令の元に帰るんだって、総司令は絶対、海賊の味方だって言い張ってた。あいつは馬鹿だったからさ、何度も頭に喧嘩を売って、どうしても総司令に謝りに行かせようとしていた。」
独り言のようにサナは続けた。
「なのによ。あいつ、本当の馬鹿でよ。二ヶ月くらい前かな、急に流行り病なんか背負い込んで、あっさり死んじまったんだ。死ぬ前の日まで、本当に一つ覚えって奴で、ずっと総司令のところに帰るんだって言い続けてさ。ティルにとっちゃ、帰るところだったんだ。他のどこでもない。ここが、さ。」
牢獄の一番奥で壁を叩く音がした。一人で部屋を占領している大男が、腕を振り回して、壁を殴りつけたらしい。振り向いたコアと目が合ったその巨漢は、この海賊団の二番手の地位にあるダールであった。
かちゃり。
皿を片づけていたトゥーンの嗚咽が、皿のぶつかり合う音に混じる。三姉妹の末娘、トゥーンは、弟のようにティルを可愛がっていた。サナがゆっくりと目を上げた。
「人間なんて、誰だって死ぬまでしか生きらんねぇんだ。」
サナの声も押し殺したような、痛々しい響きがあった。トゥーンは皿をいっぺんに重ねると、歯を食いしばって抱えた。それが皿の重みのせいであるのかどうかは分からなかった。しばらくは天井の低い石造りの建物の中を、皿の小さくぶつかり合う音ばかりが、聞こえていた。